広州だより 21 ラジオに出演顛末     1999.1.21

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 新年あけましておめでとうございます。中国で迎える二回目のお正月。中国にいられるのも、後半年となりました。どうか本年もよろしくお願い申し上げます。

 と、最後のチェックをしているのは日本です。しかも、原稿を書いてから10日もたってしまいました。 実は1月の13日、実家に強盗が入り、母が少しけがをしたので急遽、帰国しました。犯人は捕まったのですが、母の気持ちのこともありまだ日本にいます。



 さて、1月1日の広州はシャツ一枚で過ごせるほど温かく、新年という感じがしません。しかし大晦日は、至るところで2000年と、21世紀をお祝いするカウントダウンや表演が催されました。

 そんな中、31日の夜、私は広東人民広播電台に呼ばれ、21世紀についてインタビューを受けることになっていました。そう、中国では2000年から21世紀にはいるのです。世界より1年、先取りしているのです。どうして1年早くなったかは誰も知りません。というより、「どうして日本や米国は中国より1年遅いのですか。」と感じです。

 そこでこんな事を思い出しました。私の大学時代、名実ともに右翼の先生がいらっしゃったのですが、ある時、こう仰いました。「世間では私を右翼だ、右翼だと言うが、これは大きな間違いだ。日本全体が左過ぎるのだ。」
 毎日、世間の目を気にしている私には、目から鱗の落ちる思いでした。中国の人たちも、そういう感じなのでしょう。世間の目を気にしてばかりいる日本も見習わなければならないところもあるのではないでしょうか。まあ、私にはできませんが・・・・・



 さて、広東人民広播電台(略して広東電台、RAIDO GUANGDONG)は華南最大のラジオ局で、広播・健康・英語などいくつものチャンネルを持っています。私を呼んだのは音楽台(Music Raido)でした。どういう理由で私が選ばれたかは定かではありませんが、マカオ返還があった後ですので、マカオからの学生のいる大学の外国人教師ということかもしれません。

 通訳は4年生の初君。とても気のいい4年生班長(委員長)の男子学生で、北朝鮮の華僑です。彼のカノジョの成さん(彼女は日本語学科ではありませんが・・・)のキムチは最高(もう本当においしい。体が臭くなるまで食べてしまいます)なのですが、彼の中国語は上手ではないとのもっぱらの噂。そしてたいへん親切で冗談もうまいのですが、かなりの小心者です。

 以前、かなり時間に遅れたことがあり、すこしきつく叱ると、1週間くらい申し訳なさそうに謝り続けていたことがあります。そんな彼ですので、不安なのですが班長として誰かから引き受けた仕事を、断るのはかわいそう。せめてもう一人と思って、たいへん通訳のうまい女子学生に電話をしたのですが、21世紀へのカウントダウンに彼と出かけてしまって捕まりません。

 多少の不安を抱え、大晦日の街をラジオ局まで。局が回してくれたタクシーの中で、「どんなことを訊かれるのかなあ」と話しているうちはよかったのですが、ラジオ局に着き、銃を持った門番が何人もいる検問のあたりに来ると初君は口数が少なくなりました。ラジオ局はとても警戒が厳しい。出迎えてくれた女子職員(曁南大学の卒業生)に連れられ、3回も、自動小銃を抱え直立不動で動かない門番のいる検問を通りました。

 局の中は日本のラジオ局と変わりません。副局長さんに迎えられ入った待機場所の調整室には、私の前の出演者であるホテルの社長さん。彼のホテルは身体障害者を受け入れることのできるのだそうで、いただいた名刺にはたくさんの福祉団体の役員の肩書きがありました。

 その社長さんは私と挨拶が済むと、原稿用紙を出して読み返しています。のぞき込むとまさにそれは今回のインタビューの予想回答。 「となりの社長さん、原稿まで用意してきているね。」と私がいいますと、「先生、外で練習しましょう」と初君は言います。

 そこで、質問を予想し彼の通訳の練習。ところが「キーワードって中国語で何ていうんでしょう。」「加速度的って中国語と日本語と一緒ですか?」などと初君は疑問続出。私がそんな難しい単語、知っているわけはありません。結果、彼の心には今まで小さな存在だった不安が急に大きなものになっていったのです。これ以上続けてはまずいと思い、副調整室へ。私たちに質問するらしい2人のアナウンサー(?)の話しでも聞こうかと思うと、なんと二人は広東語で話しをしています。そう、国営放送局でも広東語なのです。

 初君を見ると固まっている。彼は朝鮮語と中国語は大丈夫ですが、広東語は全くできません。彼は近くのディレクターとおぼしき人に、「私は広東語はできません。どうしましょう。」と言っています。ディレクターの「没問題(問題ない)」という返事を聞いて、少し落ち着いたようですが、彼の中で私の存在はどんどん小さくなり、彼の心はこれから自分に降りかかる問題に集中していっています。

 そして、放送室へ。パイオニアのヘッドホンをかけ、パナソニックのマイクに向かい、生本番です。CM(国営放送でもCMはあります。中央電視台(国営TV)でもあります)の間に、インタビュアーの方と簡単に挨拶。一人はラフな格好でなんとなく中村雅俊。もう一人はきちんとネクタイを締め、中国人エリートの風貌。にこやかに挨拶が終わると、CMが終わり彼らは、わかりやすい普通語に。

「中山先生、中国へ来て何年になりますか。」
(お、この程度ならわかるぞ!)「はい、1年半です。」
「中国語お上手ですね。」
(本当に上手になると、お上手とは言われないんだよな)「いいえ、少しだけです」
「先生はどうして曁南大学へ来られることになりましたか。」
(これは中国語で答えられないな。)(日本語で)「三重県教育委員会からの派遣です。」(おい、初君、どこ見てんねや。通訳してや、おい、初君!)
足をたたくと、我に返った初君。私を見て「シェンマ(なんですか)。」もう、彼は凍っています。



 こんな様子で、約5分のインタビューは終わってしまいました。アナウンサーからの質問はとても長いのに彼が通訳してくれるのはほんの一言。私は初君が通訳に入ってから、急に早くなったアナウンサーの中国語を必死の思いで聞き取ろうとしましたが、本当に断片的。その聞き取った単語と彼が通訳してくれることばがあまり繋がらず、混乱。

 まあ、内容は「21世紀はどんな世紀になると思うか。日本は?中国との関係は?」ということで、初君、私の言ったことはだいたい、うまく通訳できていた感じがします。

 終わった後は、ディレクターとおぼしき人に、「よかった、よかった」と言ってもらい、私の後の、広州仏教会副会長の釈智道さんのインタビューが終わるのを待って、ホテルの社長さんを含め記念撮影。タクシー代の他は何ももらうこと無しに、専家楼に帰りました。



 専家楼に帰ってから、家族を連れて初君と一緒に広州市内のカウントダウンを見に行くつもりだったのですが、タクシーの中大人しかった初君は専家楼に着くなり、トイレに駆け込み嘔吐。
 初君曰く、「先生が緊張していたので、私も緊張してしまいました。こんなに緊張したのは生まれて初めてでした。呼吸もちゃんとできませんでした。」
 いつ、私が緊張したのでしょう!。しかし、そういうわけで初君は寮に帰ってしまい、家族だけで広州市内をタクシーでドライブしました。この日、広州はお祭り騒ぎで、メイン道路の東風大道は大渋滞。結果、私たちの2000年のカウントダウンはタクシーの中でした。
 その後、初君はクラスメートに「広州電台に先生の通訳として出演した」と自慢していましたが、クラスメートからは「うまく通訳できたの?」と疑いをもたれています。

 翌日、私は期末試験の作成作業。女房と侑香は2000年元旦の初日の出を見るのだと、朝5時半に起きて、中国人の友達と広州で一番高い山、白雲山に登りました。

 広州の正月の様子は朝日新聞のホームページの「世界の2000年」(http://asahi.com/paper/special/newyear/index.html)に乗せてもらってあります。
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ちょっと緊張。隣はホテルの社長さん
私のあとのお坊さん
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