物の値段 |
1999.1.24
今日も湿気が高く汗ばむような陽気。しかし、街は着々と春節(旧正月)を迎える準備に熱が入ってきました。いろんなところで美観工事が行われ、駅や郵便局も混雑し始め、お店は春節用品のコーナーを作り始め、気合いが入ってきました。 私たちの住む専家楼も外壁の塗り替え、私たちの部屋の家具の取り替えと春節に向けて、みんな力を入れ始めました。そして春節前日には銀行には現金がなくなるくらい、人々は物を買うそうです。 中国での買い物は「値切るのが原則」といろんな本に書いてあります。しかし、それは間違い、誤解だと今、わかりました。 先日、広州電脳城(広州の日本橋・秋葉原のような所)へプリンターのインキを買いに行った時のことです。(コンピュータ関係のものは日本の値段とそんなに変わりません。コンピュータ事情についてはまたご報告します。) そこで「多少銭?(いくら)」といつものように聞きますと、「お前はいくらだと考えるか?(だいたいそういう感じの単語でした)」と言います。今まで同じ製品を別の店で120元くらいで買っていました。日本なら安い感じですが、しかし、中国製ですし、少し高いかなという印象を持っていましたが、「いくらで欲しい。」と言われると返答に困ります。 そうしている間にも店員のお姉さんは電卓を私に示し、「押せ」と言います。仕方なく1000円と見当をつけ、割り算をして60元を示しました。するとお姉さんは「あなたはこれが欲しいのですか?」と聞きます。何のことかと思いましたが「そうです。」と答えると、帳簿を取り出し、このインクの原価を調べているようです。それを持ち、奥の男性と話をし、私の方に戻り、「60元」と言います。結果、エプソンのカラーインク(中国製)が60元になりました。 つまり、中国では標準価格があるわけではなく、欲しい金額と売りたい金額があえば売買が成立するのです。ある意味で、初めから売る値段が決まっているのはお客にとって失礼なのかもしれません。お客の値段と売り手の値段を交渉で決める。これは売買の本当の姿かもしれません。 これもブレザーを買ったこと時のこと、道端の仮設の店でなかなか格好の良いブレザーが売っていました。それほど欲しくなかったのですが、安ければ買ってもいいかと、見せて貰いました。もちろん新品でほころびもなく生地もなかなかいい。英語のタックがついていますからおそらく日本か香港向けの製品だったのでしょう。 いくらかと聞きますと、「本当は380元だが、190元だ」と言います(言っているように思います)。3000円くらいなら安いかなと思いつつも、まあどうしても欲しいものではないのだから、「要りません」と立ち去ろうとすると、追いかけてきて、「いくらなら買う。」と言います。「150元」と言うと、考え初め同じ店の人と相談し、「よし、150元」と言います。 それを着て文学部の忘年会(日本のようなどんちゃん騒ぎではありません)に行きますと、日本語科の先生方は私のブレザーを見て「さすが、日本製はいいねえ。」と言ってくれました。 こんな事もありました。日本から遊びに来た甥を連れて歩いていたときのこと、ブルドーザー好きの甥がブルドーザーのおもちゃを見つけ、欲しいと言い出しました。「最高10元だな」と値踏み、値段を聞くと「46元」と言い張ります。甥はもう自分のおもちゃだと思いこみ、嬉々として遊んでいます。もう、ダメです。子どもを泣かせてまでおもちゃを諦めることはしないだろうと、相手は絶対に譲りません。結局「45元」でした。こちらがどうしても欲しかったのですから仕方ありません。 中国では日本人と見ると、必ず「ふっかけられる」といいますが、それは日本人の値段の感覚が高いからなのです。「ふっかけている」のではなく買いたい値段が高いから、その値段で売るだけのことなのです。どうしても欲しいのなら高くても仕方ありませんし、安ければ買うものなら欲しい金額を示せばいいのです。 それから、「安い」と思う物を更に値切ることはいけないと中国の人も言います。同じ専家楼に住む江刺先生は「絶対、野菜は値切らない。充分安いし、農家をこれ以上困らせることになるから。」と言いますし、日本語科主任の呂先生もビールの値段などにはうるさいですが「野菜や肉は値切ってはいけません。農家や畜産家の生活を考えなくては。」とおっしゃいます。 |
春節前の自由市場 | 上下九通り(歩行者天国) |