UNTITLED

 肖像画の中の母は、儚気な微笑みを浮かべている。
 彼女は透明で、およそ意思など持ち合わせていないように存在感が希薄だ。
 だから僕は夜寝台の中で彼女の貌を思い出そうとするのだけれど、どうしても巧くいかない。
 僅かに印象に残っているのは、すんなりと長い、折れてしまいそうな白い首筋だけだ。
 彼女は深い翠色のドレスを纏って、静かに微笑んでいる。
 膝の上で優雅に重ねられたてのひらは、ただの一度も僕の頬を撫でることはなかった。
 彼女は僕を産み落とすと同時に亡くなったのだから。
 綺麗に整えられた爪には、主張のない淡い色が塗られていた。
 回りの人間誰に聞いても、母はとても美しい女性だったとしか答えてはくれない。
 僕が知りたいのは、彼女の貌の美醜じゃない。
 彼女が何を考え、何を思っていたのかということだ。
 子供心にも、死んだ後に見目形の美しさしか伝えられないような詰まらない女性だったのかと、幾分残念に思った。
 僕は、鍵で閉ざされた母の部屋に忍び込んだことがある。
 父の書斎の机、二段目の引き出しにその鍵が入っていることは、誰に教えられた訳でもないけれど知っていた。
 あの頃はまだ随分と小さくて、器用な質でもなかったから、錠を回すなんて些細なことが一苦労だった。
 昼間だったのに、母の部屋は薄暗くて埃臭かった。
 彼女の机の引き出しを開けて、僕は一通の手紙を見付けた。
 母の秘密を盗み見る罪悪感が、ほんの少しだけあった。
 今思えば、子供にも、それが見て良いものなのか悪いものなのか勘付かせる何かがあったのだろうけれど。
 内容を読んで僕は混乱した。そして、その手紙の宛名を確かめて、僕は益々混乱した。
 そしてわかった。回りの人間は誰も母のことを語らないのではなくて、語れないのだ。
 僕は二度と母の部屋に入ることはなかった。





 父は立派な人だった。
 僕が生まれると同時に妻を失ったにも関わらず、彼は男手一つで僕を育てた。
 彼は立派な役職に付く多忙な男だったから、勿論家事一切を取り仕切るメイドを雇ってはいたものの、それでも貴重な時間を僕の為に割いてくれた。
 とても背の高い人で、彼に肩車をしてもらうのが僕は大好きだった。
 彼の肩の上に乗せられてのんびりと歩いた秋の草原は少し風が冷たかったけれど、空は何処までも高く澄み切って、透明な風が流れていた。
 どうしてかわからないけれど、僕は父に母のことは尋ねなかった。
 父は何時も立派で、背筋を伸ばしていた。子供の僕に接する態度さえ、常に真摯だった。
 父は僕の自慢だった。
 僕が七つになった晩、父は僕を膝の上に乗せて、何か辛いことはないか、と聞いた。
 父がどうしてそんなことを聞くのか僕はわからなくて、ただ真直ぐ父の顔を見ていると、父は突然顔を歪めて、右のてのひらで顔をおおった。
 すまない、少し一人にしてくれないか。
 父の言葉は今も耳に残っている。
 その立派だった父も今はもういない。
 病に倒れ、一つの季節が過ぎ去る間だけの闘病だった。呆気なく彼は逝った。
 治る見込みのない病に罹患していたというのに、元来頑健だったが為に気付くのが遅れたのだろうと、医師は心底無念そうにいった。
 でも僕は知っている。
 彼はもう疲れていたのだ。
 僕の、この貌を見続けることに。








 訪れた墓には先客がいた。
 晩秋の森の中、生前の威光とは何とも不似合いな小さな墓に、彼は眠っている。
 質素な墓石、刻み込まれたのは名前と、駆け抜けた数十年を記号化する数字。
 柔らかい木漏れ日の下、墓はただひっそりと其処に在った。
 墓石をゆっくりと撫でるその人を、父がずっと待っていたのだろうということは、何故だか容易に察することが出来た。
 日の光に、その人の指が揺れた。
「……最期は、苦しまずに逝けたのか?」
 小鳥の声にかぶったその声は、随分と落ち着いていた。
 この人に出会ったらもっと感情が乱れるのではないかと思ったけれど、そんなこともなかった。
 ただ、ああこの声が何度も父の名前を呼んだのかと思うと、感慨深いものがあった。
 この人が、父の隣に居たのだ。
 戦場を巡る父の傍らに在って、その背と命を預けあったのだ。
 ……………………………………母さん。
「血を吐きましたから………最後は随分痩せてしまいました。でも」
 朦朧と霞む最後の意識の中、僕が傍らに在ることさえ彼はもう既に理解出来ていなかったというのに。
「それでも父は、その姿を貴方に見せずに済んだと笑っていたのです」
 墓石に絡む指が一瞬動きを止めた。
 ゆるゆるとそれは力無く垂れ下がり、きつく握りしめられる。
「…………君は、大切に育てられたのだね」
 それは問いかけではなく確信だった。
 僕は自分が不幸だったとは少しも思っていない。
 何時だって父は優しかった。頭を撫でてくれるおおきなてのひらは直ぐ其処にあった。
 母がいないことを悲しむ必要はなかった。
 父の深い慈愛と限り無い情愛は、確かに僕の傍らにあった。
 彼と血が繋がっていないことなど、僕と父さんの間では大した問題ではなかった。
「彼が授かった子供が金髪碧眼だったと風の噂で耳にしたときは、随分とこの身を呪ったものさ」
 肩に落ち掛かる柔らかい日射しに、白い首筋が浮かび上がっている。
 この、目の前の人の背中はとても綺麗だった。
「わたしは彼に平穏な幸福を得て欲しいと心底望んでいた。結婚して、彼の血を受け継ぐ子供を授かって欲しいと、誰よりも強く望んでいたのは他の誰でもない、わたしだった」
 目の前で、その人は再び愛おしそうに墓石を撫でた。
 冷たい無機質な石の上を滑るその優しい愛撫を直視するのはとても気恥ずかしかった。僕は目を逸らした。
「彼には許嫁がいたよ。随分と美しい女性だったけれど、病弱な方でね。わたしたちが感情を通じ合わせる前のことだけれど、彼と二人で見舞いに行ったことがある」
 その時、こともあろうに彼女はわたしに恋をしたのだそうだよ。
 吐き出された言葉には多分な嘲りが含まれていた。
「許せなかったよ。彼女は何をすることもなく、ただ生きてさえいれば彼の妻になることが出来る。彼の子を生むことが出来る。それなのに、どういう訳だか彼女はわたしに向かって愛していると口にする。貴方と共に行きたいという。わたしがどう足掻いても得られないものを持ち合わせた存在が、その権利を、その有り難みを知ることもなく、勝手に放棄しようとする。そして何より彼女がわたしに愛を告げるという行為事態が彼を裏切っている。どうしてそんなことを許すことが出来ただろう」
 だから、たった一晩床を共にして、翌朝にはあっさりと捨てた。
 淡々と綴られる言葉に生々しさはなく、まるで詩を朗読しているようだった。
 その結果生まれたのがこの自分だというのに、何故だか現実感は乏しかった。
 それは彼の声が美しいからかもしれない。
 この人が、長い時間をかけて、激情を濾過させて濾過させて、残った愛情だけを大切に大切に抱え込んでいるからかもしれない。
「その後わたしはマチルダを去った。それからすぐに彼が結婚したと聞いたよ。彼女の妊娠を知らされていたのだろうね。あいつは結婚前の淑女に手を出すような男じゃない。………腹の中の子供の父親がわたしだと知っていて、それでも…………」
 言葉が不意に途切れた。
「…………マイクロトフ…………………!」
 目の前で、その人は泣いていた。
 僕は、その人が父の名を呼びながら泣くさまをぼんやりと眺めているだけだった。
 目の前で、そのその人は墓に縋って泣いていた。
 優しい木漏れ日の下で、父が眠る土の上で、その人は懺悔をするように泣いていた。
 墓石に絡み付いた指の先、爪が割れて赤い血が滲んでいる。どうしてなのか僕は、其処に肖像画の母よりも強い意思を感じた。
 きっとこの人がいなかったら、母はもっと生きることが出来たのだろう。僕を宿している間、彼女は只管苦しんで、出す宛てもない手紙を認めて、辛労の挙げ句さっさと死んでしまった。
 父は父で、成長する僕の貌の後ろにこの人の姿を見ていたのだろう。
 父もこの人のことが好きだったのだ。だから躊躇うことなく母に僕を生ませ、育てた。
 死ぬ真際、荒い呼吸で呼ぶ名前は、たった一人だった。
「………どうして、死んでから会いに来るんです」
「………………」
「父は、最後まで貴方の名前を呼んでいた。時折意識が戻った時には僕の名前を呼んだけれど、それは最後を看取る者に対する感謝だった。逝く最後の瞬間、父が手を伸ばして呼んだのは貴方の名前だったのに……!」
 僕は会わせてあげたかった。
 父がそんなにこの人に会いたがっているんなら、どうにかしてこの人に会わせてあげたかったんだ。
 十六年、父はこの人を想っていた。
 僕の姿の後ろにこの人を想い、激情を押し殺して生きてきた。
 辛くなかったわけがない。
 黒髪黒瞳の両親から生まれた金髪碧眼の子供、それも父親が誰なのか、隠すことも出来ないほど僕の貌は実の父親に似過ぎていた。
 口さがない連中に陰口を叩かれていたことも知っている。不貞を働いた女の子供を育てる腑抜け、一点の曇りも無い高潔な人が、碌でもない輩に影でそうして貶められているのを、僕はただ黙って見ていることしか出来なかった。………同じように陰口を叩かれ、泣きながら髪を黒く染めようとした僕を、笑いながら抱き締めてくれた父さんは、もういない。
 僕を育て上げたら、母に対する責務を成し遂げたら、父はこの人を探すはずだった。彼が密かにその旅路に思いを馳せていたことさえ、僕は知っていた。
 再びこの人に見える為に、今度こそこの人の手を取る為に、ただその為だけに、父は生きて、僕を育てていたのに!
 同じ貌をしているはずの僕を身替わりにすることもなく、父さんはこの人だけを想って逝ってしまった。
「遅すぎるよ!!父さんはずっと貴方を待っていたのに!貴方だけを、待ち続けていたのに……」
 悔しかったんだ。父さんの最後の望み一つ叶えてあげられない自分が悔しかった。
 どうにかしてあげたかったのに。
 同じ貌なのに、どうにもしてあげられないことが悔しくて、悲しかったんだ。
 父さんが救われるなら、たとえ身替わりでも良かったのに。
 ぼたぼたと涙が零れ落ちた。
 父さんが死んでから、ただの一度も流さなかった涙が、呆気ないほど簡単に目尻を伝った。
 拭っても拭っても、涙は止まらなかった。
「……………君は、本当に真直ぐに育ったね」
 俯いた頭に乗せられたてのひらは、父さんのものよりも小さかった。
「わたしがこんなことをいうのは傲慢で烏滸がましいのだろうけれど………彼を、看取ってくれてありがとう。心から感謝するよ」
 視線の先にあったのは、同じ貌だった。
 これが、父さんが追い続けた人だ。
 柔らかい緑の滴る木漏れ日の中で、琥珀の髪が揺れる。
 白い肌に影を落とす睫も、その下にある虹彩の色も、鼻梁や顎の形まで、準えたように同じ造りをしている。違うのは背の高さくらいのものだ。
 父さんが追い求めていた人が、目の前にいる。
 僕と同じ貌をして、同じように逝った人を想っている。
 たった一つ違うのは、僕の頬は濡れているのに、この人の頬は濡れていないということだ。
 ………寂しい人だ、と思った。
 この人はどんなに泣いてもその頬に泪の跡を残しはしない。もう、誰もこの人の頬を濡らすことなど出来はしない。この人に涙を流させることの出来た人間は、父さんは、もう死んでしまった。
 どんなに泣いてもこの人の泪は乾く。孤高に、独り生きていくということは、こういうことなのか。
「苦しんだのはわたしだけではないのだろうね。君も、君のお父さんもお母さんも、同じように苦しんだのだろうね。一人だけ安らぎを得るというのは虫の良い話だけれど、それでも、わたしは今日此処へ来て救われたよ。彼が、最期の一瞬までわたしを想っていてくれたというのなら、……………」
 途切れた言葉。
 優しい視線、穏やかな微笑を浮かべた口元。
 ああ、と、思う。理解するよりはやく、納得することが出来た。
 この人も。
 ……………この人も、何ら変わることなく、父さんのことを、ただ、只管。
「………どうか、幸福に」
 優しい言葉と涙に濡れた頬を掠めた唇の感触は、秋の風に呆気なく消え去った。












 僕が遺伝上の父親に会ったのはあの時一度だ。
 噂を耳にすることもなかったし、探そうとも思わなかった。
 それに僕には確信があった。
 きっと、あの人は父の後を追ったのだろう。
 だからこの地平の上であの人を探すことはもう叶わない。
 父の書斎を片付けている時に、数は少ないけれど、あの人とやり取りした書簡を見付けた。僕が生まれる以前のもので、専ら戦場の互いを思い遣るものだった。そこには具体的な愛の言葉など一言も存在しなかったけれど、端々に柔らかい気遣いや思いやりが介在していた。父はその手紙を何度も指でなぞったのだろう、インクは所々掠れて、涙の染みが付いているものもあった。
 閉ざされていた母の部屋にも風を入れた。彼女が残した日記を見付けたので、時間が許す限りそれを読んでいる。死に逝く母は、最期に、生まれてくる子供と、それから二人の男の幸福を祈っていた。僕は、母が詰まらない女だったなどと少しでも思ったことを反省した。
 輪廻など信じたことはないけれど、もしも来世と呼ばれるものが真実存在するのなら、今度こそあの二人が添い遂げられたらいいと思うことがある。母さんも、天国できっとそう思っているだろう。
 あれから僕は、自分のことを『わたし』と呼ぶように改めた。
 騎士団のお偉方の中には、相変わらずわたしの後ろに彼の姿を見る者もいたけれど、どうでもいいことだった。
 少しだけ父のことを思い出したくなると、こっそりと城の回廊に飾られた絵を遠くから眺めた。
 高名な画家の筆によって、その一枚の画の中には、マチルダでもっとも名高い二人の団長の姿が描かれていた。
 わたしは父の後を追って青騎士となり、順調に階位を上げた。そう遠からず、父が腰掛けた椅子に座ることになるだろう。
 そして、時折父と過ごした家に戻っては、二人で過ごした庭を眺めてみる。
 今日も日射しは穏やかで、空は青く澄み渡っている。
 明日は、庭で紅茶を飲もう。
 父のカップで、あの人が一番好きだったという葉の、紅茶を。












end.