丹後半島

菅野
 次にお寺にまわった。お寺(妙光寺)は昔のままだ。六地蔵には花が飾られれ赤いまえかけ姿で並んでいる。境内には樹齢2〜300年のケヤキの大木が天に伸びている。このお寺でよく遊んだ。4月の生誕祭で甘茶を何杯もいただいたことを思い出した。あいにく住職さんは留守だったが、奥様にお茶をいただき先祖の位牌にも対面して 手を合わせた。それからお墓参りをした。上の兄が建てた墓石が並んでいる。末っ子で幼かった私には、墓石の主たちの苦労や生きざまの記憶も至って朧ろでたよりないが、時代が時代だけに想像に難くない。結核のために校長職を退き筒川に帰ったのだが、療養もままならず42歳で亡くなった父。残された大勢の子供を抱え悪戦苦闘したが96歳まで生きた母。支那事変下、徴兵検査のあとすぐ戦地にやられ21歳の若さで戦死した次の兄。それに下の妹や弟の面倒までみてくれた兄嫁。ここに眠るこれら墓の主たちの冥福を心から祈った。段々に設営されたこの村のお墓はお寺から山頂まで続く。お盆には、日暮れになると一斉に灯籠に灯がともされ それはきれいで厳粛な眺めだった。これは祖先を敬う村人の心が生んだ一大イベントである。もちろん今も行われているに違いない。
 お墓から村が全望できる。瓦ぶきのきれいな農家ばかりだ。私の覚えている農家は藁葺きで多くは牛を飼っていた。牛のための草刈りは子供の朝仕事だった。子供たちは体がかくれるほどの草を「せいた」で背負い山を登り下っていた。子供も忙しかったのだ。村の姿で一番変わったのは道である。牛と人だけが通った細い道も今はアスフアルト道になり 人は車で動いている。もう牛はいない。今日はなぜか人影が見当たらない。秋空の下に山々が続いていた。