いつの頃から自分の寿命を意識するようになったか?
今年90歳になる祖母はよく正月などに大勢集まると必ず、
「もう来年はないかもしれないからね。」
(来年私は生きていないかもしれないよ、の意味。)
と宣う。
祖母が何歳からこのセリフを言うようになったかは覚えていないが、
おぼろげに70歳過ぎてからなような気がする。
一方、今年40歳になる私は、ベランダ用の新しい植物など買う時に必ず、
『私が死んだらこの植物はどうなるだろうか?』
ということを考えるようになった。
また、ペットを飼うとしたら寿命は何年くらいで、それに対し自分があと何年
生きるかが気になって仕方がない。
私が毎日水をやり成長を楽しみにしている植物達も、
私以外の人間には無駄な物かもしれない。
その場合、土地の限られた都市部では、いらなくなった植物はゴミとして処理
されることになる。
どこかの空き地や裏山に植えてやる、なんてことは不可能だからだ。
ペットも同様で、私がかわいがっていた動物も、私以外の人間には邪魔なだけ
かもしれない。
残された身内が動物を飼う環境になければ、
「そこらで生きていきなさい。」
と放逐するか、里親を探す、あるいは安楽死くらいしか方法はない。
相当な経済力があればペットの為の終生ぶんの養育費を特定の誰かに託し、
それが守られたか確認してくれる人間をお金で雇うことが可能らしい。
しかし、生前の私とよっぽどの信頼関係がなければ、託された人も迷惑し、
何より、邪魔者として生きなければならないとしたら、ペットが哀れだ。
趣味で集めているようなどうでもいい所有物の行方も同様だ。
写真や録音物など、誰かが分別して処理したりしなければならない。
そんなことばかり考えるようでは、私の寿命はもう遠くないのだろうか?
自分以外の同年代が、誰もそういうことを気にしているようには見えない。
多分、こういうことを書いている私はまだまだ長く生きるに違いない。
なぜなら、前述の祖母はここ3〜4年、
「もう来年はないかもしれないよ。」
と言わなくなった。
90歳と言えば、一般的に考えれば、あと何年くらい生きられるか、
ついついまわりも具体的になってしまう年頃だ。
私はこの祖母をこの世の中で一番好きな人物と長年思っているので、
あと何十年でも祖母に生きて欲しいことは間違いないが、
70代の頃より更に天寿が近づいてきた祖母が、
かえって余命のことを口にしなくなったのだ。
だとしたら、私のように、酔っぱらうごとに、
「私が死んだら保険の証書はあそこにあって、重要書類はどこどこに..」
を繰り返す間は、まだまだしぶとく生きるであろう。
おばあちゃん、長生きしてください。
罰当たりなことを言うようですが、
私より長生きして欲しいとさえ思っています。