†…喪失という言葉に惹かれるのは?… †

 僕が喪失という言葉に言い様のない魅力を感じている。

 これは子供の頃からの傾向で、何かを失うことに僕は強い興味を持っていた。そこに何かしらの意味合いを見つけようとするのは無意味なような気がする。これはあなたはなぜこの人が好きなんですか?というような類のモノと何ら変わりないからだ。

 

 だが、しかし、僕がこの言葉のどこに魅力を感じるのかにあえて答えるとするなら、僕は僕の人生に関してこの喪失という言葉が深く関わっているような気がするからかもしれない。

 

 僕は人生において確かに失いつづけている。

 特に「特別」な存在を失いつづけているように思えてならない。

 

 僕が唯一好きだった相手を僕は失った。

 彼女の(メタファーとしての)死は誰の責任でもないと僕のまわりのみんなが言ったけど、僕にもう少しの慎重さと賢明さがあれば、もしかすると、僕は彼女を失う事はなかったし、二人でともに歩みつづける人生が続いたのかもしれない。

 

 けれど、現実は彼女を僕は失ってしまった。

 

 彼女の失踪は彼女が自主的に判断した時点で、彼女の責任である。

 友人はそう言って、僕を励ました。そして、僕に一通の直接家のポストに投げ入れられていた彼女の手紙だけが残った。

 その手紙の中で彼女は僕に謝りつづけた。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 しかし、その謝罪の言葉は僕の心の喪失感を深くすることはあっても、浅くすることはなかった。僕は謝罪の言葉を受けるたびに、このときの手紙を思い出す。書かれている事は同じだった。ただ、言葉が違うだけ。謝りつづけた彼女の最後の手紙には、そこには僕に何かしらの期待をもたせるような言葉は丁寧に削除されていた。

 

 僕はその時、初めて、自分の大切な何かを失った。

 

 今でも僕は人から謝られるのは苦手だ。あの時の喪失感が蘇ってくる。

 

 喪失感。

 すっぽりと自分の大切な自分が失われてしまったと言う確実な感触。

 何かができたはずだという後悔、自分が無能であるという無力感。

 「何か」を崩壊させたくなる行き場の無い暴力は、最終的には自分自身に向けられる。

 怒りは、激しいほど、瞬時に消えてしまう。

 そうして、その後、深い喪失感だけが残るのだ。

 

 彼女の壊れた家庭環境。

 家庭内暴力。

 不倫。

 壊れた家族。

 すべては彼女にとって酷だった。彼女の家庭環境は大人のエゴにより、子供には耐えられるものではなかったし、大人の身勝手さは彼女をどれだけ傷つけたのかは、推測はできるけど、実感できるほど、浅いものではないだろう。そして、愛し合いながらも、憎む事しかできなかった家族の関係。

 そして、彼女を僕は救おうとした。

 若いから、必死になれば、なんでもできると思っていた。

 そう、思いたかった。

 

 二人は愛し合った。

 愛すると言う行為はやはり尊いものだった。

 そして、僕は彼女にプロポーズした。

 結婚しよう。それは必要性から出た言葉だった。

 そうとでも言わなければ、彼女を僕は引き止められないと知ったからだ。

 愛してはいただろうけど、中学生の時に、付き合いが結婚まで繋がる事はまずない。何かしらの結婚にいたるまでの契機…例えば、妊娠とか、そういうものがなければ、普通なら決して想像できない。

 

 彼女は中卒で、働く予定だった。勤め先は一般的に言えば、「夜の仕事」の類だった。

 彼女はその事に嫌悪感を覚えていたけど、様々な理由から、仕方がないと思っていた。そして、卒業をしたら、別れましょうとも言っていた。

 けど、僕は彼女とともにいたい。

 ともに幸せを享受したいという、一心で彼女にプロポーズをした。

 彼女は首を横に振った。けど、僕たちは何度も話し合った。そしてついに彼女は頷いた。

 確かに頷いたのだ。

 

 幸せになれるだろうという予感。

 いや、僕はその時すら信じられなかった。

 このままで幸せになれるわけがない。

 複雑に絡み合った糸を解きほぐすにはかなりの時間を要するとわかっていた。

 二人なら何とかなる。僕はそう信じようとした。

 けれど、不幸になるかもしれないという不安感は常に僕の心の奥底に存在していた。

 

 そして…彼女の母親は反対。そして家庭内暴力は悪化。

 彼女はなぜ僕のところに逃げ出してこなかったのか今でもわからない。

 ただ、僕に迷惑をかけたくなかっただけかもしれないし、もしかすると、僕が彼女の信頼を勝ち得なかったからかもしれない。

 理由はわからない。

 

 そして、僕たちが中学校を卒業した翌日、彼女と母親は引っ越してしまった。

 行く先はわからなかった。約束は反故されたわけだ。

 

 僕はそれから「失う」という物事について、深く興味をひかれるようになった。何かしらの諦観が生まれたのかもしれない。結局、人は失うだけなのだという、諦観。

 僕たちは生き続ける限り、何かを得て、そして失わなければならないと思う。大切なこの気持ちすら僕は時とともに失いつづけている。そして最後に自分の生を失うのだろう。そして、今度は僕たち自身がまわりの人間から忘れ去られ、そしてこの世には僕たちが生きていたと記憶する有機物は存在しなくなるのだろう。

 

 では、僕たちの「生」は儚いのだろうか?

 僕の答えは否である。

 僕たちは来歴として、残る。

 僕たちを覚えていなくても、僕たちは徐々に雰囲気として、存在するようになるだろう。

 ご先祖様が必死に生きたからこそ、「今」がある。失い続けても、たとえ地球を失ったとしても、それ自体に意味がなくなったとしても、僕たちが生きた影響は絶対に存在する。

 

 そう、考える事によって、僕は時間の連続性と独立性を意識し、昔の名も無い人たちの生き様を現在に感じる事ができる。

 

 ざっくばらんに言ってしまえば、「いつ失うか(死ぬか)」が問題ではないと思う。誰でもいつかは死ぬのだ。本当に大切なのは「失う(死ぬ)までにいかにして生きるか」。それがもっとも大切なものだと思う。。

 

 「喪失」という言葉に惹かれるのは、僕にとって、生きる「秩序」を観察するという意味を持つからかもしれない。


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