学生の底力を見た! |
1999.7.6
今、考査中です。7月5日から授業は18週目。この18週目には選択科目の試験(考試)があり、19週目には必修科目の試験(期末試験)があります。選択と必修の差は大きく、必修の試験は問題管理も厳重で、作成も何人ものチェック(外国人教員の場合、見るだけですが)、チェック以降は作成者も印刷物を見ることはできませんし、監督も2名以上、廊下を事務職員(教員よりエライ人が多い)を初め、党の人や、場合によっては学長が歩き回り、学生証も必携、不正行為は退学です。 しかし、考試の方は、テキトーにやってちょうだい、という感じ。 さて、その試験、前学期の私の試験は、非常に評判が悪かった。学生曰く「習っていないところが多い。」「覚えていたことが出ない。」「教科書通りの質問ではない。」「難しすぎる。」「文章で答えなければならない。」。そして、結果は20点以上下駄を履かせても不合格者が出る始末。「中山はニコニコ笑って、おもしろいことを話すが、試験は最悪、非道だ。」となってしまいました。 私としては、そんなに難しい問題とは思いませんし、授業をしっかりと踏まえての設問でした。しかし、私の設問はやはり日本式だったのです。つまり、記憶だけでは勝負できない試験だったのです。 中国は科挙の影響かどうか知りませんが、「暗記」「暗記」「暗記」です。小学校から大学まで大事なことは全て暗記。基本的に教科書は全て暗記です。日本語学科の授業の中で最も重要な科目は「精読」ですが、これも設問や語句の説明、作者紹介を含め、原則全て暗記。教科書はまあ大ざっぱに言って日本の高校生の国語の教科書。1学期約200ページを付録の設問、解答を含め、完全丸暗記するのです!!。 この学習方法は小学校からの伝統的学習法なのです。大学生の中には中学校の歴史の教科書をまだ完全に暗記している学生もいます。また隣の華南師範大学の日本語学科では、何十年も前に書かれた歴史のプリント、なんと旧仮名遣い・古文体で書かれているものを丸覚えとのこと。「古文の意味分かるの?」と訊きますと、「分からないけど覚える。」との返事です。 私は自分で言うのも何ですが、記憶力が非常に弱い。中・高校時代、英語と古文の暗記はいつも最期まで残り、職員へ何度も通いました。電話番号も10桁は覚えられませんし、自動車のナンバーも覚えることはできません。数年前、アマチュア無線の試験を受けさせられたのですが、これも丸暗記できず、理屈から覚えるために、中学・高校の物理の教科書を勉強し直さなければなりませんでした。 女房は「そんな記憶力で不自由やろ。」と同情してくれますが、それでも何とか、普通に生きてこられました。これも日本で生まれたからこそです。中国では無理です。私は全くの落ちこぼれでいたでしょう。 そんな私ですから、中国の学生のこの記憶の力を私はある面、甘く見すぎていました。今回の日本概況の試験は「教育出版さんにもらった「中学社会」の教科書の中の後半部分(日本関係)の太字と設問、授業で使った予習・復習問題のプリント約20枚の範囲から、そのまま出題する。」としたのです。膨大な量です。しかも問題は150問。 しかし、この試験、学生は嬉々として取り組み、なんと100分の試験なのですが、50分を過ぎると次々に提出し出します。初めは「諦めたのかな」と思いました。しかし、学生は「今回は簡単だった。」と口々に言うのです。日本の都道府県名、県庁所在地から平野・山脈・特産物(実物を知らないものも数多くあります)など、簡単に丸暗記しているのです。結果満点が2人。 学生の記憶力のすごさはこれだけではありません。お茶を飲みながら、学生がおもしろいことを言うので、「そんな事、よく知ってるね。どこで読んだの?」と尋ねると、「何言っているんですか、ずっと前、先生が教えてくれたじゃないですか。」という場面が何度となくありました。学生は、目新しいことを聞くとノートの記録して、覚える習慣が付いているのです。 今、私は高校の授業の中で名文の暗記をさせることは滅多にありません。私たちの高校時代は「祇園精舎の鐘の声」とか「いづれの御時にか」とか「行く河の流れは絶えずして」とかは、絶対覚えなくてはならないものであったと思います。しかし、今、覚えるのは「百人一首」のみ。それも覚えさせる高校は少なくなってきているそうです。 なぜなら、高校の古典の学習の目的の中心は、「昔の人の考え方、感じ方を知る」ということで、些末な文法や名文の暗記は重要視されていないからなのです。この方向に私自身は「そりゃ主な目的はそうなっていくんだろうけど、名文を諳んじることができるのもかっこいいんだけどなぁ。」と思っているのですが・・・・。 しかし、中国は、「暗記!」。これ一本という感じです。だから逆に、作文はおもしろくない。読んでいてつまらない。みんな同じ内容だからです。「日中関係」と言えば、10人に8人が、「一衣帯水、過去の悲しい歴史、魯迅と藤野先生」の3題話になってしまいます。視点のユニークなことの大事さ、人と違うことを書くことの大切さはなかなか分かってもらえません。 演説もそうです。パターンがだいたい決まっている。しかも、途中に「我が国の古い諺には」が必ず入っています。しかし、翻って考えてみると、今の中国にはこの学習方法が最も適しているのかなぁ、とも思います。公称12億3000万、実際には13億を超える人口を抱え、社会主義と改革開放、沿岸部と内陸部の貧富の格差、一人っ子政策と今後の高齢化社会、情報の制限と国際化を初めとする膨大な矛盾を抱えながら、急速に発展を続けなければならないこの中国では、いろいろな意見、違う意見なんか、いちいち気にしていたのではやっていけないかなぁ、とも思うのです。 日本も明治時代や高度成長期、そうではなかったのかと。今、私がこんな事を言ってられるのも、日本がある程度成熟した社会だからかな、と。 大学(党)から「アメリカはひどい、反アメリカのデモに行け」と言われて、真剣にそう思って、中国の報道だけを信じてデモに行く学生。試験のために膨大な事項を暗記する学生。しかし、中には「日本ではこんな事も暗記しますか?」「私もデモに行ったんですけど、先生はどう思いますか?」と訊いてくる学生も何人かいます。また、自分で自問自答している学生も多いことでしょう。 残念ながら、私自身、状況は理解できるのですが、自分自身の考えをまとめることができず、うまく学生に答えることができていません。 ふざけたことと、あったことだけを書くつもりの広州だよりが、今回は、少し思索めいたことなってしまいました。これも、学生の記憶力のすごさに、自分を失ってしまったからでしょう。 |
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