その6 悪夢のシカ事件


     日本で一番シカが嫌いな女、それは私だ。

    あれは忘れもしない'99年の冬。夫の仕事が忙しくて夏休みもロクにとれなかった私たち夫婦は、季節はずれだったが一週間くらい休みをとって南紀と奈良を車で旅行することに。
南紀から回って最後に奈良公園の近くの宿に泊まり、最終日に東大寺とか興福寺あたりを観光したのだが…


   ご存じのように、奈良公園には鹿がいっぱいいる。昔、修学旅行で奈良公園に来た時には、せんべいをやる時に「はいっ、お辞儀」って声を掛けると、シカさんが大きな頭をフリフリしてせんべいくれのポーズをするのが可愛かったな〜と、それを思い出した私は、帰りにちょっと鹿せんべいでもやろうかなんて思いたった。それがその後の悲劇を生み出す結果になろうとは…


   寒い時期で観光客も少なかったせいか、屋台でせんべいを買うと、それまでデレデレとそのあたりにちらばっていたシカが、めざとく見つけてすごい勢いで5,6頭群がってきた。可愛いバンビちゃんみたいな子鹿もいるのだが、他はみんなでっぷりと太った、あんた、シカ?って訊きたくなるような水牛のようなシカばっかりである。
ちょっと怖い、とうろたえつつも、大勢のシカにモテモテで大喜びの私たちは、ほれ、ほーれとシカせんべいをちぎってはやりちぎってはやりと悦に入っていた。
だが、せんべいには限りがある。即座になくなってしまったのだが、「もうないんだよ〜、おしまい。」と懸命に私が言うのにシカたちはなかなか諦めてくれず、「くれくれ」と迫りまくってくる。


   すると、なんとその中の一頭が私のリュックに頭を突っ込み(リュックの口は二重にしっかり閉じていのだがすごい勢いで横から)ワシワシワシッ!と引っぱり出したのは銀行の紙封筒。
それにはなんと旅費の残り、1万円札が6枚も入っていたのであった。
冬の奈良公園に、冷気を切り裂くように「ギャーッ!」と響き渡る私たち夫婦の悲鳴。


シカってヤギとおんなじで紙食べるんだよねえ〜。
「それはお金だーっ!!!」と絶叫して封筒の端を掴んだのだが、「あんた、シカ?」の貫禄を持つ牡ジカのアゴの力はものすごく、すぐに振り切られてしまった。
追いかければ逃げるし、脅かしちゃいけないわ、と、「お願い、それはねぇ、うちの生活費なんだよ、それ食べられたら私たち路頭に迷うのよ」と猫撫で声を出してみれば、ふふん、とばかりに口をモグモグと動かしてこっちを見る。逃げては振り向くシカの口からは、封筒がべろーんと生えている。
そうこうしているうちに振り向いたシカの口から見える封筒はどんどん短くなってゆき、あああ〜!と絶叫する私たちの悲鳴も虚しく、ついには「ゴックン」と飲み下されてしまったのであった。


笑える、絶対笑えるよこれ、人ごとだったら。
真っ白な頭の中にはそんな自分の台詞がこだましていた。


   旅行中、何かあるといけないと思って余分にお金を持ってゆき、一カ所に集めておくと危ないね、と、財布とは別に封筒に入れてリュックに入れておいたのだが、まさかそれが仇になるとは…とほほ〜!

   びんぼう家の我が家は、一週間の旅行の間、安い温泉宿とか、会社の契約してるリゾートホテル、厚生年金の宿などなどに泊まって宿泊費もとても安くあがり、食事もそのへんで適当に済ませていたので「だいぶお金余りそうだよ。今月の残りの生活費これでOKかもね♪」なんて喜んでいたんだけど…まさかシカに。
悔しいので、超豪華なホテルでフルコースの食事をしてシャンペンでも飲んで豪遊したと思いこもうとしたのだが、いくら考えてもやっぱりうちの6万円は「鹿のフン」となって公園に転がっているのだとしか思えないのであった。


その時そこにいた親切なおばさんが「まあ、新婚さん?(いいえ。)帰るお金ある?」って1万円もくれて、こんなにもらえませんといって返したらそれでも3千円をくれた。
気が動転していて連絡先を訊くのも忘れ、結局貰いっぱなしになってしまったのだが、シカのおかげでおばさんの親切に触れることができたと思って、今は笑い話になっている。おばさん、ほんとにありがとうございました。

日本で一番シカが嫌いな女、それは私だ。嫌い嫌い嫌い、大っきらい。

  後日談:去年の夏は北海道に旅行に行った。帰ってきたら夫は会社の人に「シカはいましたか?」と訊かれたそうだ。
「ええ、エゾシカが…」と言いかけたらその人はニッコリ笑って「お金は食べられませんでしたか?」と言ったそうな。
どうやら夫は会社で「シカにお金を食べられた人」として名を馳せているらしい。そんなことで有名っていったい…