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[書評:希望的観測に溺れず未来と同時代を見渡す・飯沢耕太郎『デジグラフィー』『眼から眼へ 写真展を歩く』/日本カメラ2004年7月号:111]


 『デジグラフィ』のあとがきで飯沢耕太郎はこう言っている。「写真が本当の意味で写真になっていくのは、むしろこれから先なのかもしれない。本書を書き終えて、そのことがようやく信じられる気がしてきた」。他方、『眼から眼へ 写真展を歩く』のあとがきではこう述べている。「…どこか不安を抱えつつ、虚ろな華やぎを目にしているように感じることを否定はできない。もしかしたら僕らの世代が、写真の最後の日々を看取ることになるのかもしれないという予感がある」。この二つの写真の未来についての見方は、いささか矛盾しているようにもみえる。
 メディアについて語ることは勇気がいる。なぜなら、メディアについての言説には未来予想がつきものであり、たいていの場合には数年後にはそれが外れたことがあきらかになるからである。もし当たっている場合でも、それが現実のものになっている時には、当然のことを語っているようにしかみえない。いずれにしても、数年後には陳腐化してしまうというわけだ。にもかかわらず、とりわけニューメディアにおいては常にメディア論が待ち望まれる傾向がある。というのも、人が知りたいのは実のところ未来ではなく、未来予想から照らし出される現在だからであろう。そう考えるなら、現在のメディアについて語ることはさらに勇気がいる。それは状況を言い当てていて当然であり、平凡であるほかないからだ。
 デジタルと写真展というメディアを通して写真をめぐったこの二冊は、それゆえいっけん平凡な仕事にもみえるが、逆に言えば、これ以上ないほど明快に写真なるものに見通しを与えている労作である。現在においてこの仕事が有意義であることはもちろんだが、その価値がはっきりするのは将来においてであろう。なぜなら、多くの言説が、同時代に溺れ埋没している今日において、この二冊ほど現在における写真表現の布置を鮮やかに描いたものがほかにないからである。このように、希望的観測に溺れずに未来と同時代を見渡すことは、容易にみえてもっとも困難であることは言うまでもない。
 近くと遠くを同時に見つめることができる系譜学者のように冷静な飯沢のまなざしが見出しているのは、写真表現の同時代という時代そのものの終焉ではないだろうか。そう考えるなら、先に述べた矛盾は、けっして矛盾ではないからである。『恋愛のディスクール・断章』でロラン・バルトは、「恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない」と述べていた。"写真狂い"を自称する飯沢にもそうした二重性があるのかもしれない。写真に恋する飯沢は、静かに狂っている。