さよなら、みなさん |
1999.7.20
曁南大学には5人の外国人専家がいます。英語のウィリアムさんとフリーマンさんポルトガル語のフェルナンダさん。そして、日本語の保苅先生と私。昔はもう少したくさんいたそうですが、諸般の事情で今はこの5人です。 私たち5人は外事処という組織にお世話をしていただいています。いろいろな行事や小旅行で一緒になりますし、なにしろ同じビル(専家楼:本来は外国人専家のための建物なのですが、5階建てで部屋は70室以上もありますので、ホテルとして使われています。)に住んでいるので、かなり親しくなっていました。 しかし、今期で私以外の専家は全員、この学校を去ります。 実は、その中で、フリーマンさんは、実は例の大使館誤爆(中国では爆撃)事件で帰国しています。あっという間の出来事で、慰留する時間もなかったとのことでした。彼はアメリカカリフォルニア州からやってきました。30才。スマートでかっこいいので、彼の教室への移動には女学生がいつもついていました。 私には彼の英語が一番分かりやすく何かのセレモニーには私はいつも彼の横に座るようにしていました。大学内外の外国人専家相手のセレモニーはいつも中国語と英語です。私には中国語はもちろん、英語も分からないので、英語をわかりやすい英語にして貰わなければ、次に何をするかわからず困るのです。 そしてフェルナンダさんは、マカオ政府派遣の専家です。50歳くらいかな。マカオ政府は、費用すべてマカオ政府持ちで、ポルトガル語の専家をマカオの中国人華僑の学生のいる曁南大学に派遣していたのです。しかし、今年の12月、マカオは中国に返還、そしてポルトガル語の先生もいなくなるのです。 フェルナンダさん以外は外文系に籍がありますが、フェルナンダさんは外語中心(一般教養の外国語)に籍がありました。ラテン系どうかわかりませんが、とても陽気で、私たち家族にもいつも陽気に話しかけれくれます。彼女がいると場が一気に明るくなります。中国語も少し話すことができますので、専家楼の人たちにも、下のレストランの人たちにも、愛されていました。 お別れ会を外事処が開いてくれたのですが、その会の最後のスピーチ(英語)で、「中国でポルトガル語を教える必要性をプレジデントに説明し、もう一度この大学に戻ってくる。だからグッドバイは言わない。」と繰り返したのが、とても印象的でした。あとで聞くとプレジデントとはマカオ総督のことだということでした。 そしてウィリアムさん。この2ヶ月、子ども達は彼に英語を教えて貰っていました。他の日本人学校の子ども達は、毎日、ピアノやスイミング、英語や学習と塾に通っていますが、(広州にも日本人相手の塾や家庭教師があるのです!)残念ながら家では無理なのです。私が授業の帰りウィリアムさんに、その事を話すと、「O.K.、私が英語を教えてあげる。1日10分づつ。ネイティブの英語だよ。」と言ってくれたのでした。もちろん無料。 ウィリアムさんはとても楽しい人なので、最初は緊張して親同伴でしか行かなかった子ども達も、後の方は喜んで自分たちだけで行くようになりました。だから10分のはずが20分くらいになることもしばしばでした。 専家の中では唯一、教授待遇のウィリアムさんはアイルランドのダブリン生まれ。高校の英文学の先生でした。どういう理由か知りませんが、ニュージーランドで教え、その後中国に来たと言うことで、3年目。よく香港に行き、食料を買い込んで、自分で料理をします。アイリッシュブレッドを自分の部屋のフライパンで焼き、時々くれました。 来学期からは、同じ広州市にある民族学院(単科大学)で、英語を教えます。また、「時々来るよ。」と言っていますので、永遠のお別れではないでしょう。 保苅先生は、私の「日本語教育」の先生です。当然なのですが、日本人だからということで日本語を教えることはできません、このことを、中国で身にしみてわかりました。今でもそうですが、特にはじめの頃の私の授業は散々でした。毎晩のように保苅先生の部屋で、授業の仕方を教わりまし、読むべき本もたくさん貰いました。 彼女は54歳、長年東京で日本語教育に携わってきた日本語教育のプロです。息子さんは既に結婚し、長女はアメリカでバレエの修行中、アメリカの高校を卒業した下の娘さんも帰国し日本の大学に入学されたので、ご主人の世話を娘さんに託し、中国に来て3年目です。 日本語を教えるだけでなく、中国の学生のお母さん的役割もされていました。学生の信頼もとても厚かったのですが、先生を派遣している日中技能者交流センターは1年原則で、2年以上の延長を認めていませんし(今年は大学の強い希望で特例)、曁南大学も同センターを通さない日本語教師の受け入れができませんので、惜しまれてこの学校を去ります。 しかし、隣の華南師範大学からお誘いが来て、来学期からは華南師範大学の先生です。広州市内の日本人教師は時々集まりますので、先生とも永遠のお別れではありません。 フェルナンダさんと私はそれぞれ母国から給料を貰っていますが、他の先生方は大学からの給料と自分の貯蓄で生活をしています。中国では、国がアルバイトを奨励していて、中国人の先生方はアルバイトで本給以上の収入をもらっています。しかし、外国人教師は原則、大学からの給料だけ。それに以前ほど、あるいは北ほど外国人専家は大事にされません。結果、英語の専家はなり手がないのが現状です。実際、今までの生活レベルを維持しようと思えば、月2000元程度の給料ではとうてい無理なのです。 広州での英語熱は大変なものなのですが、わざわざ中国に来て英語を教えてくれる英語圏の先生はほんとうに少ないようです。 日本人は退職した教師や、中国語勉強がてらの若い人、中国への罪滅ぼしのため、大学などで教えようという人は多く、余っているのですが、英語の先生はそういうわけには行かないのです。 結果、曁南大学の専家楼にも英語の先生がたった2人ということになってしまっているのです。来年度はウィリアムさんと保苅先生の後任は決まっていますが、フリーマンさんの後任は現時点では決まっていません。 中国では今、9月の新学期を控え、異動の季節。曁南大学でも日本語学科唯一の教授、林少華先生というベテランの先生が青島大学へ異動されますし、広市内の日本語教師の中でも、中山大学へ奈良県から派遣されている中村先生は帰国、広州の日本語教師のドン、華南師範大学の蛯原先生は雲南大学へ、同じ大学の倉下先生も香港の大学へ行かれます。 |
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