朝食を摂っていなかったフレイは空腹も覚えていたが、そこまでは言い出せなかった。 だから、休憩を兼ねて、城下にあるというアーノルドの邸宅に寄って昼食を、と提案された時には、迷わず頷いたのだった。
城に最も近い住宅地は、概ね貴族の館で占められている。父親が現騎士団長であり、代々王に極近いところに務める役目を担うノイマン家は、当然その一角に居を構えている。とはいえ父親であるアルベルトも、一人息子のアーノルドも、ほとんど城に居住しているようなもので、実質フラウ・ノイマンが切り盛りしているようなものだった。 連絡も入れずにいきなり訪れた息子と客人―――しかも自国の王子とその婚約者―――にも、一瞬驚いただけで後は平然と歓待している辺り、案外大物なのやも知れぬ。 フラウはアーノルドに良く似た―――否、息子が母親似なのだ。華やかな美貌ではないが、清楚かつ芯の強そうな面立ちをしており、成人した子どもがいるにしては若く見える。髪は真っ直ぐでしなやかな黒色。
着いてすぐにフラウが命じたおかげで、さして待つ事なく食堂へと通された。 「申し訳ありません王子、姫。急いだものできちんとしたものはお出しできませんが。全くアーノルド、来るなら来ると、先に言っておいてくれれば良かったものを」 「仕方ないだろ、さっき決まったんだから…」 「いや、俺が頼んで寄らせてもらったんです。突然だったのに、わざわざすみません」 「王子がいらっしゃるのはいつでも大歓迎ですわ。―――フレイ様、お口に合うかどうか分かりませんが、どうぞ召し上がってください」 「ありがとうございます」 確かに簡素ではあったが、歩いたりしたせいか、フレイは食が進んだ。 フラウは適度な間隔とタイミングで会話を切り出し、場を盛り上げるのが上手い。いつになく―――久方振りに、フレイは気分の良い食事ができたのだが、先刻まで不満ばかり数えていた事など…本人はすっかり忘れていた。
夕刻になり、城に帰ってきた主を、セリカは意外な思いで出迎えた。 「お嬢様、楽しんでこられたのですね」 「そう?」 「いいお顔をされてらっしゃいます」 「―――まあ、案外悪くなかったわ。ただ足が疲れたけれど。こんなに歩いただなんて」 「それでしたら、湯浴みにむくみを解消する香草を入れましょう」 「そうしてちょうだい。すぐに入るわ」 「はい」 このところずっと不機嫌で塞ぎがちだったフレイが、外出をしてどうなる事か―――と心配すらしていたセリカだったので、この結果は至極嬉しいものだった。心の中で、誘い出してくれた王子に礼を言いながら、急いで湯浴みの仕度をすべく動き回った。 準備ができてフレイを呼ぼうと部屋へ行くと、彼女は自分で結い髪を下ろしていた。これまた珍しいことだ。 窓際の椅子に腰掛け、髪飾りを外してテーブルに置いている。 「お嬢様、その花は…」 「あぁ、これ?貰ったのよ」 「王子様に、ですか?」 「初めて貰ったものが花一輪なんて笑っちゃうわよね」 そう言いながらも、花を突付く指は優しい。 「―――せっかくですから、花瓶に活けましょうか」 「一輪だけ挿すの?かといって、他の花と一緒じゃ、見劣りするわね」 「グラスではいかがでしょう」 セリカが提案すると、フレイはあぁそうねそれがいいわ、と言って、戸棚を指差した。 ナイトキャップ用の小さなグラスを取り出し、水差しから水を注ぎ、萎れかけた花を挿す。 「…このまま枯れちゃうかしら」 「後ほどきちんと、切り口を調節すれば大丈夫だと思います」 そう、と呟いたきり、フレイは花から視線を外して立ち上がった。
静かに夜に浸る城内を、夜着の上にガウンを羽織り、フレイはゆっくりと歩いていた。 目的の部屋に辿り着き、控えめにノックすると、すぐに応えがあって扉が開いた。 部屋の住人は目を丸くしている。 「遅くにごめんなさい…いいですか?」
「寒くない?」 「大丈夫です」 「そう。―――え、と…どうしたの?」 自分もまた夜着姿のジャッキーは、夜分に自室を訪れたフレイに驚き、迎え入れて尚落ち着かない。 「お礼を、言おうと思って」 「礼?」 「ええ。―――今日、楽しかったから…」 「あ、お、俺も楽しかったし。うん。でも良かった、つまらなかったなら申し訳ないなって思ってて」 「そんな…―――本当言うと、最初は気が乗らなかったの。何だか最近気が塞いでて…でも行って良かった。今はすっかり、元気になったわ」 す、と一歩近付いたフレイだったが、その分ジャッキーが一歩下がる。 「それで、あの…私、」 フレイが黙ると、一気に室内は暗く、重くなるようだった。 この状況は―――これって、これは何だろう?何だかとっても意味有り気に見つめられている気がする。 ジャッキーは内心の動揺がすっかり顔に出てしまっている。 あぁ、アーニィ、こういう時はどうすればいいんだ?何を言えばいいんだ?教えてくれ―――! その答えをくれる人物は、もちろん今横にはいない。 薄く開いた唇が妙に濡れて見えて、ジャッキーの混乱は頂点に達しそうになる。 「え、えーと、あ、そうだ、何か、何か飲む?」 「―――いいんですか?」 「あぁ、まだ眠くないようなら…果実酒とかがいい?俺もあんまり強いのは好きじゃないから、甘めのしか置いてないんだけど…」 「何でもいいです。…私も、弱いから」 つんのめりながら背を向け、やたらと音を立ててグラスを取り出す姿を見て、フレイはちろりと唇を舐めた。
そうね、急いてはいけないわ。 気付かせないように、オトさなければならないのだもの。
甘い果実酒に舐める様に口をつけながら、ジャッキーが一生懸命に話をしているのを眺める。 彼の話は大概、二言目には「アーノルドは」。余程あの男の存在が、彼の中深くに息づいている証拠だ。 「…あの方が、大層お好きなんですね」 「そう、うん。明日いなくなったら、俺どうしていいか分からないくらい。―――物心ついた頃から一緒なんだ」
あの青年がジャッキーを見つめる眼差しは、友人や主人へ向けるものだけとは思えない。 フレイが知る限り、二人が一緒にいる時間は相当多く、今日の外出だけでも―――如何にアーノルドがジャッキーを気遣っているかが感じられた。それはもう、過保護なまでに―――視線が。
でも。 どんなに好き合っていても、結局は同性同士。 口付け一つ交せやしないし、抱き合うこともない。 目の前で熱っぽく語っている婚約者は、どうやら相当の奥手らしい。女性相手にスマートな世辞も言えない人だ。 それはむしろ…好都合。
好都合―――何に? 言っただろうフレイ、お前の役目は アタシの―――役目。 お前ならできるだろう できる―――やらなくちゃ
滑り落ちた甘い液体は、胃の腑を熱くさせる。
「すっかり姫君も馴染んだようですね」 何気ない物言いだったので、ジャッキーは素直に頷いた。 「あちこち見て回ってるみたいだしね。またその内街に行くのもいいかも」 「ホームシックを治すには愛情が一番という事ですか」 「・・・?」 「随分と仲良くなられたようで、結構なことです」 口調はいつもと変わらないが、少し声色が硬い気がして―――アーノルドを振り仰ぐ。目が合う。―――違和感…その原因は。 貼り付かせたような冷たい笑みと、すぐに逸らされた視線。 「…アーニィ?」 「―――王子……いえ。私はこれから公務がありますので、失礼します」 そう言えば、と傍らの青年を改めて見ると、正装に近い格好をしている。 「あ―――うん、分かった。じゃあ…」 ジャッキーはその場に立ち止まり、一礼してそのまま歩いていくアーノルドの背中を見つめていた。
長い平和に浸る国。 誰もが明日の平穏を疑わず、己が身に相応しい夢を想いながら、目を閉じて眠りを手繰り寄せる。 芽吹いた闇色の種に、気付かぬまま。
++++++++ 序章〜中「崩壊の足音」へ続く
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Date: 2005/09/05(月)
No.8
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