浅香入の歴史と伝承

編者 齋藤朝男       ari.gif (148 バイト)←戻る

 浅香入地区における、歴史や文化などについて、過去にどのような経過があり、現在に至っているのか見究めながら、筆を進めてみたいと思います。

 最初に、額部地域全体の遺跡などについて考えてみますと・・・

 今から約四〇〇〇年前頃の遺跡、すなわち「縄文時代」中期から「弥生時代」「古墳時代」までの遺跡が、発掘調査により判明しています。特に、坂車の東丘陵地の観音山遺跡は、戦国時代までの掘り割りなどの痕跡が、国の重要文化財の指定を受けています。また、野上地区の東丘陵地にも、土地改良事業の折、「弥生時代」の集団生活の跡地が発見されました。これは削戸・西平遺跡として史跡に残ると思います。当時利用された石器や土器も多数発見されています。その他「北山茶臼山古墳」や「北山茶臼山西古墳」などは、古墳時代初期の首長の墳墓として造営された、実に貴重な文化遺産ではないでしょうか。

 この様に、額部の主な丘陵地からは、様々な遺跡が発見されています。当時の人々が、厳しい自然環境の中で集団生活を営むには、大変な苦労があったと思います。外敵から身を守りながらの「食糧の獲得」「物資の調達」「社会的文化的活動」など、集落の主を中心に祭紀などで結束を計り、生活安定のための共同作業を行って、成り立っていたのではないでしょうか。

 ここで参考までに、当時の人々の寿命について説明しておきます。

 「縄文時代」は人生四〇年と言われ、日本全国での人口は五〇万人と言います。「弥生時代」は人生四五年で、人口は二〇〇万〜三〇〇万人と、急激な増加があったと言われています。この人口増加の原因については、「弥生時代」に至って米や麦などの作物の栽培が可能となり生活が安定したことと、外国からの集団移住などによる、と古文書に記されています。「戦国時代」は人生五〇年と言われています。この時代の日本全国の人口はよくわかりませんが、江戸時代の江戸(現東京)の人口は一〇〇万人と文献に記されています。

 前置きが長くなりました。浅香入地区の文化遺産については、後程詳しく紹介致しますが、江戸時代中期(一七〇〇年代)頃からの「石仏」や「石像物」「石碑」など、多くの祈願奉願があるので、この点について触れてみたいと思います。

 天明三年(一七八三年)に浅間山の大噴火があり、農作物の大凶作のために米価は高騰し、米倉の打ち壊しや物品の略奪などの世相不安、災害による疫病の発生など、住民生活は大変な困難に直面しました。この危機以後、仏教の布教が盛んになったと考えられます。というのは、浅香入地区の石宮、石像等は、その殆どが寛政年間(一七八九年)より享和年間(一八〇一年)にかけて建立を見ているからです。

 この度、以上の観点から、さかのぼること二五〇年に及ぶ各種催事や伝記など、歴史的に価値ある文化遺産を、浅香入地区の皆様に理解と協力を頂き、まとめることができました。

 なお、文献が乏しく、内容等について正確に把握できずに、主観や私見で執筆した部分も多々ございますが、ご容赦いただき、この資料を皆様の参考書として、文化の灯を消さぬ様、切に願う次第です。

(注)今回執筆に当たり、石像物の人名や文字の自然風化(消える)現象があるため、遺産としての保存目的の為に銘記させて頂きました。

 最後に、執筆の協力者でお世話になった下記の方々に、心から厚くお礼申し上げます。

斎藤伊勢雄 高間真太郎 高橋秀夫 斎藤忠雄 斎藤明信の諸氏

平成九年九月吉日    執筆者 齋藤朝男

目 次

一 不動堂の例祭

二 鹿島神社の例祭

三 弘法様の例祭

四 梵天奉納祭

五 浅香入城跡と浅香入という地名

六 薬師堂とその周辺

七 石宮・石像物の存在

八 浅香入部落の風習

九 浅香入八木節保存会の歩み

十 その他各種伝承話

一 不動堂の例祭

 涸沢部落の南東約五〇〇m、滝沢谷津の奥に不動堂があります。このお堂は裏山の自然岩山に抱かれ、前方には高さ二〇mのお滝もあるという好条件の場所にあります。不動堂隣地に享和元酉年(一八〇一年)一二月吉日と銘記の「寒念佛供用塔」があり、信仰者が熱心に念仏を唱えながら参ったものと思われます。この不動堂の祭礼は毎年正月二十八日と決まっています。この祠の歴史は定かでありませんが、不動堂手前一五m地点に、二〇〇年以上経た御神木の大杉が二本あり、大体の年数は分かるのではないかと考えられます。祠の中の不動明王本体は堅質による石型が一体(高さ六〇p)、その他木型が二体、合計三体が収められています。

 いったい不動明王とは何を意味しているのでしょうか。仏が悟りを開いた時、悪魔を降伏させたと言います。明王本体は「念怒相」で右手に降魔の利剣を握り、左手に「悪逆無道」を捕縛する綱を持ち、火焔を背負い人を威圧し、仏法に導く姿で「怨敵退散」「地域鎮護」、特に個人の守護としての信仰を一心に受けてきたと聞いています。 不動様の御札は「火災除」「家内安全」「交通安全」などがあります。昔は、農業収入の中で最も高かった「養蚕」の御札もあったと聞きます。

 現在でも、浅香入全地域の守護神として祀られ、伝統的行事として受け継がれています。

 なぜ祭日の変更がなく、毎年一月二十八日なのか、文献もなく不明ですが、終い正月の最後に地域の一年間の災害除と豊作祈願が含まれているものと思われます。

 

◎梵鐘について(梵鐘には願主名と寄願年月が記されています。)

 上野の国甘楽郡後ケ村 龍沢不動堂堂主 山
 願主 宮前懇衛門 原田市兵衛 高間八兵衛 斎藤元吉
   寛政七年(一七九七年)卯年十月吉日
 施主 惣村中(寄贈は地域全体によるものと思われます)

 最後に、祭礼に直接参加する方達を紹介しましょう。

◎祭り世話人
・昔は各部落ごとに二名の役員を選出、代表世話人を互  選し運営に当たりました。現在は区長さんを中心に、各組長さんが世話人となります。

◎宮番制度
・毎年周り番で、四名の人達が祭日の当番にあたります。

 

二 鹿島神社の例祭

 鹿島神社の社祠は、浅香入地域が一望できる南西部の小高い山(鹿島山)の頂上に鎮座し、常に地域全住民を鎮守しているかのようです。鹿島神社の奉社歴は定かでありませんが、神前にある灯籠には次の様に銘記されています。

「奉納御堂前」 宝歴九巳夘(一七五九年)十月吉日
        施主 四区中

 例祭は毎年四月十五日に決まっています。参拝者は、額部公民館館長、額部神社総代四名の方々、地元の区長さんと組長・各種団体代表者などです。

 鹿島神社は、浅香入地区の文化遺産としては古く、小幡藩主織田信右の時代、武士の出陣を祈願していたとの説もあります。

 かつての神社合併時、鹿島神社も額部神社に一時合社しますが、その後浅香入地区内において疫病が発生し、当時の区長さんなどの計らいで、本家帰りとなり、昔通りの祭社様となりました。現在の登り口の石段は、社祠移動時に浅香入地区全員の労力奉仕により、積み重ねたと聞いています。いずれにしても、鹿島神社が浅香入地区の鎮守の神様として祀られ、住民がいつまでも安心して生活できる様、願って止みません。

 なお、鹿島神社の社歴は、浅香入地区として一番古く、他の石像物や不動堂よりも四十年位前に建立されたようです。

 

三 弘法様の例祭

 不動堂前の滝上から尾根つたいに三〇m程登り平地に達するまでの、急坂の各コーナ毎、台石二個の上に、わらじと弘法様の石像が九個置かれ、平地には台石に個人名・団体名など記され、同じく弘法様の石像が横に配列よく並んでいます。

 急坂の部分に寄贈者名が刻んであります。判別の方達について第一番から記名していきますと、

 第一村   斎藤清太郎
 第二村   斎藤利蔵
 第三村   宮前金弥
 第四村連名 下山甚助 下山清五郎 下山平兵衛
       下山平佐エ門 下山源七
 第五大村  氏名不明
 第六小幡  高橋権七
 第七村   宮前兵之助
 第八岡本村連名 三田喜大夫 三田繁八
 第九    氏名不明

 次に平地の石像物の寄贈者名を記名します。
連名の方々もありますが、右側より順次書いていきます。

 村   高間八兵衛 高間八之助 高間半之助 茂木八十助 原田称左門
     原田徳治郎 原田弥五郎
 内匠村 湯浅新左門
 村連名 茂木甚兵衛 茂木源太郎 茂木松之助 宮前治松 宮前亦蔵
 大村  原田市五郎 原田貞三 斎藤(不明)
 中村  高橋仙治
 村   宮前与左エ門
 大村  須原彦助  国峯村 関口勘七
 村   茂木なか   村  宮前嘉平治

 村の地名について、江戸時代は後ケ村と称し、村としては浅香入地区内の人達、大村とは現在の南後箇区(浅香入を除く)の人達と察します。他地区の人達は高瀬の内匠、甘楽町の小幡、国峯、などで、中村とあるのは、南後箇区の中北地区と考えられます。

 この弘法様の例祭は、四月二十一日と聞きますが、次の様な伝説があります。祭礼日に誕生の子どもは、学力優秀で健やかに育つと言われています。また当日は、地域の人達が寄り合って弘法様に因んで句歌会を催し、夜間には石像物の石上に灯明を立て、楽しみながら学んだと聞きます。なお、一つの石宮の台石には、寛政十戌年十一月吉日(一七九六年)の日付が刻み込まれています。

 では、なぜこの地に弘法様なのか、古老や信仰者から聞いた話によると、弘法伝説は、学問と水とに関係が深かったようです。

 昔、空海(弘法大師)というお坊さんが、比叡山延暦寺に修行中、天皇に認められ命により支那(現中国)で十年間、文筆などを学び、帰国後日本各地を巡回しながら、水問題や学問について、民衆教化のため熱心に行脚したということで、浅香入にも水や学問に関する弘法伝説が一つあります。

 弘法様が説法の途中、涸沢地内のある家に立ち寄って水乞いをしたところ、「自分の家の飲み水にも事欠くのに、他人様を潤す水はない。」と断わられたと言います。弘法様は仕方なく、山越えのため浅香入山の峰城下というところで休み、涸沢方面を振り返りながら持参の杖で大地を一突きしたところ、水が湧き出て喉を潤し、立ち去ったという説が残っています。今でも峰城下の一杯水として利用者が多く、感謝されています。この一杯水の湧き水や地下水を利用して、昭和二年に群馬県最古の簡易水道が開設され、涸沢地区を中心に中平地区まで五十数戸の生活用水として恩恵をうけ、今でも大切に管理保存されています。

 この様な弘法伝説があります。江戸時代中期頃の先住民の方々の信仰心の強さに、今更ながら感動するものです。

 

四 梵天奉納祭

 梵天上納場所として、不動堂前の滝上から弘法様の石像地点を尾根つたいに一五〇mの所に、昔から五本松の古木があり、奉納木として利用していました。近年は、五本松の枯死のため、隣地の樹木に変更となっています。

 梵天奉納祭は十月十六日と決めていましたが、近年は十六日前後の日曜日に行っています。

 明治の初めころ、浅香入地区に甘楽町笹地区より神楽舞を導入し、秋の祭礼に備え、一ヶ月前から地域内各戸を巡りながら成果を披露し、親睦を図ったと言います。

 大正時代に移ってからは、八木節も導入され、神楽舞と共演し一層花を添えたと聞きます。十六日の午前中「神楽」「八木節」の物揃を実行し、午後舞台の後片付けと梵天奉納組とに別れ、作業を実施したと聞いています。

 梵天奉納祭のいわれや、目的について、古文書や文献もなく不明ですが、先代から聞いたところでは、「梵天王」(仏教の守護神で俗界を離れた清浄の世界を司る)への信仰と「悪病除け」と「五穀豊穣」の祈願だといいます。

 梵天造りの主な準備を、参考までに記します。長さ一五mの竹竿一本、紙一切張、御幣束四十本位。竹竿の先端に麦わらを束ね取り付け、束ねた個所に御幣束を差し込み終了。そして現地に運び樹木に直立として荒縄で結束(数個所)するのが奉納です。

 奉納地付近からは、妙義・榛名・赤城の上毛三山が遠望でき、誠に素晴らしい景観です。

 また、安中市や妙義町方面からも奉納祭の御幣束が見えると聞きます。遠方に住んでいる村内出身者は、この故郷の行事を懐かしく眺めながら、「いよいよ秋の収穫季となり忙しくなるんだなぁ」と言っていたと聞いたことがあります。

 

 

五 浅香入城跡と浅香入という地名

 額部神社の社祀から南方向の尾根つたいに登ること五〇〇mほど、大口集落西方の標高三〇〇mの高台に浅香入城跡がありました。この城跡は、今から五〇〇年前頃の戦国時代のもので、砦ではないかと推定されています。戦略的に非常に重要視された場所で、西方に西平城、塩名田城、東北方面には内匠城、南東方面に峯城、そして東方面には当時西上州最高の権力を持っていた国峯城があり、浅香入城は近在の城と常に連係の保てる位置にあったわけです。

 ここで国峯城の成立について記述しておきたいと思います。歴史資料によると、小幡一族は鎌倉時代前期(一二八〇年)頃の豪族で、初代の甘楽郡司であったと言います。その後国峯城主となり、戦国時代末期には西上州地域の首領として権力を振るい、砦や出城を含め六十余州を手中に収めたと言います。後に国峯城主「小幡尾張守憲重」の嫡男で「上総介信真」時代には甲斐の国武田信玄公の直系、武田二十勇士の一武将として活躍したとあります。

 浅香入城も、当然国峯城の支配下にあり、代々に亘って砦として役割を果たしていたと思います。

 ここで浅香入という地名について考えてみたいと思いますが、なぜ国峯城に触れたかといいますと、次の様な関係があったと思うからです。戦国時代も終わりに近づき、甲斐の武田一族が滅び、世は織田信長、豊臣秀吉時代。この連合軍が西上州に進攻し、国峯城を三万の大軍を率いて攻め落としたと言います。この折に連合軍の一万五千人が額部地域を通過し、後ケ村から大塩を経て国峯村に攻め入り、残る一万五千人の連合軍は田篠方面から善慶寺を経て国峯に攻め入ったとの伝説があります。

 当時の浅香入城主(浅香弾正守)は戦況不利と察知し素早く遁走を考え、涸沢集落を経て秋畑村の那須地区に落ち延びたと言います。この時大口集落から丸中・涸沢谷津を通過した浅香様に因んで浅香入を命名したと聞きます。

 他の伝説によると、昔、平家の落人が当地に住み、浅香姓を名乗っていましたが、事情があってやはり秋畑の那須に住居を移転したと言います。その折、涸沢谷津に入ったとの話で、浅香入と呼ぶようになったとの地名説もあります。

 

六 薬師堂とその周辺

 薬師堂、現在は涸沢部落の上の平地内の道路沿いに安置されています。薬師堂建立は江戸時代と思いますが、よく分かっていません。由来については、次のような伝説あります。

 薬師とは医師と同じ意味で、薬師如来の略であり、生物の災厄病気を救う仏であるといいます。その他、薬師様には、眼病の人がお詣りするといいます。昔、目の悪い人が願かけをした際、年齢の数だけ「め」の守をかいてあげたり、願を果たせるように松こごりを年齢の数だけ糸でくぐってあげたと言います。お堂の中の棚上に、薬師如来像(銀箔)木像本体が置かれています。

 土間には、昔土葬用として使用した興が一基備品として残してあり、他に小道具が五点程ありますが、現在は火葬場で神霊となるため、利用されていません。なお、薬師堂西側道路沿いに、石像や石碑がありますが、自然風化が著しいので年表や寄贈者名が判別しにくくなっています。向かって右側から順次記述してみます。

◎庚申塔  寛政一二年(一八〇〇年)奉(本願主)
       申年四月吉日 當中 とあります。

 庚申塔とは、仏法を強くし、堅く守る二伸の神。

 十二支の庚申(かのえさる)の夜に行う民間の信仰の一つ。こんな説もあります。六十日に一回巡ってくる、体内に巣くう「欲望」「さんしのむし」が、庚申の夜に昇天すると不幸になると信じられた事から、人々は虫が出るのを妨げるため徹夜したといいます。地元の皆様の寄贈らしいです。

◎観音様

 表側は文字はありません。裏側に「門品二万巻」とあります。

 表側から見ると、大きな台石の上にハスの花模様があり、その上に観音様が安置されています。この様な大きな観音様は信州高遠の石工による作品と言われ、実に立派な細工と感心します。

 なお、この観音様は、知恵・勇気・慈悲と三つの徳の象徴であり、自分自身の真実の姿と言います。

 刻年字なし

◎念佛供用塔(刻字なし)

 念佛とは、仏を信仰して仏名(南無阿弥陀仏)を唱えることで、一心に念佛を唱えて極楽往生を求めようとする宗派の意味あいらしいです。

◎奉納紗經榑桑供養塔

 天下泰平安永9(一七八〇年)庚子年
 願主 原田甚内 日月清明十一月二十五日 とあります。

 紗經榑桑とは、地上世界すなわち世の中の平和への願いと言う意味です。

◎石碑

 宝永寅年五月吉日 敬白とあり

 石碑の上層部に「ボン字」が記され、その下に南無阿弥陀仏とありますが、この石碑の意味は身命を捧げて仏の教えに従います、とのことと言います。

◎その他の石像物が二、三体あり、道祖神らしいです。

 道祖神は、村の入口などにたたずみ、旅人の安全を守り、外部から侵入する疫病や悪霊を防ぎ、村人の安全を守ったと言います。正月の行事として、道祖神の周辺で飾り物などのドンド焼を行い(昭和三十七年頃まで)、一年間の家内安全、豊作と無病息災を祈ったとのことです。

 男女双体像は、男女の営みを表現し、和合の大切さを後世の人々に教えているとの説もあります。当然、子宝が授かるようにという願いでもあったと言います。

 

七 石宮・石像物の存在

◎大口部落の旧道(田沢〜岩染線)の道沿いに次の五個の石像物が安置されています。

  寒念佛供用塔  道祖神  庚申塔  観世音  供用塔

 いずれの石像にも刻年は見つかりません。この石像物も、浅香入地区内にある他のものと同年代(江戸時代)のものと思われます。

 当時仏教の布行が盛んとなり、集落の人々が仏教を通じて人間の救済を祈願し、そして総体的な安全を念じる目的のものではないでしょうか。

◎市道 田沢ー浅香入線で丸中部落の道沿いに石像が三個あります。

 二つの像は、道祖神らしいのですが、刻年は不明です。残る一像は観世音菩薩で、願主宮前五郎衛とありますが、刻年は不明です。観世音菩薩は、人間の顔と声のすべてを見分け、自在に救済してくれると言います。同時に仏道を広め私達を善導する役割をになっていると言います。

◎南無観世音菩薩

 丸中部落から暮沢峠越えの市道南側の石垣上の石碑です。

  寛政十八年(一七九八年)九月吉日 とあります。

  寄贈者不明

 左下方に念仏供用塔があります。

 南無観世音菩薩とは、人間がいろいろの苦悩を受けたとき、この観世音菩薩の名を聞いて一心にその名を唱えると、観世音菩薩はすぐその音声を聞き分けて解脱させて下さると言います。

◎馬頭観世音碑

 鹿島神社登り口の石段下にあります

  明治二十七年申年十二月吉日 當所馬連者建立 とあります。

  (馬連者の寄贈で、何名かの人々により建立した供養塔)

 馬頭観世音とは、牛馬の安全祈願を見守る、大切な観音様といいます。

 馬頭観音と書いてあるものもありますが、当時牛馬は農耕用・交通手段としても庶民の味方で、重要な役割を果たしていて、他地区においても見受けられます。馬などが事故にあい、死亡した場合の現場に建立碑なども見かけます。

◎道祖神(石碑)

 西涸沢部落の涸沢川左側上部(旧道上)にあります。

  文久二年(一八六三年)正月吉日當所氏子 とあります。

 この道祖神は他の道祖神と文字の違いがありますが、目的は同一と思います。旅人の安全、道案内のほか、屋敷神、魔除の神、作神の対象で、悪い子を導いてくれる信仰とも聞きます。現在の交通安全祈願でもあります。

◎馬頭観世音

 下涸沢部落の道沿いにあり、次のように記されています。高間家個人の供養塔と思われます。

  昭和七壬申年七月吉日 馬頭観世音 高間氏

 

八 浅香入部落の風習

◎宮前家の先祖祭り

 丸中部落の市道沿いに御宮が建っています。

  灯籠に 寛政十年(一八〇〇年)
     戌年十一月吉日 燈明 奉納御神 とあります。

 江戸時代、宮前家の先祖が多野郡万場町から当地に移住されたと聞きます。

 この御宮の祭礼は一年に一度、関係一族により、酒や供物をして参拝し、結束を計ったといいます。その他、宮前家の先代の人で、明治初期に当地方で初期キリスト教を学び伝道したという資料もあります。

◎涸沢の観音堂

 涸沢公会堂前方に卍印でトタンぶき屋根の観音堂が建っています。石灯籠に、

  寛政八(一七九六)丙辰
  七月二十六日 當 氏子中 とあります。

 この観音堂の中には、衣をまとった仏像が二体安置されています。また、男女の表現と思われる石も二個程置いてあります。

 観音様には色々な伝説がありますが、当観音堂は知恵と慈悲と勇気の三つの徳の象徴といわれます。特に慈悲深さが強く、女性観音ではという説もあり、また、観音様が左手に桑の葉を持っている姿で安置されているため、養蚕の神様ともいいます。

 祭日は、八月十日で、この祭神により蚕が当たるといい、縁日は非常に賑やかで、昭和初期までは多数の夜店が並んでいたといいます。

 また祭日には、若い男女が近村から寄ってきて、浅香入の人達は眠れない程であったと言います。ここで結ばれて夫婦になりますと、蚕が当たるとも言われました。

◎八幡様の祭礼

 浅香入でも何ヶ所か、八幡様の祭礼を行っていますが、これは自分たちの家系を大切に重んずるため、秋の満月の夜を祭礼日と定めたと聞きます。

 涸沢の斎藤家では太鼓があって、斎藤マケだけでたたく風習がありましたが、修理費を部落で出費し、以降みなで用いる様になったと聞きます。

 「弓矢の神」・・・軍の神で、八幡大神に誓ってうそは申さぬという説もあります。

◎大口部落の祭事

 大口部落には、昔から次の三社神祭が毎年の行事として執り行われています。

  山の神  金比羅様  弁天様

 四月八日を祭礼日と定め行われてきましたが、勤め人などの関係で、最近は四月八日前後の日曜日となったと聞きます。

昔の各祭礼日や場所由来について説明します。

◇弁天様

 部落内南西部の湧水地に鎮座されています。昔は立派なお宮があったとのことですが、明治四十三年の大水で流されてしまい、木祠を作ったものの再び流され、現在の石宮となったそうです。水神様を祀ったものと思います。

 昔、小幡藩から茶湯の水を汲みに来たといいます。一年中水が絶えたことなく、どんな干ばつでも水涸れはありません。年一回女衆が巳待ちをします。秋の巳の日の前日に行います。昔は小豆をゆでていたのが、餅をつくようになりました。宿は回り番でオコモリはしません。弁天様は女の神様でした。この水口(水源地)は用水として二六町歩を潤していたといいます。冬でも凍ったことなく利用されていたようです。刻名は不明です。

◇山の神

 場所は大口部落の浅香入城跡の中腹で、岩の間に鎮座されています。石宮があります。刻名は不明です。

 山仕事をして怪我をしないように守ってくれる神様で、昔は杉の大木が石宮の近くにあったといいます。そして一月五日の山入の日に、村人各人がキリハギお頭つきをしんぜます。竹でお樽を作り、酒を入れ、水引で二つしぼり合わせてつるします。この様にして山の神を祀ったと言います。
・山仕事とは、昭和三十五年頃まで、燃料として使われてきたマキ・スミ・ボヤなどの雑木を伐採する作業のことです。

◇金比羅様

 浅香入城跡近くの崖上に鎮座する石宮です。刻名はありません。そばにお天狗様の石宮が二基あります。この祭礼は四月八日で御幣束・シメを飾り、部落全員で祭り共飯食をします。

 

九 浅香入八木節保存会の歩み

 当浅香入八木節は、大正末期に市内中高瀬地区の方々から指導を受けて普及しました。当時の世相は娯楽が少なく、八木節が急速に地域の若い人達の関心を呼び、猛練習を重ねたと聞きます。そして群馬県西毛地区八木節大会に参加し、見事優勝の栄誉に輝きました。その後戦争などの影響で一時中断し、昭和二十二年頃より復活。戦後の混乱期に文化交流として神楽舞と共に演芸会等に出演。また、昭和二十九年には市政合併時の行事に参加。昭和五十九年には、市政三十周年に於いて、教育委員会の依頼を受け神楽舞と共に保存版ビデオテープに収められました。その後も浅香入八木節保存会として、大塩湖の碑の丘フェスティバルや地区文化祭など、市内外の出演の依頼を受け、積極的に出演し文化交流に励んでいます。これからもこの伝統ある浅香入の八木節を継承すべく努力して頂きたいと思っています。

 「演目」として、次の五種目の踊りを伝承しています。

  国定忠治で 一、日傘 二、菅笠 三、扇子 四、花踊り 五、手踊り

 なお、音頭・笛・鼓・鉦・踊など、地区の人達だけでは人員が足りず、額部の他地区の方々の協力を得て浅香入八木節保存会の一員として出演して頂いています。ご協力をして頂いている皆様に心から感謝申し上げると共に、今後ともよろしくお願いしたいと思います。今後の健闘をお祈りします。

 初代保存会長は、斎藤徳雄さん。現在の会長は、斎藤友治さんです。

 

十 その他各種伝承話

 先代の方々から色々の言い伝えを聞いているので、いくつか紹介してみます。

◎その昔、涸沢川下流の下河原の広場において、文化交流として花火大会や草競馬、相撲大会など盛んに開催され、一時期大変に賑やかであったと聞きます。現在は河川改修で両岸が石積みですが、当時は自然まかせでかなりの広場があったそうです。

◎不動堂の祠の不動明王が三体あります。その昔、沼田市横塚町の延命寺から、岡本の西方寺の坊さんが借り受け納め、本堂は浅香入地区の人達が建造し、管理保存を祭り世話人が行っていたといいます。また確かなことはわかりませんが、五十年ほど前までは、祭りの前日(二十七日)の夜、おこもりをしながら博打をしていたという話も聞いています。

◎お寺の存在
 江戸時代後期頃の地図を見ますと、三ツ叉の奥地に、当時寺院があったとはっきり示してあります。寺名は判明していませんが、三ツ叉地内の畑のあちこちに無縁仏と思われる墓石があり、関係があるのかもしれません。

◎弘法井戸説
 昔弘法様に因んで全国各地の湧水地に弘法井戸と記された場所がありますが、当地涸沢部落の通称上の山(斎藤家)の入道で柳沢道の通沿いにも、弘法井戸と呼ばれた井戸がありました。今は殆ど面影はありません。谷津の湧き水を引き込み屋根を作って雨水をさけ、隣地の方々が利便を得ていたと聞いたことがあります。

◎涸沢の地名説
 弘法伝説の中でも触れましたが、弘法様の水乞いを断ったので、「それでは涸沢だ。」と言って水を出さなくし、それ以降沢の水が涸れるようになり、涸れた沢「涸沢」の地名の誕生を見たという話もあります。

◎弥生時代の風流人?
 私どもが、昭和三十年から野々平地内の通称「山ノ神」の山林を開墾した時、弥生時代の住居跡が発見されていました。住居跡と思われる前方一〇m位の所にS字型の水掘があり、掘り起こして行くと、五p幅で三〇p真角の石が縦に並べられ、二〇p幅で長さ五m位の水掘りらしき中に、きれいに濯いだ川砂が全面に亘って敷いてありました。寒風の中、興味を持ちながら開墾作業をした記憶があります。

 

あとがきに代えて

 今回、この原稿の執筆にあたり、多少の文献資料の他に、浅香入地区の元老や先輩の方々の伝言、伝説、さらに私の拙い考えで作成致しました。文中、失礼な文面でご迷惑をおかけしたと思いますが、ご容赦のほどお願いいたします。

 なお、浅香入地域は文章を書いているうちに、比較的新しい村造りが行われてきた地区であると感じていますが、今後においても、昔からの催事など、歴史や文化の灯をいつまでも消すことなく、文化遺産として管理保存を願えれば、最上の歓びであります。

 最後に、皆様のご愛読、心より感謝申し上げます。

(参考文献) 富岡市史、富岡の歴史、甘楽郡史 他