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[大衆の需要に応じたカメラマン:「林忠彦―林忠彦の見た戦後」/アサヒグラフ1994年2月4日号:?]


 一九九〇年に七二歳で他界した写真家、林忠彦の展覧会が東京都写真美術館で開かれた。 林は、一八年に山口県の営業写真館の長男として生れた。商業学校を卒業後、大阪の写真館に見習いに出されたが、肺結核を患って郷里に戻り、アマチュア・クラブに出入りしたり、東京のオリエンタル写真学校で学ぶうちに、当時提唱されはじめた「報道写真」という写真家の新しい役割にひかれ、家業を継ぐことを拒否して、二十歳の頃に上京した。カメラマンとしての頭角をあらわしていった彼は、戦後、カストリ雑誌ブームに乗り、月二十誌以上の仕事をこなす売れっ子になっていった。
 今回の『林忠彦の世界』展は、こうした時代の仕事によって生れた、太宰治や坂口安吾などの文士を撮った「文士の時代」、戦後東京の風俗を撮った「カストリ時代」、そして、初めての海外旅行でのスナップ「アメリカ一九五五」の三部で構成されたものである。
 林の写真の特徴は、テーマに合せた環境や状況の設定よって効果的になされる描写だと言われる。銀座の酒場「ルパン」で撮られた太宰や、紙屑だらけの仕事場で撮られた坂口といった、「文士の時代」の写真に見られる背景に人物を配する手法はその典型であろう。あたかも映画のセットで撮られたように見える「カストリ時代」や、請負仕事ではないスナップでありながらも人物と背景が説明的に充分に関連づけられている「アメリカ一九五五」においても、その特徴は写真の隅々にまで行き渡っている。
 このような「特徴」は、今日作家性の下に語られる特徴とは、およそ質を異にしているだろう。なぜならそれは、作家の意思や主義といったものによって形作られたものではなく、具体的にせよ潜在的にせよ、求められるものを求められるように撮ることによって形作られた「特徴」だからである。また、否定的なニュアンスを含んで林が「演出写真家」「技巧派」と呼ばれてきた理由も、ここにあると言ってよい。要するに彼の写真には、いわゆる独自のスタイルと呼ばれるものが稀薄なのであり、したがってそこにあるのは、その都度の要求によって育まれた時代のスタイルとでも言うべきものなのだ。
 だが、忘れてはならないのは、こうした写真表現に対する態度こそが、林を「戦後報道写真の第一人者」たらしめたことである。言い換えれば彼の写真には、戦後の風俗や人物の在りようが映し出されていると同時に、「大衆」の需要に応じる「カメラマン」という職種が本格的に誕生してくる時代が内在化され、体現されている。林の初期に当る戦後の写真に絞って編まれた同展は、こうしたことを考える上で極めて興味深かったように思われる。