新約聖書に「放蕩息子」という文章がある。
私はカトリックの学校で12年間を過ごした。洗礼を受けた信者ではなく、両
親が私に少人数で家庭的な教育を望んだところ、その学校に出会ったというこ
とで、せいぜいその教えを嗜んだという程度であるが、一応小さい頃から聖書
にはなじんでいた。とくに新約聖書は読み物としてなかなかおもしろいところ
もあるので、今でもたまに読むことがある。
その中でも、当時も今も感情的に納得できないたとえ話がある。
『放蕩息子』(ルカの福音書より)
ある人に二人の息子がいた。ある日、弟が父に、
「お父さん、私のもらうべき財産の分け前を下さい。」
と言ったので、父は資産を二人に分けてやった。弟は幾日もたたぬうちに、自
分のぶんの財産を持って遠い地方へ旅立ってしまった。
弟は放蕩に身を持ち崩し、財産を使い果たした。おまけにその地方にひどい飢
饉が起こり、彼は豚の世話の仕事を見つけたが、豚の食べる餌を食べようとす
るほど飢えても、食事にはありつけなかった。
とうとう彼は、
「父のところには大勢の使用人がいて食べ物も有り余っているというのに、自
分はここで飢え死にしようとしている。父のもとに帰ってこう言おう。『お父
さん、私は天に対してもあなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子
と呼ばれる資格はありません。どうかあなたの雇い人にしてください。』」
と改心して父の元に帰った。
父は、喜んで彼を抱きしめ、使用人にこう命じた。
「急いでいちばん良い着物をこの子に着せなさい。手には指輪をはめ、履物を
はかせなさい。それから太らせた子牛を屠り、食事をして喜び合おう。この子
は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」
祝宴が始まったところへ、畑で働いていた兄が帰ってきて怒った。
「私は長年ずっとお父さんに仕え、一度も言い付けに背いたことがなかったの
に、お父さんは、私が友人と祝宴を開く為に子山羊一頭もくれませんでした。
それなのに、弟があなたの身代を食いつぶして帰って来ると、太らせた子牛を
ごちそうするのですか。」
父はこう返事した。
「おまえはいつも私と一緒にいる。私の全てはおまえのものだ。しかし、弟は
死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、私が祝
宴を開いて喜び合うのは当たり前ではないか。」
と、これが「放蕩息子」のたとえである。
論理的には父が正しいのだろうが、兄の僻みはとても理解できる。
この話を読む度、兄を気の毒に思ってしまうのは私が長子だからだろうか?
または、子供を持ってみないとわからないことなのだろうか?
カトリックはとにかく罪を改め、また罪を許すという宗教だ。
他の宗教から改宗してきた人に対する教えだとすれば納得も行く。
それでも、この兄は哀れである。どうしても、地道に努力する人がないがしろ
にされているような不公平感をぬぐえないのだ。そして、そんな風に公平を期
待すること自体が既に人類の罪なのである。
もしも人間が皆、心底父と同じ気持で弟を迎えいれることができたなら、この
たとえ話は必要ない。
人類はもっと平和に対して貢献したであろう。