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[写真の規則10:見ることの諸相について/FILM ROUND GAZETTE 1990年2月号:5]


 写真を見るという営みを、あらかじめ写真がそこに在り、それを見る主体があるという図式でとらえるならば、私たちは、写真をある客観的な存在として認めるという前提を受け入れることを余儀無くされる。もしこの見る主体−写真という図式にそって、写真を見るという営みを考えるならば、写真はそれについて私たちが何らかの関心をしめす(つまり写真を見る)以前に、それ自体としての本来の在り方によって存在していることになり、ある写真についての印象の持ち方が個々によって異なるということは、その写真の客観的在り方としての本来の姿を把握する認識の能力を私たちが充分に持ち合わせていないための違いということになる。この場合、ある写真についての見解にばらつきがあるのは、ひとえに私たちの認識能力の違いのためであり、ある方向にそって私たちの認識を成熟させ、認識能力が「完成」された地点を仮定するならば、そのようなばらつきは生じえないということになる。
 この図式を背後に含みこんでいることについての理解が不徹底な言説においては、この個々の写真についての印象の違い、つまり認識能力の程度の差異は、ときに写真それ自体のメッセージを正確につかみとっていないことに対する批判の前提として、また、ときに写真に対する読み(解釈)の多様性を肯定することの前提として援用されているが、どちらも写真がそれ自体として客観的に存在している場を想定しているという意味で、一義的である。
 あらかじめ写真が実体的に在るというとらえ方それ自体は、私たちにとってさほど違和感のあるものではないだろう。しかし、写真がそれ自体として客体として存在し、ある写真に対しての個々のとらえ方が異なるのは個人の認識能力の違いがあるからにすぎない、というふうにその考え方を整理してみると、私たちは結果的に、客観的存在としての写真を保証する「完全な」認識を持ち合わせた存在、超越的なものの絶対的な存在を認めざるをえなくなる。この場合、写真を見るという営みが、あらかじめ完全な(一義的な)写真についての認識がどこかにあり、私たちはその「完全な」認識に向かって、認識の不完全さを完全なものへと高めてゆくにすぎないことになり、それは私たちが写真を見るとき個別に思いうかべる関心や興味の在りようの違いという実感からはおよそ遠いものとなってしまうだろう。
 それでは、見る主体によって見られることにより写真ははじめて存在すると考えてみてはどうか。写真を見るときの印象の持ち方の個々の違いという側面だけに目を向けていくと、この考え方は正当なもののようにもみえるが、この場合、写真の存在が見る主体に完全に委ねられてしまっていることを考えると、それでは写真を見るという営みは、見る主体の内部においてのみ構成され成立し完結していく、まったく閉ざされたものとなる。これもまた、私たちがある写真について共通のことがらを考え、そしてそれについて語っているという実感からはまことに遠い、見る営みについてのとらえ方であると言えよう。
*  *  *

 こうしたことを踏まえたうえで、ここで、現在ではごくありふれた経験、写真を見るということを、もう一度ふりかえってみよう。
 私たちは写真を見、そして様々なことを思いうかべる。そのとき思いうかべることがらはむろん人それぞれであり、その写真を見るすべての人がまったく同一のことがらを思いうかべることを想定することは不可能であろう。だが同時に、その写真を見る他の人が違ったことがらを思いうかべていることを認めながらも、すなわち他の人にとってはその写真がまったく別の在り方をしている可能性を認めながらも、他の人が同一の写真を見てはいないのだと、つまり他の人が各人各様に異なった写真を見ているのだと想定することも困難である(そうである可能性を考えることはできるが、そう確信することはできないだろう)。
 写真を見て、何かを思いうかべる。このことによって私たちは写真とのある関係を取り結んでいる。私たちは、何かを思いうかべることなしに写真を見ているという感覚を持つことはないだろうし、写真を見ることとはまさしくそれについての何かを想起することであろう。その関係こそが、写真を見るということの条件でもあり、また、そうした関係性をぬきにして写真が在ることを、つまり写真を見るということを想定することはできないはずである。
 では、その関係性とはどういう性質のものだろうか。それは、たんに、見るという営みが、見る主体に所属し、見る主体によって任意に構成される世界によって写真が自在に判断されうるということにおいて成立している関係ではなく、また、固定的なあるいは恣意的な体系としての世界に、写真を見ることで見る主体が参入することのみにおいて成立している関係でもないはずである。私たちはこれについて、写真を見るという営みが、それが写真の何かに向けての興味であり関心であることではじめて、写真が在るということ、そしてそれを見る私が在るということを具体的な営みとして把握することが可能になるという性質のものであるという観点から考察すべきであろう。
 すなわち、写真を見るという営みは、見る主体が写真についての何らかの興味や関心をさしむけることで、自己の内部にその写真を見ることについての体系をつくりあげることであると同時に、自己の外側にその写真が在るのだということを確信することによって条件づけられているのだと言えるだろう。むろん、ここでの写真が在るという確信は、実体的に写真が在ったのだということを自己の関心によって発見することではない。逆に、それは、自己の外側に写真が在るのだという確信によってのみ、私たちはその写真についてそれを見ることの契機を把握しそれについての関心や興味をさしむけることができるという、見ることの条件を意味している(その確信をぬきにした場合、見ることの契機を把握することについての問うことの意味自体が消滅してしまう)。
 このことを考慮したうえでのみ、写真を見るという営みは、解釈する自己(主体)にも、また超越的なものを前提とした客観世界にも、あらかじめ保障され回収されることのない、そのつど固有のあらわれ方をする、<いま、ここ>での一回性としての見る主体と写真との関係としてとらえることができるであろう。むろんこれは、見る主体の内部で写真を自在に体系に収めることができる可能性も、また客観として存在する写真を見る主体の認識に応じて解釈しうる可能性もまったく意味してはない。写真について何らかの関心をさしむけることがまさしく、私にとって<いま、ここ>に写真が在るという確信においてのみ成立するという、写真を見ることのこの条件においてのみ、私たちは見る主体ー写真(主観−客観)という図式において写真を見ることを考えるのとは異なった位相で、私という主観から、写真の独自性といった実体的な概念をあらかじめ措定することなしに、見ることそれ自体において写真そのものを把握することが可能となるだろう。ここで見いだされるであろう写真の多様性とは、むろん、私という主観の認識体系と客観としての認識体系とのあいだに、あるいは個々の認識体系の違いにおいて生じる程度としての差異に依存するものではまったくなく、主観の認識それ自体のさなかでその写真そのものとの固有な関係性においてとらえられるものである。そしてそれは、写真が在りそれを見、解釈するといった図式で理解されていた見ることの営みを、表現という地平での見ることの可能性へと、超越的な中心によって構築される体系に依存することなしに、切り開いていく展望につながるように思える。