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[戦後日本写真史第6回/nikkor club #170 1999 autumn:24-27]


コンポラ写真

 1960年代の終わりには、それまでの写真と根本的に雰囲気が異なった写真が、多くあらわれてくるようになりました。いわば冷笑的で、そっけない画面のそれらの写真は、コンポラ写真と呼ばれるようになり、漠然としてはいるものの、それゆえ逆に、広範に影響を与えつつ、ひとつの潮流を形作るに至ります。
 当時、コンポラ写真を紹介した文章を記した大辻清司は、次のように言っています。「ここに集めた写真は、コンポラ写真の範囲に入ると判断した作品だが、作者がこれはコンポラ写真だと宣言しているわけでもなく、私にしてもこれは確かにコンポラ写真だと立証するわけにもいかない。コンポラ写真はそのようにあいまいで、禅問答じみたところがある」(『アサヒカメラ教室3・スナップ写真』)。そして、「外見上の特徴をあげながら、そういう特徴を具えなくてはならない必然的な理由は、多分こういうところにあるのではないか、という推測を加えてみたい」、と述べています。そこでの分析が、とても適切にコンポラ写真の姿を描いているように思われますので、その抜粋をみてみましょう。
 (1)「まず第一に気づくのは、すべて横位置であることである。…大事なのは、横位置であることが、事大主義に背を向けることに発していることで、これは次のような点にも当てはまる」。
 (2)「構図という美学に頼った作品は見つからないことである。構図的に画面の構成を計算しつくしたという写真は、コンポラ写真とはいえない。…そこで一番くせのない標準レンズか、それより短焦点なレンズがよく使われる。…もう一つ非構図的な現れとしては、主な被写対象の周囲を広く写しこむ、という傾向がある。…つまり周囲の状況や環境とあわせてその対象をながめ、問題を総ぐるみとして冷静にとらえる態度、ともいえる」。
 (3)「構図に限らず、写真的な技巧をこらした作品は、コンポラ写真からはみ出したものである」。
 (4)「撮影対象は、知らず知らずのうちに期待している観賞者の、意を迎えるようなものではない。だから特別の出来事や瞬間などは取上げない。…だから撮るものといえば、日常のありふれた事物であり、われわれの身のまわりにいつも見られるような対象が多い。…日常のことを撮るのは何もコンポラ写真に限らないが、しかし、それを前に触れたような考え方に基づいて外見的な特徴を具えて現れたとき、これをコンポラ写真というわけである」。
 (5)「そしてもう一つの特徴は、決して説明的な写真ではないということである。…コンポラ写真はわからない、とよくいわれるのは、写真を一度言葉に翻訳して、言葉から理解しようとすることから生じるのだと思う。写真を言葉で解説することはできるとしても、それがただちに写真の内容の本質に触れるものとは思われない。その本質は見ることによってわかるほかない」。

「プロヴォーク」

 前回の終わりに、写真表現は、60年代の後半から70年代にかけて、大きな転回点を迎えることになり、既成概念の否定、過去との切断という認識が、社会や従来の表現といった写真表現の対立物とみなしうるようなものにだけではなく、写真表現そのものにも向けられるようになってくる、ということを述べました。コンポラ写真は、その典型的なあらわれのひとつと言えるでしょう。
 戦後、既成概念の否定、過去との切断を深めていった写真表現は、60年代の終わり頃には、否定や切断といった意識を、写真表現それ自体に向けはじめます。大辻氏の分析にあるように、さまざまな伝統的な写真表現の手法から自らを切断し、写真に対する意味づけをも否定する姿勢において、写真表現は自らの独自性を探るようになっていくのです。ですから、ここでの写真は、いささか奇妙なことではありますが、それが無意味な空洞のようなものであればあるほど、自らの独自性を浮かび上がらせていることになってくるのです。
 ところで、コンポラ写真とは、アメリカのコンテンポラリー・フォトグラファーズという言葉が由来と言われており、またそれとの影響関係も指摘されることがありますが、写真のスタイルは似ているにせよ、文化的な基盤がしっかりとしたアメリカでの潮流と比べますと、こういった写真表現の独自性の意味合いが含まれたコンポラ写真は、日本独特のものと考えられます。
 さて、こうしたコンポラ写真という潮流にみられる、既成概念の否定、過去との切断という認識の深化は、「プロヴォーク」という動向において、いっそう根源的なものとして展開されているように思われます。
 「プロヴォーク」とは、中平卓馬、高梨豊、そして評論活動とともに写真も撮っていた多木浩二、詩人・美術評論家の岡田隆彦の四人を同人として、68年に出版された雑誌の名称です。2号からは森山大道が同人に加わった「プロヴォーク」は、69年の3号で活動を停止してしまうのですが、にもかかわらず、「プロヴォーク」という場で提起された問題は、写真表現に大きな波紋を投げかけることになりました。「プロヴォーク」創刊号には、中平と多木による、次のような文章が記されています。
 「映像はそれ自体としては思想ではない。観念のような全体性をもちえず、言葉のような可換的な記号でもない。しかし、その非可逆的な物質性―カメラによって切りとられた現実―は言葉にとっては裏側の世界にあり、それ故に時に言葉や観念の世界を触発する。その時、言葉は、固定された概念となったみずからをのり超え、新しい言葉、つまりは新しい思想に変身する」。
 「言葉がその物質的基盤、要するにリアリティを失い、宙に舞う他ならぬ今、ぼくたち写真家にできることは、既にある言葉ではとうてい把えることのできない現実の断片を、自らの眼で捕獲してゆくこと、そして言葉に対して、思想に対していくつかの資料を積極的に提出してゆくことでなければならない」。
 ここでの哲学的とも言えるような文章にみられるように、「プロヴォーク」による問題提起は、いっそう意識的に既成概念を否定しようとするものであり、60年代の後半から70年代にかけての大きな転回点を、明確に時代に刻み込んだものだと言えるでしょう。と同時に、そこで提示される写真も、いわゆるアレ・ブレ・ボケと呼ばれるような、要するに何が写っているのかわからないような映像になってゆきます。コンポラ写真が、無意味な空洞のようなものであればあるほど、自らの独自性を浮かび上がらせていることになっていきましたが、「プロヴォーク」における写真は、その空洞すら否定し、いっけん無意味な、いわば粒子の羅列であるがゆえに、写真表現の独自性を探るものとみなされるようになっていくのです。

写真家という個人

 さて、このように、60年代の後半から70年代にかけての大きな転回点を、典型的な潮流においてのみみていきますと、写真表現が大きな波に飲み込まれ、一気に変質していったような印象を受けますが、もちろんこの時代の写真表現は、こうした典型だけで語りつくせるものではありません。
 この時代における転回点を、別の観点から見直してみますと、紆余曲折を経ながら独自性を探ってきた写真表現が、この時代において、ようやく写真家という個人において捉え直されるようになってきたのだと考えることもできます。それは一方で、コンポラ写真や「プロヴォーク」といった潮流とも言える現象を生み出していきますが、他方でそうした問いに基づいた、さまざまな新たな動向を生み出すことにもなりました。
 こうした動向は、たとえば、ジャーナリズムやドキュメンタリーの模索と展開において、見逃すことができない成果を着実に生んでいきます。そのような成果を考えるとき、先達として浮かび上がってくるのが、戦後すぐに『週刊サンニュース』にかかわり、49年にタイムライフ社に入社して『ライフ』誌で活躍し、木村伊兵衛や土門拳と親交を持ち「集団フォト」を結成した、三木淳でしょう。『ライフ』誌の創刊号に触れた体験について、三木はこう言っています。
 「いままでは情緒の世界で遊んでいたが、もしくはプロパガンダのための世界にいたのが、これは全く違うんだということが、『ライフ』が私に与えたファーストインスピレーションだったと思うんです」(『昭和写真・全仕事 三木淳』)。
 このように民主主義的な個人を基にした視点を、いち早く感じ取っていた三木は、その『ライフ』誌で働き、自身の視点を先鋭に打ち出した写真を発表するようになります。しかし、「結局『ライフ』はアメリカの雑誌であって、写真も手元に残らないことも気になった」と感じた三木は、首相の倍以上の給料を得ていたタイムライフ社を57年にやめ、フリーランスとして活動していくようになりました。こうした三木の活動の展開は、まさに写真家という個人を基にした写真表現とのかかわりを、時代に先駆けて体現したものだと言えるのではないでしょうか。また、アメリカの写真家に、ニコンを中心とした日本のカメラの優秀さを認知させたり、ニッコールクラブの結成の口火を切ったりといった、三木の実績もまた、日本の写真の自立への大きな貢献として、忘れられないところです。

ドキュメンタリーの模索と展開

 70年代に入ると、そういった個人という立脚点を意識した写真家が、世界や社会に対する新たな関係の在りようを、それぞれに模索しながら、独自に切り開いていくようになっていきます。
 74年に毎日新聞を退社、渡米してニューヨークに滞在し、『ニューヨークの百家族』で、それまでにはない視点で、人間の絆の在りようをつぶさに写真に定着した江成常夫は、 その後も、日本人の戦争花嫁を撮影した『花嫁のアメリカ』、中国の日本人戦争孤児を撮影した『シャオハイの満州』といったシリーズで、マスメディアの流れからは忘れられがちな問題を、個と個のつながりに焦点を当てることによって、ふたたび鮮明に写し出しています。
 70年代初頭に会社員をやめ、写真家としての道を歩みだした土田ヒロミは、写真によるフィールドワークとも言うべき作業によって、日本人の民俗的性質を『俗神』で展開しています。この、自分自身のありかをも同時に検証していくような写真表現の在りようは、群衆を捉えた『砂を数える』や、被爆地広島の人と物と風景を記録した『ヒロシマ』三部作においても、根底に流れているものでもあります。
 このような新たなドキュメンタリーの在りようは、AP通信社、朝日新聞社を経て、青森県やニューヨークなどをめぐり、たんたんとその土地の時空間を写した秋山亮二、大学を中退して、『三里塚』『村へ』で、村に対する新たなアプローチをみせた北井一夫、出羽三山に入るなど民間信仰に深い関心を寄せ、『日本のミイラ』『婆ァバクハツ!』などに結実させていった内藤正敏といった写真家にも、みることができるでしょう。
 こうして70年代の写真表現は、一方で空洞の中を探りつつも、同時に多様な展開が芽生えることによって、その独自性を大きく転回させていくことになりました。今日私たちが当たり前のように捉えている、写真家という個人を立脚点とした写真表現は、こういった模索と展開によってこそ、はじめて育まれたものであり、また70年代以降に、より複雑で多様になっていく写真表現の、新たなスタートラインになったものであるように思われるのです。

(文中敬称略)