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  男と権威(2004.8/29)


 だいぶ前のことだが、すいている昼間の路線バスでこんな光景を目にした。
「ハイ、お年寄りは危ないので後ろの席に座ってください。」
と若いバスの運転手。マイク越しなのでバス中に響きわたる。
当の老男性は運転手を無視し、一番前の座席によじのぼり、座ってしまった。

運転席と反対側の一番前の席は、タイヤの真上で、
他の座席より2段くらい高いところに位置し、乗り降りの段差がきつい。
しかも急ブレーキなどの際は最も危険な場所である。
老男性は80歳前後といったところだろうか。
バスの運転手は、無視されたのが気に入らなかったのか、ムキになって、
「そこは危険ですから、後ろに座ってください!」
と声を荒げると、老男性も負けていない。
「危なくなどない!ここで結構!」
「その席は危ないから後ろに、って言ってんですよ!」
の押し問答。
結局、運転手が根負けしてバスはそのまま発車した。
働いているうちはそこそこのポストにあった男性の定年退職後、

こういう人は結構多い。
若いバスの運転手にも相手に対する敬意が欠けていたとは思うが、
この老人は過去の自分を捨てきれないのであろう。
高度成長期に余暇や趣味など持つ暇もなく働いてきた世代である。
家族が何か意見すれば、
「誰が食わしてると思ってるんだ!」
「仕事なんだからしょうがないだろ!」
で済んだ時代、仕事だけが自分の価値を証明してくれるものだったのである。
その結果、何の肩書きもなくなってしまった退職後、アカの他人から、単なる
お年寄り扱いされることに耐えられないのであろう。
勿論、その世代でも仕事以外に趣味を持ち、仕事上での肩書きにしがみつかな
くても良かった人もいるだろうが、ごく一部に違いない。
私の両親の世代である60代くらいでやっと、余暇の大事さが叫ばれ、
スポーツや趣味を持ち始めた気がする。
そうした人達は仕事上の上下関係と別枠での人間関係を持っているので、
退職後のストレスが少ないように思える。
いっぽう、仕事に突っ走ることしかできなかった男性の老後は哀れである。
いい意味でも悪い意味でも日本を支えてきたのに、今や粗大ゴミ扱いだ。
見知らぬ他人から一般人扱いをされるのは当たり前なのに、
「俺を誰だと思っているんだ!」
と虚しい叫びをあげることになる。
嫌味なことを言うようだが、女性は常に一般人扱いに慣れているので、
こういったストレスは少ない。
 私の住んでいるマンションでは、定年退職後の老男性が、通いの管理人とし
て管理会社から雇われている。
一般に管理人とは、威厳のある仕事ではない。
ゴミを整理して掃除したり、切れた電球を変えたりの仕事が主で、
管理職と管理人では一文字違いで雲泥の差だ。
以前、すぐクビになってしまった老紳士の管理人さんを思い出す。
この人は、ウェーブがかったロマンスグレーで、いつも明るい印象だった。
通勤時にスーツ姿だったかは見ていないので知らないが、
私が見かける時には、いつも長袖のワイシャツにネクタイで、
腕まくりして働いていた。
歴代の管理人さん達は毎日作業着が普通なのに、だ。
ある日のこと、この老紳士は、住人のゴミの出し方について、
ゴミの収集人から文句を言われたらしく、達筆の毛筆で、
「先日ゴミの収集人から『分別ができていない』と言われました。
こんな不名誉なことがないよう、以後気を付けてください。管理人」
と掲示板に貼り紙をした。
この人は多分、若いゴミの収集人から文句を言われ、
「俺を誰だと思ってるんだ?」
という気分になったのだろう。そういう怒りが字に表れていた。
かつては人を使っていたのに、今では雑役夫同然なのが辛かったのだろう。
ゴミの分別については私のマンションだけに限ったことでなく、どこでも頭の
痛い問題で、老紳士の苦悩はごもっともだが、
それでも「不名誉」という表現は不適当だ。
この一件以外にも住民の共有スペースの使い方などについて、
支配的な文体での貼り紙を連発し、この老紳士はすぐクビになってしまった。
定年退職するまでは部下に指令を出していた男の感性として、
上から物を言うのは当たり前なのである。
毎日ゴミ置き場の掃除が待っているのに、ネクタイ着用を通すことも、
単なる身だしなみを超えていて、
「私はもとは作業着を着る人間ではなかった。」
という意地だったに違いない。
耐えられないであろう。適応できなくて苦しむであろう。
敬老の日なんて休日があれど、敬老の精神を常日頃から持つような習慣は日本
にはないに等しい。
お年寄りに席を譲るのは、弱者だからいたわっているのであって、
敬っているからではないのである。
かくいう私も決して敬老の精神を持っているわけではない。
頑固に威張ろうとするお年寄りの男性を気の毒に思いながらも、
尊敬することができないのである。
誰からも尊敬されるお年寄りは男女限らずほんの一握りだ。
それは過去の業績に対する賞賛だけでなく、
老いていくうちに人格が向上していった人だけに許される特権である。
過去に行ってきたことが無になってしまう社会。
または、老いて尊敬されるに値する人格を養う余地のない社会。
よその国のことは知らない。
淋しく思う。

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