被爆体験記

 

二度と過ちの無いことをねがって  長崎 まさ

 

 194585日、呉の街は焼夷弾におそわれ一晩中あちこちが真っ赤に燃え上がり火の海になってゆく様子を見ながら、次は広島がおそわれるのではないかと眠れぬ夜を過ごし夜明けまでその恐怖におびえていました。

父母は姉の舅が危篤だという報せを受けて、岩国へ前日から出かけて行き、当日は留守で女学院二年生の14歳の妹武子と二人だけでした。

他の二人の妹は学童疎開に行ってました。武子は建物疎開のため国泰寺の一中のグラウンドに8時前から元気に「行ってきます」と大きな声をかけて、出かけて行きました。

 昨夜の恐怖も何もなかったようにキラキラと太陽は照りつけていました。

B29が静かに広島の空を旋回しているのを見ながら打越にある父の経営する軍需工場に出かけて行き事務所に入って間もなく、ガラス窓に強烈な白い閃光と同時に815分大きな音が鳴りました。

爆弾が落ちたという声で一斉に皆防空壕に逃げようと叫んだと同時に工場は一瞬に全壊してしまいました。

気がついた時はうめき声があちこちから聞こえ、体を動かしてみても身動きがとれず次の瞬間には外はざわめきの声が聞こえ、「助けて!助けて!」と逃げ惑う足音がバタバタと聞こえてきました。

しかし自分でもがいてもどうしても身動きがとれず、「ああこのまま死ぬのか」と、生き埋めになったとわかった時の恐怖感は今でも体の中に残っています。

どの位時間が経ったか記憶はないのですが、工場の人が外から呼んで下さる声に意識が戻り、瓦や屋根や垂木を取り除いて助け出された時は顔中にガラスの破片がいっぱい刺さり血だらけでした。

パーマをかけた髪は逆立ちになり、口は三つに裂かれ、歯は折れ、物が言えないほど膨れあがりその姿を思い出すとペンも止まります。後でわかった事ですが、二階のある所の下敷きになった人たちは皆亡くなったことを聞きました。

 

三滝の軍の病院に逃げて行き、手当てを受けようと思いましたが医療品もなく、三角巾をもらって、膨れあがりちぎれそうになった口を三角巾でおおい、とぼとぼと国道を一人で歩いて、衹園まで逃げました。

その時、雨雲が真黒に空をおおい、すごい雨が降ってきました。

恐怖に怯え、ある農家に雨やどりを頼みました。その姿があまりにひどいのでしょうか、

便所の片隅にかけさせて下さったことを思い出します。

衹園の小学校まで逃げ、たどり着いた時、学校は慌てふためき負傷した人達を収容するのにバタバタと準備をしていました。

校庭の片隅で一人で待つ心細さと同時に目に映る光景の異常さ、広島から段々と来る人は、手も足も体も二倍に膨れあがり、着物ではなく皮膚がたれさがっている事がわかりました。

人の顔も見分けがつかない状態で頭は丸坊主に焼け縮れ放心状態の人が列をなして歩いて来る様は生き地獄を見るようでした。

何が起きて、何があって、このようなことが起きているのか理解する事も出来ず、トラックで疎開先の可部に運ばれました。可部の疎開先にたどりつき知人宅へ行き、手あつい看護を受けました。

口が腫れてどうする事も出来ないので鈴張から医者に来て頂き、夜の灯火管制の薄暗いローソクのもと、その光の中で麻酔薬もないままで、生身で縫ってもらい、とても痛かった事を記憶しています。食べ物も食べられず水滴で流動食を食べさせてもらったように記憶します。

 その後、体がやっと動けるようになり、広島の日赤に整形をお願いに行きましたが、私の傷は問題にならない程小さい事がわかりました。

しかしガラスの破片が腕の中に残り、傷が癒えてしまっているので後日手術して出してもらいました。

 それから日毎年毎にどんな悲惨な事が起きたかがわかってきました。

 六日の朝元気に出かけて行った妹の安否は分からず父が岩国からとんで帰ってきたのが昼過ぎ可部の疎開先で私を見つけて、生きている事がわかり安堵と共に妹が気がかりで毎日毎日広島の街を探して歩きました。

しかし一中のグラウンドで共にいた学生たちは全員一中のコンクリートの塀の下に生き埋めになり火に包まれて、逃げ出せなかった人達は亡くなった事実がわかりました。

消息もわからずお骨も見つからないまま初盆をしようと話し合っている時、よれよれになった郵便が何日も過ぎて届いたのが終戦の日でした。

その一枚のはがきで岩国の姉の家を頼って西に向いて逃げている事がわかりました。妹武子の無事な事をどんなに喜んだことでしょうか。

間もなく岩国から元気で帰ってきました。中心地は火の海で逃げ場がなく、運動場の片隅の貯水槽の中につかり熱くなるとその水を頭にぬらして火の海がおさまるのを待って、夜になって西は大丈夫と聞き、逃げたという事でした。

 岩国で毎日かぼちゃを食べさせてもらって、おいしかったと話してくれました。皆でうらやましいねと話した事を思い出します。その時代は食べ物のない時代でした。

 妹武子は首の後ろに少しすじのような傷がありました。しかし元気でしたので私の看病をしてくれたり毎日毎日近所の方が亡くなった時は葬式に出てくれていました。

その後9月に入ってもやはり葬儀が続き、雨にあって帰りその夜から高熱が続き髪の毛が抜け始めました。お医者様に来てもらい1本の注射がやっと手に入り打って頂くと一層苦しみが加わってゆく状態でした。

体内が破壊されつつあるのに逆作用を起こす結果となって一層苦しんでゆく姿を看病しながら、いずれ自分も髪が抜けこのようになるという精神的な恐怖感は心の底に深く落ちてゆきました。

11日症状は悪化し、口から毒物であろう青黒いものを吐き、目、鼻、耳から血膿が出てくるのです。腸がとけてゆくのでしょうか。激しい下痢が始まり、もがき苦しむ状態は傍にいる者は耐えられないものでした。

意識ははっきりしている故、自分は何故こんな目にあうのかと訴えていました。

しかし2年間でも女学院で礼拝を受け神を信じ、苦しい中で讃美歌320番「主よみもとに近づかん のぼるみちは十字架に」と口ずさみつつ神の国のおとずれを固く信じて、何日か後に息が絶えました。それが放射能の影響だという事がずっと後にわかりました。

原爆に対しての知識は全然なく70年は草木も育たないバクダンが落ちたそうなと人づてに聞くだけで多くの犠牲を払った後、敗戦を迎えました。

大切な一人の娘が苦しみの中で死んでいった悲しみ、怒り、嘆きは子どもを持って初めて親の思いがわかるとよく申しますが、父の年齢になって父の生き様がわかってきました。

敗戦の何もないさつばつとした世の中に娘の死、また工員の方々の亡くなられたのも父の心の中にあり、広島で犠牲になった方々のために平和を強く願い、また祈りとなって生活の中に現れてきました。

 父は発明することが好きで新案特許権を120くらい持っていたことが死後わかりました。

 その中の一つがエスキーテニスでした。球に羽根をつけて小さな場所でも皆が仲良くスポーツを通して平和を作り出そうと考えたようです。

その平和運動のために私財を全部投じてゆく、そしてエスキーテニスを拡めてゆく姿を見て何故あそこまでしなければならないのか、若い時の私には理解する事ができませんでした。

少しは自分の老後を楽しんだらいいのにと生前は思っていました。心筋梗塞で何の遺言もなく、亡くなりました。1959年、58歳でした。まだ時代も苦しい時で私共も貧しく何一つ親孝行もしませんでした。

父は何時も永遠の生命を残すためにと申していましたが亡くなって36年経って、深い思いで生きたのだという事がわかります。

 さて、振り返ってみますと、心に体に刻まれた被爆体験を通して命の尊さを深く学んだように思います。

恐怖心から、音と光が非常に怖い、何時も怯えて生活する私を支えてくれたのは主人でした。

終戦の年12月に結婚しました。サッカーで鍛えた主人は精神的にも肉体的にも今思えば非常に強い人だと思います。

支えてもらって現在がある事を自覚し感謝して生活しています。夫の職業柄広島を出発点として呉、下関、岡山、広島、三重県の津、名古屋、福山を廻って広島に帰ってきました。

戦前、流川教会で受洗しました。

 女学院を卒業する時頂いた聖句”我等は神と共に働くものなり”(コリント前書3.9)、この言葉に支えられ自分の半生を生きてきたように思います。

また、多くの信仰の友に出会い、与えられた恵みは数え切れない程あります。

 友の会では、山室光子先生との出会いによって美しいものを愛する心、美しいものを創り出す喜びを学び、創作工芸の道をひとすじに歩いてきました。

何時も背中に死を背負って、この十字架を背負い、核の恐ろしさは20世紀が終わらないと真実はわからないと思います。

次の時代にこの悲しみ、苦しみを譲らないように平和な世界がおとずれますよう、ひたすら祈り神様の御用を喜んでさせて頂きたいと思います。

また、弱い私でしたがたゆまない努力を重ね現在の健康を頂きました。

 

追 記

 1995年の86日は被爆50周年のため女学院は平和祈念行事があり映画「夏の雲」を見せて頂き、中・高校地に慰霊碑を建てて頂きました。

多くの方々のよい準備の中で追悼懇談会があり参加させて頂き、皆の祈りの中で妹の魂は神様のもと、天国で安らかに眠っている事を思います。