婚約者の叫びは、彼女に届いていないのか―――フレイは下を見ることなく、それどころか、彼女の足取りはまるで逃げているようには見えない。 ふらふらと頼りなく、どこを目指しているのでもない。視線は茫洋と宙に浮いているだけで、すぐ傍に迫る炎を捉えすらしない。 「フレイ、俺だよ!―――こっちに来るんだ、絶対受け止めるから!」 不規則に吹きつける熱風を片手で顔から遮り、ジャッキーは必死に呼びかける―――だが、一度としてフレイはこちらを見ない。
やがて彼女は城壁の端へ至る。薄い夜着から出る二の腕が、何を求めてか空へ伸ばされる。
ジャッキーの横へ並んだアーノルドは、無理矢理手綱を引いて下がらせる。すると時を置かずに、ジャッキーがいた場所を炎の剣が一閃していった。 一瞬驚いて身をすくませたジャッキーは、すぐにまたフレイを見上げる。距離を置いて見ると、彼女は紅い影の様だった。 漆黒と緋の狭間に佇む、紅い少女。 炎に照らされた頬が、影を揺らめかせ、時折露になる白い肌の上で、その唇は笑みを刻んでいる。―――何故か、その表情がはっきりと見えた。 「フレイ…どうして」 単身見知らぬ国へやってきた少女。本当なら、寂しいだろうに。自分の立場を理解して、彼女は毅然とこの城へやってきた。 愛しているとは言えない。我侭な性格は苦手に感じたが、嫌うまでではない。これから色々な話をしていけば、彼女の愛すべき点もたくさん見つかると、思っていた。彼女が望むと言うなら、受け容れようとも思えた。 ここで彼女を見捨てるなんて選択は、有り得ない。 なのに。
「どうか、彼女を」
息絶える寸前まで彼女を想い続けた青年、彼の意思を捨てることなどできないのに。
お父様、これで良いのでしょう? アタシは「言われた通り」にやれたわ。 見ていてくださった? この国が私達のものになれば、私達はもっと幸せになれるって。 そう、あの人は言った。 アタシもお父様も、それを望んだ。 ねえ、誉めてくれるわよね?
―――そうだね、フレイ…お前は良くやった
そうよ、これで、これで。 お父様…早く会いたい。
―――すぐに会えるさ…もう少し待っていなさい
もう少しってどのくらい?
―――すぐ、さ。お前が一眠りしている間に
そう…ええ、少し疲れたわ。 お父様、帰ったらお話したいことがたくさんあるわ。 つまらない国だったけど、悪くはなかったのよ。 あぁもう、もうすぐ帰れるというのに、サイ達はどこへ行ったのかしら…
―――そう、この国は役に立つんだ
けれどその為には一度塗り潰さなければならない何故なら余計なものが多すぎるから
愛する父親の声と、重なって聞こえる声は、フレイの耳には留まらない。 今の彼女は、ひたすらな充足感を覚えるばかりで、背中を舐めて髪先を焦がす炎など知らない。 月の無い夜空を彩るのは炎の演舞だというのに、彼女に見えているのは、幸せな未来。 使命を全うして、フレイは今、嬉しくて仕方ないのだ。 「ふふ…やった、のね。これで終わり―――終わるの」
惨劇の闇に、少女の哄笑が響き渡る。 炎上と崩壊のオーケストラを従えたシンフォニィの如く。 そして、 滅ぼした国と自らの為に歌う、レクイエムの如く。
「―――フレーーーイ!!!」
猛り狂う炎はついに少女を捕らえ、抱き込んだ。彼女を火種にしてか、一際大きく火柱が立つ。それと前後して、幾つかの影が彼女の周囲に出現して飛びかかって行くのが見えた。 「くそっ…なんで、どうしてっ!」 ぎりぎりと手綱を握り締め、また唇を噛むジャッキーを痛ましげに見守っていたアーノルドは、しかし彼に余韻を与える事はしなかった。 「王子、もう…」 「アーニィ…彼女まで死ななくちゃいけないの?なんで、彼女は…」 「―――彼女に何の罪も無いとは、私には思えません」 「―――え?」 訝しげに見つめ返す彼の眼差しを逸らし、アーノルドは白馬に鞭を与えた。 「わっ…あ、アーニィ!」 続けて己の馬にも鞭をやり、すぐに隣に並ぶアーノルドを、ジャッキーは馬上で睨む。
馬が通るには、道無き木立は茨の如し。やや先を行く黒馬に合わせる白馬、二頭は細い道の出来ている箇所に飛びこんだ。そのままスピードを緩めることなく、身を打つ小枝も気にせず、走り続ける。
幾度も後ろを振り返るジャッキーは、ともすれば速度が落ちがちだった。それをアーノルドは、白馬の手綱を自らも引く事で補う。 良く慣れた馬達は、主人達の関係を理解しているのか…白馬はアーノルドの意志に逆らうことなく、従順に走った。
影絵の隙間に揺れる光景は、段々と遠く霞んでいく。それは、距離が離れて行くと同時に、涙が零れていくから。 城内にいる時から、自分は何度も留まりかけた。その度にアーノルドに叱責され引っ張られ、城の外まで来て。 ―――今度こそ、本当に。 ―――逃げるのだ。 ―――大切な人々を置いて、何処とも知れぬ地へ。
それが定めというなら、自分は神を恨むかもしれぬ。 苦しみは我慢できても、悲しみは止めど無い。
溢れ続ける涙は、頬を切る風に乗って散って行く。 手向けというには余りに儚い、雫の花。
+++++++ 序章・終幕 幕間へ続く
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Date: 2005/07/25(月)
No.5
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雪里@うっかり
2005/09/25/22:09:01
No.6
お疲れ様でした、ひとまずここで序章は終わりです。 …序章が3部に分かれてる辺りで、何かこう…思う所が書きながら自分であるというか…(笑)。
次・幕間インテルメッツォを挟みまして、ジャッキーとアーノルドの長い旅が始まります。どうぞお付き合い、見守ってやってください。
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