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  神さまはなにじん?(2008.8/26)


 私はカトリックの学校育ちなので、神さまというと、当然、
キリストとその『父』みたいなものを想像してきた。
ところが、最近「ダヴィンチ・コード」の世界的流行があり、
テレビや雑誌で
キリストの検証を見たり読んだりし、
考えが大幅に変わってきた。
ただ、漠然としかキリストをとらえていなかったのが、
突如、キリストが人間としてどういう人だったのかに目が向いたのだ。
当然のことだが、
キリストは、日本食を食べていなかった。
じっとり湿った日本の気候と木造家屋でなく、
乾いた砂と石の家で、パンとワインを摂っていたのだ。
そのキリストが天の神に話しかける、それは日本語ではない。
弟子達に何かを説く、それも日本語ではない。
 こんな当たり前のことを40代まで考えずに来た。
もちろん、神は人種や言葉を超えているはず。
人間同士どころか、総ての生物を司るのが神なはずである。
そう信じてきたつもりだが、どうも、最近冷めてしまった。
 私は生まれてから今まで、日本という島国に住み、
海外旅行に数回出かけたとしても、根っからの日本人。
映画で見るゴルゴダの丘までの道筋は、
黒い土でなく、黄土色の土だ。
日本にはああいう丘や山はない。
じっとりとした日本の地面や空気と、全く似ていない場所での受難。
深く共感できないのだ。
それは、キリスト教だけではない。ユダヤ教にもイスラム教にもだ。
インド発祥の仏教にしてもそうだ。
もっとも、仏教に関しては、日本に伝わって歴史が長く、
冠婚葬祭を仏教にのっとって行う家庭が多いので、
「仏教の教え」というよりも冠婚葬祭のマナーみたいな捉え方をするのが、
多くの日本人の宗教観だ。
強いて言えば、日本古来のオリジナルである神道だけが、
私の思うところの日本の風土、習慣にそぐうものだが、
これについても、殆どの人が、やはり冠婚葬祭用に持っているに過ぎない。
縁日や初詣に行く時、神道か仏教かなど気にする人間はいない。

私は宗教批判をするのではない。
また、無宗教批判もしない。
多くの悲惨な情報が毎日心を突き刺す。
地球の未来にも絶望感を持ってしまう。
そういう毎日、一日の無事を感謝し、思い浮かべるのは、
亡くなった祖父母だ。
また、血がつながっていなくても、
亡くなった身近な人に、つい、祈ってしまう。
「おじいちゃん、おばあちゃん、今日も平和に過ごせました。
 ありがとう。明日も見守ってください。」
と寝る前に祈ってしまう。
彼らは、日本食を食べ、日本語を話した。
現実として私をかわいがり、普通の人として天寿を全うした人達だ。
私の苦しみ、私の喜び、私の願いは、彼らが判ってくれる。
仏壇やお墓に祈るということではない。
そもそも、子供の時のように、
「神さま。成績をよくしてください。」
「神さま。一等にしてください。」
などとは祈らなくなったので、
祈るということが、願いを並べることでなくなったのもある。
「世界を平和にしてください。」
でなく、
「今日も無事でいさせてくれてありがとう。」
としか、ちっぽけな私には言う事ができない。
私のおじいちゃんやおばあちゃんは世界を平和にすることはできない。
それどころか、自分の家族のために、
他人や他の生物を犠牲にするかもしれない。
人間ってそういうものだ。
人生も半ばに来て、すっかり考え方が変わった。
また、これからも変わっていくのかもしれないが、
今現在の私の心はこんなところだ。
いつか、自分の中での本当の悟りが来るに違いない。

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