揚羽蝶

 開け放たれた窓から吹き込んでくる風が、窓布を優雅に翻した。
 戦の合間にぽっかりと口を開けた穏やかな午後の昼下がり、カミューは丁寧に煎れられた紅茶を飲みながら、ふいに賑やかになった窓の外に意識を向けた。
 急場しのぎで拵えられた文机から離れ、深い色味に染まった頑丈な木製の窓枠に手を添わせる。
 真夏を迎えるにはまだ幾分早い季節、それでも強い日射しはカミューの薄い虹彩の眸を射抜く。
 室内に充満した陽光の粒子が、カミューの髪にぶつかって乱反射を繰り返す。落ち掛かる前髪を掻き揚げながら、カミューはほんの少し身を乗り出した。
 窓の外、カミューの目線の真下にはマイクロトフが居る。
 天に向かって枝葉を突き刺すように生い茂った若い樹木の緑濃い影の下、数人の若い娘に囲まれて困惑するその姿に、カミューはひっそりとちいさな笑いを浮かべた。
 流民として家族共々流れ着いた娘達であろうが、恐ろしく順応が早い。
 およそマチルダに居た時分であれば、一介の町娘がマイクロトフに声を掛けることなど出来ようはずもなかった。肩書きが絶対のマチルダにおいて彼にはその年齢に相応しからぬ重い肩書きがあり、それは一種敬意とも畏怖とも取れぬ効果を持ってマイクロトフからうら若い娘方を遠ざけた。そして何より彼は彼自身の気質として、気軽に声を掛けやすい雰囲気を持ち合わせてはいなかったのだ。
 だが、故郷を離れて彼は少し変わった。
 肩の力が抜けたのであろうか、時折誰の前でも柔らかく笑うことが多くなった。
 元来、多少厳つい印象がなくもないが、彼は端正な容貌の持ち主だ。若い娘に取り囲まれてもおかしなことではない。
 一人の娘に無理矢理手を取られ、マイクロトフは一本に大木の根元に立たされた。そのまま腕を伸ばして苦もなく枝に絡まった布を取り除き、娘に差し出す。
 全身から大仰に感謝を振りまきながら、娘が踵を精一杯持ち上げてマイクロトフの頬に掠めるような口付けを滑らせた。
 愕き、ほんの少しだけ呆れたように苦笑を閃かせながら、それでもマイクロトフは娘の髪に絡み付いた緑の葉を指先で取り除き、優しい微笑を彼女に送った。
「…………」
 そこまで見届けて、カミューはきつく眸を閉じ合わせた。
 初夏の陽光が眩しすぎて眸が痛いのだと、自分に言い聞かせた。それが欺瞞であることを一番良く知っているのは、他ならぬ自分自身だったが。




 傷だらけのチェス板をどこからともなく見つけてきた部下は、隠し切れない喜色を全身に纏わり付かせながらカミューに差し出した。
 カミューが大切にしていたチェス板をマチルダから持ち出せなかったことを知る彼は、次が見つかるまでのせめてもの場繋ぎに、と子供のような純粋な笑みを浮かべていたものだ。
 粗末な机に粗末なチェス板。水同然に飲み下すワインは銘などあろうはずもない安物。室内で揺れる蝋燭の焔の数などは、マチルダに居た時分の半分ほどではないだろうか。
 将の立場にある自分達などはこれでも恵まれている方なのだ。
 カミューは元来線の細い容姿を裏切る剛胆な質であり、戦場の土の上でも平然と眠りを貪ることが出来る。繊細などというものは彼の神経構造から最も遠い言葉であり、自分をそのように表現される度に、カミューは眉を顰めていた。
 そんな彼であればこの状況に文句などあるはずもない。数年ぶりにマイクロトフと同じ部屋で寝起きすることも、それはそれで楽しかった。
 眠りに落ちる前のほんの少しの時間、こうやってマイクロトフと酒を酌み交わして取り留めのない話に現を抜かす。一時の平穏に身を浸し、その怠惰に温んだ幸福に頬を緩める。
 駒を動かす長い指をぼんやりと眺めていると、ふいに頭の上から声が降ってきた。
「どうした?」
 目の前にある鼻筋の通った端正な顔が困惑しているようだった。
「具合でも悪いのか。ぼんやりして」
「……そんなことはない。少し考え事をしていた」
 駒を動かしながら、カミューはにやり、と口の端を釣り上げた。
「お前こそこんなところで男の相手をしていていいのか?」
「なんのことだ」
 本当に訳がわからないのだろう、真直ぐカミューを見つめるマイクロトフに、カミューは人の悪い笑みで答えた。
「昼間金髪の美人から熱烈に歓迎されていたじゃないか。約束していないのか?今晩あの木の下で御会いしましょう、とか」
「……カミュー……」
 両肘を机に付き、てのひらで顳かみを押さえながらマイクロトフはガクリと頭を落とす。
「お前はどうしてそんなことばかり耳聡いんだ……」
 項垂れる黒い頭を見下ろしながら、カミューは顔を顰める。
「おい、自分の声の大きさを責任転嫁するつもりか。美人とこっそり愛を育みたいなら、辺りに宣言するような大声で話すことはやめることだ」
 それから、自分の目に付くようなところで他人に垂れ流しの優しさを振りまくことも。
 本当に言葉にしたかった心根を静かに仕舞込み、カミューは変わらずマイクロトフに笑いかける。
「洗物が風に飛ばされてしまったというから取ってやっただけのことだ。勘ぐられるようなことは何もない」
 眉を寄せて生真面目に答えるマイクロトフの頬に、カミューはテーブル越しに身を突き出して親友の口付けを落とす。
「何もわたしに律儀に説明する必要はないよ。わたしはお前の恋人でも妻でもないのだからね」
 マイクロトフに向けながら、その実自分自身に向かって吐き捨てられた言葉。
 カミューは平然と笑いながら再び椅子に腰掛けると、行儀悪く椅子の上で胡座をかく。
「しかし遠目にも大層な美人だったぞ。お前に呉れてやるには勿体無いな」
 マイクロトフは駒を進めながら、左の奥歯で苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「お前こそその節操の無さはなんとかならんのか。女なら誰でもいいというものでもあるまいに」
「失礼な奴だな、人を色情狂のように。わたしが誰彼構わず付き合っているとでも思っているのか」
 言葉だけは憤然と、だがしかし明らかに瞳に笑いを浮かべてカミューが続ける。
「選択の基準などあったのか」
 僅かに右眉を上げる程度には興味を引かれたマイクロトフが、改めてカミューの顔に視線を当てる。
 カミューは殊更優雅に駒を操り、マイクロトフの蒼い瞳を直視いた。
「当然だ。自分の利益にならん女なんぞにどうして貴重な時間を割かなくてはならない?」
「……カミュー………」
 嘆息して頭を落とすマイクロトフに、カミューはにこやかに告げた。
「チェックメイト」




 自分はいつだってマイクロトフの特別になりたかった。
 誰にでも平等に優しさを振りまくマイクロトフの特別になりたかった。
 マイクロトフの気を引く為に浮いた話を何度も何度も繰り替えした。
 その度に自分を窘めるマイクロトフの説教さえ心地よかった。その時マイクロトフの心の中には自分しかいないと知ることができたから。
 彼が下した決断を無条件に受け入れることさえ出来た。
 自分はマイクロトフなしでは生きていくことさえ出来ないとわかっていたから。マチルダに残るか、共にすべてを捨て去るか。そんなことはカミューのなかでは選択する以前の問題だった。
 幾度違う女と浮き名を流したところでマイクロトフの意識が変わることはなかった。
 彼に取って自分は最高の親友でしかなかった。
 それはそれで特別な居場所だった。だがしかし、彼が妻を娶ったとき、その場所が今より霞んでしまうのではないかという恐怖は消えることがなかった。
 マイクロトフの心のすべてが自分に向けられて欲しかった。寸分の欠片もない程、自分だけを想って欲しかった。
 自分の、この線の細い外見に目の眩んだ執念深く言い寄る男達を一蹴しながら、カミューは思ったことがある。奴等がそこまで自分の身体に執着を覚えるというのなら、この身体でマイクロトフの執着を勝ち得ることができるのかもしれない、と。
 すべてを投げ出す覚悟でマイクロトフに強引に抱かれてしまえば、奇蹟が起こるかも知れない。マイクロトフが年上の美しい女性を連れて歩いている姿を見た瞬間、本気でそう思った。
 しかし、湯場で何度見ても己の身体はどこをとっても男のものでしかなかった。
 騎士としては細い部類の身体とはいえ、鍛練によって全身は滑らかな筋肉に覆われている。華奢な肩もなければ、まるい胸も尻もない。マイクロトフがこの骨張った身体に欲情するとは到底思えなかった。
 そんな自分が惨めで、カミューは泣きたかった。
 女に生まれたかったとは思わないが、それでも女であるというだけでマイクロトフとの恋愛に何の障害も持たない彼女達が羨ましく、そして妬ましかった。
 眠ることも出来ないまま寝台に身を起こし、満月に向かって満ちていく上弦の月を見上げながら、カミューは隣の寝台で深い眠りに落ちたマイクロトフの横顔を眺める。
 昔、まだグラスランドに居た頃、老いた祖母に月明かりに照らされたまま眠ってはいけないと諭されたことがある。
 月光は冥府に下った死者を照らすものだから、生者の心さえ暗黒に引き摺り込んでしまう。
 果てる先なく続く荒漠とした草原に浮かんだ巨大な満月の下、祖母に手を引かれながら聞かされた言葉は、今もカミューの記憶に深い。
 月がマイクロトフを照らし続ければ、彼の心でさえも月の引力に従って歪んでいくのだろうか。そうすれば、彼のあの高潔な魂でさえも、この醜く歪んだ自分を抱き締めてくれるのだろうか。
「…………限界だ」
 カミューは片手で顔を覆い、夜の静寂に溜息を吐き出した。




 ビクトールと旧知の仲であるというその傭兵崩れの男は、日に焼けた精悍な浅黒い顔に人好きのする笑顔を浮かべていた。
 マイクロトフを更に荒削りにした風貌とでもいえばいいのか。彼がマチルダの旧家などではなく、市井の一郭で生まれ、荒波に晒されながら育っていたとしたら、こう成長したのではないかと思う。年の頃も同じくらいだ。
 テラスでひとり紅茶を口にしていたカミューの前に何の断わりもなく腰を下ろしたその男は、屈託のない微笑を浮かべたままカミューに話し掛けた。
「成る程、音に聞こえた美形というものは間近で見ても正視に耐えられるものなんだな」
 カミューは己の外見に対する賛辞を聞き飽きている。
 物心付いた幼少の頃より繰り返されてきた美辞麗句は確かに根拠のないものではなかったし、カミューも己が多少他人より際立った容姿をしていることは客観的な事実として認めていた。だが、他人がいかに彼の容姿を優れたものと褒めそやしたとしても、カミューには意味のないことだった。
 しかし、一瞬カミューの気を引き付けたものがある。
 声、だ。
 男の声はマイクロトフに似ている。骨格が似ていると声も似ると聞いたことがあるが、これがそれか。
 ……耳触りの心地よい低音。昔から、ただの一度もカミューの名前をぞんざいに呼んだことのない、深く、優しい声。激高したときも、悲嘆に沈むときも、笑いを共にするときも、どんなときでもカミューに真直ぐ向かってくる、マイクロトフの声。
「いや、思っていた以上に美人だ。男だとわかっていても惚れ惚れする」
 随分と長いつきあいになるが、マイクロトフがこのかおかたちをどう思っているのか、カミューは知らない。幾度か聞いてみようかと思ったことがないでもないが、彼の口から軟弱だの女々しいだのと言い放たれることを考えれば、そんな恐ろしいことを聞けるはずもなかった。
 彼はカミューの太刀捌きに感嘆する。格闘術の身のこなしに最大級の賛辞を呉れる。マイクロトフに請われ、グラスランドの言葉を披露した時、嬉しそうに笑ってくれた。彼が知らぬことを少しでも口にすれば、カミューの知識の深さには到底適わぬ、そういって苦笑を浮かべてくれる。
 あれほどの男の親友として認められている。これほど誇らしいことはない。だが、カミューはマイクロトフがこの軟弱な外見を少しでも好いてくれていれば、と願わずにいられない。
 目の前の男に明らかな侮蔑の視線を向けながら、カミューは思う。
 これほど不躾であったとしても、マイクロトフが口にした言葉なら、自分はそれだけで幸福になれるものを。
 一言も言葉を発しないカミューに動揺したのか、男は慌てて言葉を次いだ。
「気を悪くしたか、いやこれは失礼。俺は思ったことを正直に口にする質でな」
 話し続けることさえ面倒で、カミューは一気に紅茶を呷ると優雅に立ち上がった。
「ああ、待ってくれ!」
 踵を返したカミューの腕を、男は捕えた。
 首だけ後ろに振り返らせながら、テーブル越しに必死の視線を向ける男に、カミューはおや、と思った。
 雰囲気が似ているだけではない。
 行動までもが、どこかの誰かにそっくりではないか。
「怒らせるつもりはなかったんだが、その、話し掛けるきっかけが思い浮かばなくてだな」
「………」
「一度アンタと話をしてみたかったんだ。何しろいつもあの厳つい顔の男と一緒だろう、話し掛ける隙もあったもんじゃない」
「………」
「アンタは優男の割に酒が滅法強いとビクトールから聞いてだな、是非一度酌み交わしてみたいもんだと……ああ、いや、誓って下心なんぞないぞ」
「………」
「いや、だから、そうじゃないんだ、ああ、その、……友達に、なってもらえないかと」
 ずっと思っていたんだが。
 いい年をしてさすがに気恥ずかしかったのであろう、短い髪をがしがしと掻きながら、末尾にいけばいくほど消え入るような小声に変わる。
『友達に、なってくれないか』
 もう何年前のことになるのか。それは、マイクロトフが頬を火照らせながら、カミューにいった言葉だった。
 カミューは何もいわなかった。何もいわず、男の正面にある椅子に再び腰掛けた。




 一時与えられた狭苦しい部屋に戻ってくるなり、マイクロトフはワインのコルクを引き抜いた。
「ずいぶんと楽しそうに話していたじゃないか」
 カミューにグラスを差出しながら、マイクロトフは興味深げな笑顔を浮かべていた。
「流れ者の傭兵だろう?」
「……見ていたのか」
 粗末な机を間に差し向い、マイクロトフは右手で頬杖を付いてカミューを見ている。
「珍しい光景だったからな。お前に男と茶を飲む趣味があるとは知らなかった」
 昨晩の意趣返しなのだろうが、返事をするために口を開くことさえ詰まらない。
 マイクロトフはカミューが男に興味がないことなど承知の上だ。そうでなければ、こんな冗談を口にすることはできるはずもない。
 長い付き合いの間、カミューが男に言い寄られたことがあるとは知っていたが、そのすべてを彼が足蹴にしてきたこともまた承知である。如何に閉鎖的な空間に在るとはいえ、男に言い寄られる外見を彼が疎んじていることも知っていた。酔った勢いで、不謹慎なことだとは思うがこの顔に傷でもあれば箔になるのだが、とぶつぶつ呟いていたカミューを、マイクロトフは知っている。
 マイクロトフはカミューが好きだった。それはもちろん友人として、という意味においてであったが。
 彼ほど博識で、武芸の腕が立ち、誇り高く己に厳しい人間をマイクロトフは他に知らない。すべての面においてカミューは尊敬に値したし、何より無二の親友だった。カミューの親友という立場はマイクロトフにとっても誇らしいものであったし、常にその立場に恥じぬ人間であろうと思っていた。
 ニヤリと口元を吊り上げてカミューを見ると、彼は心底嫌そうに秀麗な貌を顰めた。
 珍しく饒舌なカミューの口を封じたことが嬉しかったのか、マイクロトフはグラスを呷る。
「どんな男だった?」
 好奇心を持って問いかけると、カミューは面白くも無さそうに口を開く。
「茶の相手としてはいささかむさ苦しかったが、話は面白かった。良くも悪くも世間を知っている」
「……………」
 その言葉に、マイクロトフが反応した。顔付きがほんの少し、険しくなる。
「年の頃は同じらしいけれど、規律と秩序の中で育てられた騎士とは随分見てきたものが違うらしい」
「…………………」
 マイクロトフは何も返さずにワインを注ぎ足した。
 嫌な沈黙だった。
 カミューは仕方なく苦笑を浮かべ、腕を伸ばすと、マイクロトフの頭をくしゃりと掻き回した。
「カミュー!!」
 明らかな子供扱いに、マイクロトフが憤る。
 椅子を倒すばかりの勢いで立ち上がったその姿に、カミューは笑いかけた。
「………お前は自分の育ちを気に病むことはない」
「……………」
 同盟軍に身を置くようになってから、彼等は今まで席を共にしたことがないような荒くれ者と肩を並べることになった。切れ者の軍師によって寄せ集めの軍とは思えぬほどの統制が取られているとはいえ、それでも、『騎士』という言葉の偶像を念頭に育て上げられたマチルダ騎士には相当な衝撃だった。
 彼等には、身に染み付いた教養と伝統があった。整えられた身なり、礼節を重んじる姿。マチルダでは美徳と称されたものだ。しかし、ここではそういったものを笑い飛ばす者も多い。己の腕ひとつで人生を渡り歩いてきた偉丈夫が骨まで噛み砕く勢いで肉を喰らい、賞金首に目を光らせる男が酒を呑み、傭兵というよりも山賊といった方が相応しいような悪相が剣を振るっている。そういった男達は世間に通じているから、こういった場ではむしろ、規律と忠誠の中で生きてきた騎士よりも頼もしく見えることがあるものだ。
 マイクロトフが些か居心地悪く思っているのはそこなのだろう。それはまた大多数の騎士が漠然と感じ取っていることでもあった。
 品行方正を重んじる騎士が持つ、豪放磊落な男達に対する感情は複雑だ。優越感と蔑み、相反する劣等感と憧憬、何もかもが坩堝になって渦巻いている。かねてよりカミューが気に病んでいるのもこの点だ。感情の行き違いが決定的な亀裂にならなければいいが、と、思っているにも関わらず、その騎士の感情の代弁者のようなマイクロトフに詰まらないことを口にしてしまった。
 面白くもないことを言われて機嫌が悪かったとはいえ、少し言い過ぎたかな、と、カミューは苦笑した。
「………生活の環境が随分と変わったからね、すぐに溶け込むというのも無理だろうけど……離反した騎士には若い連中が多いし、すぐに馴染むよ」
 大丈夫、と笑って、カミューはマイクロトフの頭を引き寄せると頬に唇を滑らせる。
「カミューは…………」
 マイクロトフは椅子に座り直すと、ワイングラスを弄ぶ。
「わたしが?」
 名前を呼んだだけで後を続けようとしないマイクロトフに、カミューはワインを口に運びながら重ねるように問いかける。
「……カミューは、やはり、あの男の方が頼れると思ったか」
 思いも寄らない言葉にカミューは驚き、目を見開いた挙げ句、ワインを噴き出しかけた。
 よくもまあ年甲斐もなくそんな恥ずかしいことを臆面もなく口に出来るものだ。
「…………っ」
 机に突っ伏し、肩を震わせて笑いを堪える親友の姿に、マイクロトフは顔を火照らせて立ち上がった。
「カミュー!!人が真剣に尋ねているというのに………!!」
「いや、これは……失礼………」
 笑いを滲ませた揺れる声に、マイクロトフは二度三度口を開きかけたものの、言葉が口から出てこない。
「…………………!!」
 不貞腐れたように踵を返すマイクロトフの背に、優しい重みがふわりと掛かった。
「すまなかった、馬鹿にしたわけじゃない」
 マイクロトフの背中にカミューが柔らかく抱き着いていた。肩から腕を前に回し、凭れ掛かるように、首を右肩に乗せている。
 上機嫌なカミューの声に、マイクロトフは怒らせた肩の力をふっと抜く。
「お前も悪いんだぞ、馬鹿なことをきくから」
「馬鹿なことってなあ、カミュー、俺は………!!」
 マイクロトフは首を無理矢理右に捩じ曲げてカミューを見ようとする。
「いいんだよ、お前はそのままで」
 首を傾げて、カミューはマイクロトフを見上げていた。
 優しい瞳の微笑、唇の描く流麗な弧。カミューはマイクロトフを見つめてふわりと笑う。
「わたしは………わたし達は、お前を信じて付いて来たんだ。……自信喪失している暇などないだろう?」
「カミュー………」
 言葉を区切ると、カミューは優しく笑い、少しだけ踵を持ち上げてマイクロトフの頬に口付けた。
「少し疲れているんじゃないか?もう寝ろ」
「カミューは?」
 身を離したカミューに、マイクロトフは棘のとれた口調で問いかけた。
「わたしはもう少し起きているよ。読みたい本があるからね。………おやすみ」




 もう何年も何年も前だ。
 悪夢に魘された夜、抱き締めてくれたのはマイクロトフだった。
 たった一夜、何が琴線に引っ掛かったのか、夢の内容さえ覚えていない。ただ無性に恐ろしかったことだけが肌に残っている。
 今よりもっと細かった腕で、それでもマイクロトフは一生懸命自分を抱き締めた。
 耳元で、大丈夫だから、と、繰り返した優しい声。
 夢から放たれ目覚めた後、気恥ずかしさに怒鳴り飛ばし、挙げ句起こしてもらった礼を言うこともなく顔を背けた自分の背中を、それでも夜明けまで抱き抱えて眠ったマイクロトフ。
 あれから随分経った。
 引き絞られた明かりの中、健やかな眠りにマイクロトフは守られている。
 夜はマイクロトフを優しく包み込む。月明かりが彼を引き摺り堕とすこともない。
 カミューの手の中、本の頁は先程から一枚も繰られていない。
 虚ろな視線は、ただマイクロトフだけを見つめている。
 恋慕を隠すことのないカミューの瞳が、燭台の明かりに揺れている。
 穏やかに繰り返される寝息、規則正しく上下する胸。
 カミューはふらりと立ち上がると、視線を遣ることもなく机上に本を投げ出した。
 マイクロトフただひとりに向けられたカミューの視線は細く頼り無く、長い睫は不安に揺れる。
「…………………」
 名前を呼びたい。
 疾うに飽和したと思っていた思慕の想いが、目の前で眠るマイクロトフを目にしただけでさらに膨張する。
 枕元、床に膝を付いてカミューはマイクロトフの寝顔を覗き込む。
 少しずつ短くなっていく小さな一本の蝋燭の明かり。
 揺らぐたびにマイクロトフの顔に陰影が現れて消える。
 彼の髪を梳きたい、頬に触れたい。目を開いて、自分だけに笑いかけて欲しい。
 力強い腕に拘束されたい。胸に抱かれ、どこにも行くなと言ってもらいたい。
 ……自分以外の名前など、口にしないで欲しい。
 彼が、マイクロトフが望んでくれるなら、自分のすべてを喜んで投げ出すのに、……それさえ望んでもらえない自分はなんと惨めだろう。
 女に生まれていたら。女の身体さえ持っていれば、誰にも負けなかった。一番最初に彼を見付けて、他の誰にもマイクロトフに触れさせたりしなかった。
 ……こんな、ありもしない仮定に縋らずにいられない自分の哀れさを、笑わずにはいられない。
「………マイクロトフ」
 小さな声で呼び掛ける。
 マイクロトフは目を開かない。
 短くなっていた焔が、掠れるような音を立ててかき消えた。
「……………」
 暗闇の中、カミューは身を乗り出し、祈るように眠るマイクロトフの唇に触れた。

to be continued..........