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[書評:神がかった呪術か、凡庸な批評か、引き裂かれた問いが……・中平卓馬『見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977』/日本カメラ2007年7月号:173]


見続ける涯に火が・・・ 批評集成1965-1977 『見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977』は、中平卓馬が病にたおれ、記憶などに障害を残すことになる1977年までの初出稿を、発表年代順に収めた一冊である。「なぜ、植物図鑑か」といった代表的なものから、これまで単行本に収録されなかったものまで、主要な文章が網羅されており、500頁を超える分厚い本になっている。

中平卓馬は、なによりもまず批評家であった。このことを忘れないためにも、本書の分厚さは重要である。写真家として注目されることが多くなった中平だが、批評を抜きにして、その写真はありえなかった。写真に共感することはたやすいが、30年以上前に書かれた本書の言葉に共感を寄せることは容易ではないだろう。それを体感させてくれるところに、本書の今日的意義がある。

批評とは、超越的かつ自己言及的なものである。それゆえ、いかに論理的にみえても、呪術的・予言的な性質をもっている。そうあるべきではないが、避けがたくそうなってしまうのが批評なのだ。

たとえば中平は、次のようにいっている。

〈たしかにそういうぼく自身が商品化しているというのは不思議なことなんだけれども、それは率直に認めざるを得ないね。と同時にそれですらまたあらたな意味の体系にくみ込まれていくんだろうしね、きっと。一つのヴァリアンツとしてね。あるいは一変種としてね〉

〈いずれにせよ私はいわゆる制度としての写真家であることをなんらかの形で超えてゆくだろう。…「万物は流転する。時には戻る」。いつかまた気狂いのようになんといっても好きな写真を撮り始めることができるように〉

今日あらためて読むとき、このあまりに精確な予言は、神がかっているようにもみえるし、ひどく凡庸なものにもみえる。しかし、書かれたときは、どのようなものだったのだろうか。

批評はつねに、超越性と自己言及性に引き裂かれている。両者が矛盾なく一致したものは、たんなる呪術である。ここにあるのは、神がかった呪術なのか、凡庸な批評なのか。分厚い本書が投げかけるのは、このような引き裂かれた問いでもある。