他人に見せられない物といったら何だろう?こっそり描いている絵、または
詩だとか、日記だとか...。
先頃、営業用の音資料をつくろうとして、自作曲一覧を見ながら、
「これとこれは人に聴かせられない。」
などと区分してみてから思ったのだ。
いったい『人に聴かせられない』って何だろう?、
作詞作曲において私は発展途上ではあるが、その時々のレベルに応じての完成
点というものが必ず存在し、そこに到達していない作品が、人に聴かせられな
い作品ということになる。そういう作品は自分で聴くのも嫌で、簡単なデモに
しろ作るだけ無駄な気がするが、ついつい記録として残してしまう。同じ間違
いを二度とくり返さない為にも、役に立つような気がする。
私の場合、自曲において、作曲よりも作詞に対して評価を受けることが多い。
最近はライヴを滅多に行なわず、楽曲を発表する機会も限られているので、そ
の詞がどういうものなのか想像していただくのは難しいとは思うが、だいたい
において、苦心した形跡がない詞に対して評価をいただくことが多い。メロデ
イを聴きながら、一回でサラっと書いてしまったような詞のことである。自分
としては、作曲のほうにより労力がかかっているので、詞は重労働の後に、何
でもいいやと書くことが多く、詞のほうをより評価されると少し不満なのだ。
ただし、こんな生意気なことを何年も思っていた後、気付いたことがある。
中学高校時代、私はその年頃の女の子らしく、人に見せられないノートという
ものを持っていた。それこそ、こっそり詩や散文を書いていたのだった。
将来どんな職業を目指すかなど意識になく、ただひたすらあり余る感情の爆発
をノートに書き込んでいた。日記は別につけていたので、あくまでも、詩がメ
インで、作品数は600近くあったと記憶している。今読んだら赤面するような
稚拙で独りよがりなものが多かったと思うが、やはり人に見せられる作品と見
せられない作品とに印をつけて区分していた気がする。これらのノートは、何
かのきっかけであっさり捨ててしまったので、それ以後記憶から消え去り、作
詞のほうが作曲よりも数十倍こなれていたという事実を忘れていたのである。
やはり、上達するには数をこなさなければならないようだ。
詞と同様に曲の評価も高めたいと願うなら『人に聴かせられないもの』をもっ
ともっと書く必要があるのだ。
トリュフを掘るために犬や豚は訓練を積む。
全ての芸術作品はトリュフであって、掘り出す役目を芸術家が担う。
食べ頃のトリュフを確実に掘り出すのが良い芸術家であり、その為に精進する
必要が常にあるのだ。