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加藤学園の顧問の歴史を紹介します

ソフトテニス部顧問の部屋


昭和52年に明電舎に就職し、同期36人のうちソフトテニスをしていたのが5人いた。実習中にやることもなし、寮の近くは学校が多く(学園通り)どこかでテニス練習しているだろうなどと軽い気持ちで、金中、五中、市立校、沼学をぷらぷらしながら歩いていると、ボールを打つ音が聞こえた。
そこが、沼津女子校(現加藤学園)であり、沼学と隔てている川をわたってコートの裏扉から入ったのが最初で今日までおおよそ26年間も通うことになろうとは夢にも思わなかった。
そんな中で多くの先生(顧問)にお世話になったのでここではそんな先生方を紹介しておこうと思います。

吉川先生(女性):ポジション後衛(〜昭和55年4月)>
かなり前の話らしいが、静岡を征するものは全国を制すと言われた年代があったそうです。
その時代をになった中心選手らしい。
この当時は、各学年20人ぐらいいてコートで練習することが大変な時代でした。

宮川先生(女性):ポジション前衛
次の牛村先生が入学されるまでの期間面倒を見ておられた。数回しかお会いしていない。
若くて、美人の先生だったと記憶している。

牛村先生(男性):ポジション後衛(昭和56年〜昭和61年)
日体大卒の熱血先生。日体方式でビシバシ鍛えていたのが印象にある。
このときの教え子に須田奈津子(後に我がMSTC原選手の奥さんとなった)がいる。
この間の1年半は私が東京へ転勤となり、コーチ(当時は一緒に練習していただけ)業は一休み。
しかし、この間IH個人・団体出場など実績は残された先生である。

鈴木先生(女性):ポジション前衛(昭和61年〜62年)
やはり、女子校時代の中心選手だったと伺っている。
現在は暁秀中学で教鞭をとっておられます。

菅井先生(男性):ポジション前衛(昭和62年〜)
筑波大卒の理論派監督。プレーも天才的なものがあり上級プレーヤにはファンが多い。考えてみると、既に16年の長きにわたっておつきあいさせて頂いており、もう少し詳細に紹介してみたい。

菅井先生 生年月日 昭和39年10月18日
担当教科 体育
家族構成 奥様 尚子さん
長女 亜佑子 ちゃん
長男 大介 くん
好きな作家 内田 樹
トピックス 11月から新居に引越

菅井先生の指導理念 = 「テニスプレーヤである前に人間たれ
 菅井先生は高校生の指導者である。これから、社会へ巣立とうとする若者の指導者であり、社会人になるための基本をソフトテニスというスポーツを通じて教えている。基本とは挨拶、礼儀、尊敬、気配り等の社会人として保有すべき常識的事項である。
これらの基本事項はテニスの技術習得以前に徹底的に指導される。もし、これらの事項が守られなかったり、逸脱した場合には一層厳しい指導となる。先生は絶対に選手を見捨てることはないし、向かってくる選手にはどんな状態でも最善を尽くそうとする。但し、逃げていくような選手を追いかけることはしない。

ソフトテニスにおける目標 = 「全国インターハイ 団体・個人優勝
勝負の世界に身を置いているわけで、その上で勝つことには深い意味がある。従って、目標としては常に日本一に置いている。

応援団長から見た人物評 = 「白あんのモナカ
 大学卒業直後から、もうすぐ40歳にならんとする今日までを見てきて、やはりすばらしいと思うのはその指導理念に基づいた選手に対する情熱(愛情)と、卓越した指導理論であろう。選手のレベルによっては理論が難しすぎて空回りしたり、熱くなりすぎて暴走気味のときもあったが、卒業生・現役選手ともに絶対的な信頼感を持たれている監督である。
 多くの卒業生から「先生のあの一言で頑張れた」というコメントがよく聞かれる。選手の3年間を一言に凝縮する男と呼べるかもしれない。確かに口数は多くはないが。
 タイトルの「白あんのモナカ」の意味するところは外見は固いが、中味は甘くて柔らかいということである。現役選手の時にこのモナカの皮を破ることは無理に等しいが、卒業すると極めて簡単に破れる。白あんとしたのは中味(腹)が黒くないことを言わんがためである。

原 先生(男性):ポジション後衛(平成10年)
沼津東高→静岡大
平成10年に副顧問として菅井先生をサポート。
現在は男子ソフトテニス部顧問として精力的に指導してます
つい、最近パパになりました。おめでとう!

原 先生

佐野先生(女性):ポジション後衛(平成13年〜)
菅井先生の教え子
生徒の良きお姉さん、先生のパートナとして頑張ってます。

佐野 智子 先生

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