(1) 朝倉館跡の山並みと栄華の舞台跡
『朝倉氏遺跡』・・・・特別史跡・特別名勝
福井市街から東南へ約10km、福井平野が中央山地と接するあたり、
南北に流れる足羽川の支流一乗川に沿った狭い谷あいの約6kmほどの地が、一乗谷とよばれ、
その東側にある一乗山(標高438m)に一乗谷城は築かれた。
一乗谷城を本拠としていた朝倉氏は、もともと但馬の国(現在の兵庫県)の朝来郡・養父郡を
本貫とする豪族で、越前に移ってきたのは延元元年(1336年)、足利氏の一族の斯波高経に従って
移ってきた朝倉広景からであり、その頃は北ノ庄あたりを本拠にしていたが、広景から数えて5代目の
教景から、一乗谷へ本拠を移したとされている(戦国大名朝倉氏は、教景を初代とされている)。
その教景から数えて4代目の考景の頃が朝倉氏の絶頂期で、応仁の乱以降、荒廃していた京都から多くの公家・名僧が逃れ、一乗谷は北陸の小京都と謡われていた。
しかし、次の義景の代には、織田信長によって、朝倉氏は滅び、一乗谷城も焼亡した。
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(2)朝倉館跡の唐門の桜
館跡の正面、堀に面して建つのが唐門。豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進したものと伝えられ、
門の表には朝倉家の三ッ木瓜の紋を、裏には豊臣家の五三の桐の紋が刻まれています。
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(3)館跡
■朝倉館遺跡
遺跡の中心的存在で、その広さは80m四方にもおよびます。東は山に接し、西・南・北の三方は高さ4mほど
の土塁で囲まれ、外側には堀がめぐらされ、主殿・会所・茶室・厩舎などのスケールの大きな間取りを見る
ことができます。
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(4) 朝倉城下町
一乗谷は一乗川を挟み中流部から下流部にかけて、幅500メートルぐらいの扇状地を形成しています。
現在は一見するとのどかな田園風景が広がっていますが、戦国時代には、およそ一万人もの人が
にぎやかに暮らしていた戦国大名朝倉氏の大城下町でした。
当時は京都から公家や文化人を迎え華やかな文化を開花させていました。
しかし、1573年、織田信長の越前侵攻にくみする平泉寺衆徒の放火によって一乗谷は灰塵(かいじ ん)に
帰し、越前の中心が現福井市の北の庄に移ったことで一乗谷の里は人里遠く隔絶さ れました。
そのことで、館や町並みの跡、庭園の保存状態は良好で、多くの出土品も現れ、 歴史的価値が高まり
ました。
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(5) 湯殿跡庭園
戦国時代の気風を標わせる荒々しく勇壮な石組が魅力の湯殿跡庭園。
4つある朝倉氏遺跡庭園の中で最古のものと推察されています。
築城1471年 朝倉敏景(孝景)文明3年
敏景→氏景→貞景→孝景→義景 5代 102年
「もろともに月も忘るな糸桜
年の緒長き契と思はゞ」 義秋
「君が代の時にあひあふ糸桜
いともかしこき けふのことの葉」 義景
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(6) 西山光照寺跡 石仏群
写真は、西山光照寺跡の石仏群=福井市安波賀中島町で
西山光照寺
天台宗の寺院で、寺伝によると創建は平安時代とされる。
朝倉氏との関係が深まったのは、朝倉孝景が
伯父の鳥羽将景の菩提(ぼだい)を弔うために同宗の高僧・盛瞬上人を招いて再興したことによる。
その後、上人の指導で石仏や石塔を造立していった。朝倉氏滅亡後の一六一一(慶長十六)年に現在地
(福井市花月一丁目)に移ったという。
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(7) 瓜割清水うりわりしょうず
〜この清水は広さが100m2 あり、1年中
約10度の冷たい水が絶える湧き出ています。
水は背後の一乗城山から銅の樋で引いてあるとも伝えら
れており、朝倉氏の御膳水に用いられたとも言われていま
す。底には笏谷石製の板石が敷き詰められていて、北側の
池中には丸い窪みを穿った細長い板石も見られます。
〜 不動清水。観音屋敷
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(8) つばめ返しの一乗滝
荘厳な一乗滝は、落差12メートルあり、水量があまりにも豊富なので、数百メートルから先からでも
激しい水瀑の音が聞こえてきます。真夏のどんなに暑い日でも、一乗滝を
訪れると、滝の水しぶきと激しい水瀑の音の両方で涼しさを充分に感じることが出来ます。
またこの地には、厳流島で宮本武蔵と対決した佐々木小次郎が「つばめ返し」の技をこの一乗滝で
あみだしたという逸話が残っています。周辺には「つばめ返しの岩」や佐々木小次郎が逢い引き
(あいびき)したといわれる「逢瀬の岩」などがあります。
※〜佐々木小次郎
〜1・
2・
3
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(9) 一乗城山 473m
[mapion地図]
遺跡の東部にある436mの山で、自然の地形を巧みに利用して頂上付近に山城が築かれました。
現在でも
“千畳敷”と呼ばれる礎石や土塀をめぐらした観音屋敷跡、赤渕明神社跡、福井平野が一望できる宿直跡、
一の丸、二の丸、三の丸などの遺構、そして、空濠・堀切・堅堀・伏兵地の跡などが残されています。
1周・徒歩約3時間(山頂まで徒歩約1時間) →近くには一乗山(741m)があります。
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