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[夢の書棚:角を曲がれば凄い写真が待っていると呟きながら撮ってきた・鬼海弘雄『東京夢譚』/日本カメラ2007年6月号:139]


東京夢譚 labyrinthos 鬼海弘雄は、6x6の正方形のフォーマットによる、正面から撮った人物写真でよく知られている。このスタイルは、レトリックを排して、人間に直接向かったもののようにみえる。だが、直接性というのも、むろん一種のレトリックである。

画面の中心にすえて正面から撮影するだけで、人間に向かったことになるのなら、これほど簡単なことはない。誰にでも撮れてしまう。しかし、じっさいにはそれが一筋縄ではいかないのは、正面から撮るということが、直接性の明白なレトリックだからである。レトリックが明白であればあるほど、ごまかしがきかない。

鬼海の『東京夢譚』は、1999年の『東京迷路』に続く、風景写真をまとめた写真集である。人物写真のように、ここでも鬼海は正面から風景を捉えているように感じる。そう感じかけて、ふと思う。風景の正面とは、いったいどこにあるのだろうか。何が風景の正面なのだろうか、と。鬼海は、自身の風景写真について、こういっている。

〈三十数年前からこれといった発表の目処(めど)も立てず、気ままに東京の風景を撮っている。その日の行き先は、何となく駅まで歩きながら決めることが多い。ただ漠然とひとの住む場所としての町、暮らすひとびとの日々の営為の影や匂いをとおして「場所の肖像」のようなものを撮れないものかと、続けている。訪ねる町はとりあえず何処でもいいわけだ〉

鬼海の風景写真にはテーマがない。特定の町や建築物、あるいは構図が探られているわけではない。撮ろうとしているのは「場所の肖像」だが、影や匂いには実体がない。だが、この写真家は、その実体のないものを30数年も探り続けている。

〈町歩きをはじめた当初の何年間かは、撮れない、能力がない、効率が悪すぎると、ぼやきながら歩いていた。しかし、そんなことを性懲りもなく繰り返しているうちに、目立った才能のないものには、そんな退屈や無聊(ぶりょう)を持て余す時間の蓄積が、自分なりにものを見たり感じたりするための必須な要件だろうと、いつからか思うようになった〉

東京という無秩序な町は、そもそも正面がわかりにくい。わかりにくいうえに、鬼海はさらに、わかりにくい方、わかりにくい方を探って歩いているようにもみえる。撮れないという経験は、多くの写真家が通過するものだろう。撮れなければ、それを撮らないことにするか、撮れる方法を考えるしかない。だが、鬼海は、撮れないというそのことを受け入れ、歩き続ける。

〈…あまりに手応えのない歩きに疲れ、もう引き揚げようかと迷うことも多い。すると決まったように、肩で揺れている「魔法の装置」が、あの角を曲がれば凄い写真が待っているかもしれないと呟き、つい背中を押されては進み、そしていつも騙され続けている〉

撮れないときがなければ、撮れるときもない。撮るということは、撮れないということによって成り立っている。鬼海は、撮れないことを紡ぐかのように、ただただ歩く。思えば、鬼海の人物写真もまた、正面がわかりにくい人間たちを待ち、撮れないことを紡ぐなかから生まれていたのかもしれない。

撮れないことによって生まれる、歩く、待つという時間。それはまた、レトリックに意味が宿る、生きるという普遍的な時間でもあるだろう。

写真にとって、正面とは何とわかりにくく、直接性とは何と遠いことか。しかしまた、普遍的な時間に満たされた写真とは何と豊かなことか。わかりやすいものばかりになってしまった現代にあって、鬼海はそのことを教えてくれる、稀有な写真家である。