オランダで見えたモノ


† プロローグ †

 「あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかった事を、何もかもお話できそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね」

 1942年6月12日

 アンネ・M・フランク

†…旅の前…†

 僕はオランダに行く前、海外旅行によく行く女友達とディナーをご一緒する機会に恵まれた。その日の夜は、真夏の意地の悪いむっとするような熱気に包まれた夜ではなく、まだ春の名残をとどめる初夏らしく気持ちのいい夜だった。

 「わたしは旅をするのが好きで、特に海外旅行が好き」

 彼女は楽しそうに言葉を続けた。僕は膝元にあるナプキンが落ちそうになったので、それを手で直した。なんとなくこのナプキンは邪魔だと思った。

 「以前、台湾に一人旅をしたんだ。飛行機、田舎の無人駅、都会のバス、屋台、茶房など、あちこちに人や景色、空気…雰囲気との出会いが溢れていて、神様が“頭の中で考えているよりも、もっと世界は面白いぞ”って啓示を与えてくれたような旅だったな。」

 彼女ははにかむように微笑み、そのはにかみの言い訳をするように、一言付け加えた。 「おおげさ」

 「帰国してから、これまで出会った国々のことも全部含めて考えてみたんだ。なぜ、旅をすると、一日一日がとても凝縮されて、感じられるのだろうかって。」

 「凝縮された一日?」

 僕は彼女の言葉を鸚鵡返しのように呟く。彼女はうんと一つ頷いて、続けた。

 「名所を訪ねるのも、ぼんやりカフェで寛ぐのも、人と話すのも、ただ歩くことだけでさえ、旅の途中だと色々なことを発見できたり、輝いて感じられるってこと。そういう真新しい発見を旅はたくさん与えてくれるのよ。」

 「なぜ?」

 僕は彼女の言葉に小首をかしげた。なぜ、旅のときだけ、こうにも色々な濃縮された一日を彼女は過ごせるのだろう?僕の問いに彼女は数瞬、正確には深呼吸二回ほど間をあけて答えた。

 彼女が慎重に言葉を選ぶとき、右手の人差し指が細かく机を叩くクセがあることを僕は知っている。そして、今、彼女の右手の指は軽く机を叩いていた。

 彼女は真剣に自分の言葉と向かい合っている。

 「それはきっと」彼女はここで言葉を切った。そしてまた続ける「全然、知らない土地で方向も言葉もわからず、地理にも疎く、常識のもなくその場所で『小さくて弱い立場』になるからだと思う。」

 彼女の視線は僕ではなく、僕の後方にあるシャンデリアの光を見つめていた。何かに思いをはせているのだろうか?それとも、もしかすると、そのシャンデリアの光の中に神の啓示か、悪魔の囁きが存在して、彼女は巫女同然にその言葉を汲み取っているだけなのだろうか?

 「どこかに連れ去られてしまっても誰もわからないし、変なものを食べてしまうかもしれない。大事な表示を見落としてしまうって危険性もあるわよね…そう、騙される事だってあるかもしれない。だから、感覚を研いで、澄んだ緊張を持ってなきゃいけない。」

 ここで彼女はにこりと微笑んだ。

 「そんな風にしていると、とてもささやかな優しさも気遣いも、アドバイスも一つ一つが心に染みて、感じられる。どんなハプニングが起こっても、文句を言うよりも、何とかしようとする。」

 彼女はじっと僕を見つめてきた。瞳はまるで底なし沼のように吸い込まれると思えるほど、闇の色が濃かった。

 僕は少し落ち着かなくなった。

 誰だ!?

 と叫びたくなった。僕の知っている彼女だ、確かに。指で叩くクセがあるのがその証拠だ。

 …しかし…

 僕は自分の考えに自分で反論する。

 これほどに彼女は澄んだ瞳をしていたのだろうか?

 もっと、彼女は荒んだ瞳をしていたはずだ…

 「言ってる事はわかるかしら?」

 彼女はそう尋ね、僕は頷き、先を促した。

 「だから、“世界で一番小さく弱いもの”になったつもりで日常も生きてみたら、きっともっと神様からの啓示も、悪魔の囁きも、感じ取れるような生き方が出来ると思ったな。」

 僕はボーイにワインの追加を頼んだ。彼女はグラスに残っていた赤ワインを一気に飲み干した。キャリアウーマンらしくとてもワインの似合う飲み方だった。

 「ううん、きっと、改めて思わなくても、人はいつも何かに警戒していて、小さくて、弱くて、その弱さを残念だけど庇おうとしていると思う。だから、弱さや小ささを庇う働きが集団としてまとまってしまうと、ずうずうしさや無遠慮さに変わったり、他人が周囲をさらに小さく評価・卑下したりして、その優越さで自分の小ささや弱さを補おうとしているかもしれないね」

 ボーイがワインを注いだ。向こうまで歪曲して透けていたグラスに真紅のワインが注がれ、紅く染まった。

 「弱いことや、一人で孤独なことをいい意味で大切にしないと、すごく損な生き方をしてしまうかもしれない。あなたの言う“小さくて弱い自分を愛してあげたい”というのは素敵な心がけだと思うよ。」

 彼女は、自分が今までさんざんクサい台詞を僕に言ったことに気づいたのか、焦ったように、言葉を重ねる。

 「柄にもないことを言っちゃったかな?」

 僕は「いや、いい話だったよ」と答えた。

 彼女は自分に対して気まずいのか、すっと視線を中庭に移した。照明で綺麗にイルミネイトされた庭園を眺める。純和風とは言いがたく、どちらかと言えば、西洋的な中庭は、東京の真ん中だとは思えないほど、広く、僕たちからではその全容を推し量ることは不可能だった。

 「海外旅行、楽しんできてね」

 言外にお土産を要求しているのかと、僕は疑ってかかったが、彼女の瞳は涼しげに笑っていた。

 「はいよ」

 僕はワイングラスを掲げ、彼女もそれに倣い、僕たちはワイングラス同士を口づけさせた。

†…オランダ…†

 僕はアムステルダムにつき、初日は時差ぼけ解消の為、ホテルでゆっくりと過ごした。そして二日目、午前中はハイネケンのビール工場を見学した後、僕は旅の最大の目的アンネ・フランクの家を訪れた。

 アンネの家は僕に歴史を感じさせる家だった。いや、正確にはアンネに出逢える家だと言った方がいいかもしれない。家の中はどこもかしこもアンネの雰囲気が残っているようだった。

 壁の傷や汚れ

 ポスター

 台所

 そして屋根裏部屋…

 どれもが僕にとってアンネの日記で読んだものであったし、とても肌に馴染んだ。『アンネの日記』の通り、隠し本棚からアンネたちが生活していた屋根裏部屋へと入ることができた。

 急な階段を上り、屋根裏部屋へと進む。

amsterdam11.jpg (12468 バイト)(本棚が開き、その先には急な階段がある)

 屋根裏部屋は2フロア。さびれた机と光を差し込む窓。窓を開くと、レンブラントを埋葬して有名な西教会が見える。

 「ねぇ、マルゴー?」

 そんな声を聞いたような気がした。

 部屋の中を見渡す。日記の一部である壁の落書きを見て、僕は微笑もうとしたけど、微笑みは自分の感情を偽るだけだった。

 その部屋は本質的に暗さを沈殿させたままだった。

 あと少しで終ったのに…

 戦争は終ったのにという無言の嘆きが聞こえてくる。

 この部屋は悲劇の証人だった。それを僕たちはしっかりと受け止めなくてはならない。

 「そう、ここでわたしは育ったの」

amsterdam12.jpg (14437 バイト)(ここでアンネとその家族は生活していた)

 ふと、視線を部屋の中央に戻すと、そこには少し哀しそうに微笑んでいた。僕はなぜか彼女がここに存在していることに疑問をもたなかった。その澄んだ瞳がとても印象的だった。

 「こんにちは」

 間抜けだったけど、とにかく僕は挨拶をした。彼女も嬉しそうに「こんにちは」と答えた。

 僕は君に会いに来たんだ。君の日記を読んで、その天真爛漫さにとても勇気付けられた。一人で孤独な時、君のその日記の呼びかけがどれだけ僕の胸に笑みと言う言葉を思い出させてくれたか…いつも君は微笑んでいたね。そして君はどこにでもいる微笑の似合うとても綺麗な女の子だと僕は知っている…それなのに…なぜ、時代は君を待ってくれなかったんだ!!

 「そんなに哀しまないで。」

 僕の表情を読んだのか、彼女は首を横に振る。「なぜ?」と僕が尋ねると、彼女は窓際に立ち、下の西教会の屋根を見た。

 ―昔と同じように―

 彼女の哀しそうな表情は少し晴れた…ような気が僕にはした。

 「こんな平和な時代がくるとは思わなかった。遠い日本からあなたのような日本人がわたしの家に多く来るとは思わなかった。」

 彼女は呆然と部屋の中央で立っている僕の方を向いた。

 「いつも色々な人と出会う。」そして彼女の微笑みは深くなった。「そして時々、部屋の中にいるわたしに気づいてくれるの。」

 彼女は僕を窓際に呼んだ。僕が横に立つと、彼女は僕の顔を見上げるように覗き込んだ。

 「あなたのようにね」

 僕は照れくさく、肩をすくめ視線をアムステルダムの街並みに移した。そして旅行前にディナーで一緒に食事をした女性の言葉を思い出す。

 小さくなって、見えるものか…

 「アムステルダムの観光は?」

 「ビール工場だけ」

 彼女はくすりと笑って、「じゃあ、わたしが案内してあげるよ」といった。僕は焦って首を振る。

 「そんなの悪いよ。君を訪ねてくる人がこれからたくさん来るし…」

 彼女は「気にしないで」と言った。

 「屋根裏部屋に閉じこもってばかりじゃ、やっぱり退屈だからね」

 彼女はずっとそこに隠れ、そして終戦前に見つかり、収容所に入れられ、飢ええたままチフスにかかって死んだ。終戦の一ヶ月前だった。そして彼女が外に出たのは隠れ家から収容所に行くまでだった…

 「オーケー、じゃあ、デートといきましょうか、レディ?」

 僕は頷いた。

 

 「そもそも、”アムステルダム”って町の名の由来は「アムステル川に築かれたダム(堤防)」という意味からきているんだよ。実際、アムステルダムには、165本の運河と1292の橋をもつしね。」

 彼女は得意満面に僕の旅行ガイドを買って出てくれた。

 「扇状に張り巡らされた運河に沿って、昔の豪商の館や教会、煉瓦造りの家屋などが建ち並んで、すごく美しい風景なんだよ」

 僕は「へぇ」と相槌を打つ。

 「なぜ、こんなにも家が狭いんだろう?」

 僕の疑問に彼女は笑う。

 「日本はどうかわからないけど、アムステルダムは税金って家の幅で課税されるんだよ。」

 「家の幅で!?」

 「そう、ほら見て。」

 彼女の指した先に、屋根のところに小型クレーンのついた家を見つけた。

 「あれは?」

 「玄関から入らない家具を二階の窓から吊り上げて、入れるためのクレーンなの。」

 横幅のない細い家々が立ち並ぶ。レンガを基調としている。とても堅実な印象を僕はこの町にもった。しかし、このレンガが闇にまぎれると、そこはすでに別世界になる。性とドラックの街へとアムステルダムは姿を変えるのだ。

 「なぁ、ドラック買わない?」

 と胡散臭いおっさんが声をかけてくる。僕は首を横に振った。ここではマリファナ、八ッシジなどがコーヒーカフェで簡単に買えるのだ。たばこのように、とてもあっさりと。

 そうして、そのことについて、僕がなれ始めると、僕は徐々にそのアムステルダムの街並みに溶け込んでいく。

 飾り窓は一昔前だったら美女かもなぁと思える女性が暇そうに下着姿で部屋の中を歩いていた。時々、飾り窓はカーテンで閉められていて、こういうときは「商売成立」の意味を示すのだそうだ。

 また、日本と違うのは、市民の性の意識もかなり違う。去年、男友達がアムステルダムに来たときに、ひどい目にあったと僕は聞いていた。夜中、一人で裏通りを歩いていると、男たちに話し掛けられ、尻を執拗に撫でられたとか言っていた。

 「夜中のアムステルダムは一人出歩くのは危険だから気をつけろよ」

 彼は真剣に僕に忠告した。

 「アムステルダム駅は非常に東京駅に似ているんだよ。」

 僕の言葉に彼女は目を丸くする。

 「うそ?」

 「嘘を言うわけないじゃん。東京駅はね、アムステルダム駅をモデルにして造られたから」

 「へぇ、意外ね。」

 「東京駅にはね、八重洲口っていうのがあるんだけど、そこは『ヤン・ヨーステン』が語源なんだってさ。屋敷がそこにあったらしくてね。」

 「ヤン・ヨーステン?」

 彼女は眉をひそめる。僕は頷いた。

 「日本とオランダの交流にちょんまげの時代にとても貢献した人だよ。僕たちみたいに。」

 彼女は笑って頷いた。

 「国交があったんだね、昔から。」

 「そう、唯一、その時代ヨーロッパと国交のあったのがオランダだったんだよ」

 

 僕たちは街を縦横無尽に走る運河のクルージングに参加した。ワインとオランダチーズの取り合わせに僕は満足しながら、僕はアンネと共にアムステルダムの夜景を眺めた。アムステルダムは夏でも過ごしやすい。この時間の気温は17度くらい。過ごしやすい気候だ。

 レンブラントのモデルにも何回もなったモンテルバーンス塔は綺麗に光でイルミネイトされて、僕たちのクルーズを見下ろしている。

 僕とアンネの間に終幕を予感させる沈黙が流れた。

 「アムステルダムを楽しんでくれたかな?」

 僕は塔からアンネに視線を戻し、「もちろん」と答えた。彼女は微笑む。

 「何か見えたかしら?」

 僕は頷く。『君に会えた』と心の中で答えた。

 彼女はテーブルに一通の手紙を置いた。

 「それは?」

 彼女は「飛行機に乗ったら暇つぶしに読んで」とだけ一言答えた。

 その刹那――

 一瞬、風が僕の顔に吹き付け、僕は目をつぶった。

 目を開けてみると、アンネの姿は消えていた。

 僕は夢を見ていたんじゃないかと思った。しかし、テーブルの上には手紙が一通置かれていて、それがアンネの存在を僕に信じさせてくれた。

†…わたしの新しいお友達へ… †

 僕はすぐに手紙の封を切ったけど、そこには何も書かれていなかった。帰国の飛行機の中まで便箋はずっと白紙だった。そして僕はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを巡って、帰国の途についた。そして機上、手紙を開くと、そこにはついさっきまで何も書かれていなかった便箋に丁寧な字が下の方までびっしりと列をなしていた。僕は少し苦笑して手紙を開く。

 “ありがとう。久しぶりに楽しく一日を過ごせました。あなたはキティー、そしてマルゴーと同じくらい大事なお友達です。本当に遠くの国から来たんですね。あなたと別れてから、家に帰って地図で日本の場所を確認しました。わたしの知っている日本のイメージは忍者、刀、ちょんまげ、着物というものばかり。だから、あなたを見て、そして今まで見てきた日本人たちを思って、少しがっかりしました。だけど、同時にホッともしていたんです。わたしたちと全然変わらないから。あなたはちょんまげもしていなかったし、刀も腰にさしていませんでしたからね。

 人はいつもわたしを忘れています。わたしの前を通り過ぎて、わたしの部屋の家具や落書きなどをただ見るだけです。そう、ただ見るだけ。「ああ、ここでアンネ・フランクは生きていたんだ」って思うだけ。時々、わたしの息吹を感じ取ってくれ、わたしの存在を気づいてくれる人もいるけど、一ヶ月もすればその記憶や感動は薄れ、そして一年も経てば、もうそれは波にさらわれた砂のお城のようにほとんどが細部を失って、ぼやけてしまっていることでしょう。そう思うと、旅行中、あなたが感じたわたしやオランダの色々な匂い、息吹が死んでいってしまうようで、とても哀しいです。

 旅行中、何を感じ、どう思ったのか。それを忘れてほしくないんです。あの運河の夜、光でライトアップされたアムステルダムの景色を見て感動したこと、ブローチェを頬張って美味しいなと感じるあの気持ち、そしてわたしの家で戦争の影と民族のどうしようもない隔たり、そんな特殊な旅行という特殊な環境でしか見えなかったことをすべてではなくても出来る限り、日常でも覚えていてほしいんです。わたしと同じような不幸な人々はきっとあなたのその住んでいる街並みにも存在していると思うから。わたしのために、その人たちのために。

 あなたはきっとこれからも色々なところへ旅行に行くでしょう。その場にはわたしのように、色々な見えないものが存在しています。その見えないものを小さくなって、気づいてくださいね。わたしを気づいてくれたように。本当にわたしは嬉しかったから。

 過去の歴史でも本当の歴史の話はきっと歴史の話ではないんだと思うんです。旅も本当の旅の話は旅の話ではなく人の心の話だと思うんです。あなたの本当の旅行の話を作り上げて、わたしをずっと覚えていてくださいね。

 

 じゃあ、また アンネ・フランク”



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