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[小澤太一 インタビュー 2011]


目次

1. 311、そのときコザワは

2. 少年時代

3. 高校時代

4. 予備校時代

5. 大学時代

6. アシスタント時代

7. 21世紀、フリーになる

8. コザワの日常生活


1. 311、そのときコザワは


震災当日の葛西臨海公園でなにげなく撮ったカット。このカットを撮った1時間後に、震災が。


――最近会う人に、まずこれを聞いてるんですけど、3月11日、東日本大震災の日、何をやってましたか?

小澤―葛西臨海公園で、撮影してました。海っぺりなのでけっこう揺れたし、遠足で来ているらしい子どもたちもいたので、「わー!」っと騒ぎになってましたね。駅前に噴水があるんですけど、そのあたりに子どもたちが並んで座らされていて、それこそ、何か事件が起きているというのがバンバン伝わってくる光景でしたね。

――何の撮影してたんですか?

小澤―カメラメーカーの仕事で、コンパクトカメラを使って上手く撮ろうっていう趣旨の撮影ですね。メーカーの方と、モデルさんと、僕とという小さな三人所帯で。

――すぐわかりました?地震だって。

小澤―わかったんですけど、僕はあまり慌てないというか、ああ揺れてるなって感じで。メーカーの方は、阪神大震災を経験された方で、これはここに居たらまずいということで、上に何もないところに移動して。駅のコンビニの前のロータリーのところに座ってました。

――あまり騒然とはしてなかった?

小澤―してましたね。でも僕はまだ撮影中だったので、プラン通りに場所移動できないとまずいなと、そんなことを考えてましたね。地震は情報がわからなかったし。いつ移動できるのかと、そちらの心配ばかりしてましたね。

――けっきょくその後どうしたんですか?

小澤―動けなかったんですよ。タクシーもみんな乗っていっちゃったし。1時間くらい待って、バスが動きはじめたあと、そこに居てもしょうがないから、葛西駅の方にバスに乗って行って。葛西駅に行けば地下鉄乗れるかなと思ったら、地下鉄も止まっていたから、しょうがなく5時間くらい居酒屋にいましたよね(笑)

――居酒屋はいっぱいじゃなかった?

小澤―いっぱいじゃなかったですね。まず、ファミレスは全部閉まっていて、駅前は人で溢れてたんですけどね。夕方から開いてる居酒屋が一軒だけあって、入ったらほとんど人がいなくて、空き空きでしたね。10時くらいまで居ました。

――それでどうしたんですか?

小澤―ひどい話で、店閉めますってことになったんですよ(笑)。メーカーの方と、モデルの方と、どちらも女性だったので、さすがに一人先に帰るわけにもいかんだろうってことで。次に行く場所を探したんですよね。ホテルも部屋が一杯で。駅に行ったら電車が動くというアナウンスが聞こえてきて。電車に乗ったのはいいんですが、乗ったまま、一時間くらい動きませんでしたね。

――帰れたんですか?

小澤―東京メトロ、葛西駅から、渋谷駅までは行けて、そこから家まで歩きですね。一時間半くらいかな。

――小澤さんのツイッターとか、ブログとか見てると、平然としてましたよね。

小澤―慌ててもしょうがないものはしょうがないっていう感覚なんですよね、いつも。強がっているわけでも、根性がすわってるわけでもないんだけど。なるようにしかならないかな、っていうことを、いろんなときに思ってるので。慌てて何とかなるなら慌てるんですけど、しょうがないでしょっていう感じですね。

――震災後もそういう感じですか?余震とか、原発とか。

小澤―しょうがないかなと思ってます、半分は。みんな買いだめとかしたじゃないですか。そういうのも一切なくて。ご飯がなければパンを食べればいいとか。パンがなければお菓子を食べればいいとか。とくにこだわりがないんですよね。なかったら別のことを考えればいいかなと。

――それにしても、何ごともなかったように生きていてすごいなと思いました(笑)

小澤―たまにいわれます、それ(笑)。確かに、ツイッターとか、ブログで、あのときみんな落ち込んでましたよね。あんまりそういうこと書かなかったんですよね。落ち込んでどうにかなるなら落ち込むけど。落ち込んでもどうにもならないなら前に向かって歩いていかないといけないから。だったら、前を向こうかな。というところかな。

――考えに考えてそうしたっていうわけでもなく、そういう人なんですか?

小澤―いちおう考えてますよ(笑)。こう見えても空気を感じようとしてるんで。確かにあのときみんな震災のこと、重いことを書いていて。みんな思っていたと思うんですが、それを書いちゃうと、どよめくし、暗くなると思ったんですよね。だからあえてポジティブなことを書いてましたね。全然震災に関係ないようなことを。


震災があった頃の、チビッコカメラ写真展の会場風景。


――ちょうど写真展『チビッコカメラ世界紀行』の会期中でしたよね。

小澤―会場に行ってますとか。それが僕の姿勢ですね。ブログ見て写真展来てくれた人もけっこういたんですよね。

――そうそう、普通に会場に行ってましたよね(笑)

小澤―地震でとんだ仕事がいくつかあったんですよ。もし地震がなかったら写真展会場に足を運べなかったんですが、仕事が中止、延期になっちゃったので、やることがなくなった。時間ができたので、家で落ち込んで、ぼんやりしていてもしょうがないなと。人様に向かって写真展やってますと動いていた時期だから、会場も開いてるということになったので、ひとりでもふたりでも来てくれる人がいるなら、迎えるのが会場の主の役目かなと。

――人生観変わったりしませんでした?

小澤―んとね・・・そういった面では、他の人に比べて変わってないんじゃないかなと思いますね。ずっと津波の映像が流れていたじゃないですか。2、3日目くらいに、ずっとこれを見ていると落ち込みすぎるなと思って、テレビを見るのが嫌になった時期が少しありましたね。それくらいかな。僕は不幸中の幸いで、身内が何かってことがなかったので、現実問題、自分のこととして考えられてないのかもしれないですけど・・・。

――撮りに行ったりしてないんですか?

小澤―してないですね。行ってる人多いですよね。悩みました。行こうか行くまいか迷って、少なくとも震災後のすぐの時期にというのは、僕が行くべきじゃない、というと変ですが、僕は報道の人でもないし、どちらかというと、人と交わって写真を撮っていきたいなというタイプなんですけど、震災でまさに大変なことになっている時に、僕の作品のために動くのは、よしじゃないだろうという気がして行けなかったんですよね。行く時間はあったんですけど。行ってしまうと、エゴのために写真を撮るんじゃないかという気が、そのときはして。それは、行かないということを強く決めたっていうことですね。

――迷ったんだ。

小澤―迷いました。

――撮りたいですもんね。

小澤―そうですよね。体験したことがないようなことが起こってるんだから、見てみたい。写真家としてなのか、僕個人としてなのか、わかりませんが。はじめてのことだから、見たいです、それは。仮に僕の実家がそちらの方だったら、間違いなく行ってると思うんですよ。深く関わっている場所のような気がするから。でも今はそうじゃない。それは行けないなと思ったんです。


亡くなったオヤジを前に記念写真。


――そういうふうに考えるのは、性格的なものもあるのかな。

小澤―わりと客観的にいろんなものを見ていることが多いし。親父が何年くらい前かな、亡くなったんですけど、実家の名古屋に帰って、親父の亡骸の写真をけっこう冷静に撮ってたんですよね。出棺の前に。家で三脚をつけて、きちんと複写した。悲しいという気持ちも当然ありますけど、記録したい、撮っておきたいという気持ちもあるんですよね。別の感じとして。それもちゃんとお葬式の人が来ていて、僕が撮り終えるのを待ってるわけですけど。オカンとかは、息子はそういうもんだという感覚で、半笑いで見ているような。そんな家庭でしたね。

――意外と当事者ってそんな感じだと思いますけどね。いつ頃亡くなったんですか。

小澤―いつだっけな、5〜6年前かな。東京に来ていて、年に一回も帰ってなかったから。たまに帰ったら親父がいるとか、オカンがいるとか。年に一日くらいしか会わない感覚だったので。聞いたときはびっくりしたけど、実感は希薄でしたよね。

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2. 少年時代


――はじめて写真に興味を持ったのは、いつ頃なんですか?

小澤―小学校の低学年、2〜3年生の頃だと思います。動物園好きだったんです。東山動物園っていうのが名古屋にあって、そこに見に行ってたんですけど、そこで写真撮りたいというのが、一番最初だと思います。110のカメラの安いのを買ってもらったりして、それで撮ってた。それはカメラが好きとかいうことではなくて、ただ絵が撮れればいい。動物の雰囲気が撮れればいいっていう感じですね。たぶんそれがきっかけですね。

――1984年くらいですかね。その頃は110の時代だったんだ。

小澤―そうですね、薄いカメラですよね。

――それからのカメラ遍歴は・・・

小澤―ないですね。動物園ボックスみたいなのが家にあって、そのなかにポストカードとか、動物園のしおりとか、図鑑みたいなものを入れていて、それと同じようなものが自分でできればという感覚で撮ってたんだと思うんですよね。

――ああ、興味は動物なんだ。

小澤―そのときは好きでしたね。何ででしょうね。カッコいいからじゃないですかね。わかりやすい動物が好きでした。大きいのとか、かわいいのとか。ライオンとか象とか。名古屋にはコアラが来たんですよ。それもすっごい盛り上がって撮りに行きましたね(笑)。

――家族で行ってたんですか?

小澤―家族でも行ったし、近所の動物好きの子どもたちが集まって図鑑見せ合ったりもしてたんですよね。変な感じですね、今考えると。ちょっとませてたと思います。子どもがちゃんとした図鑑を見て、この動物は…って言い合っていて。

――本格的にカメラに興味を持ったのは、いつ頃でした?

小澤―中学一年ですね。これも直接カメラじゃないですよ。星を撮りたいっていうのがあって、さすがに110のカメラ、普通のコンパクトカメラじゃ撮れないし。で、家族が一眼レフを買ってくれたんですよね。これが出会いです。

――カメラは何を?

小澤―α-7700iなんですよ。オートフォーカス一眼レフの二世代目くらいかな。α-7000とかα-9000の次ですね。けっこう高かったと思いますよ。動体予測なんかが入っていて。いろいろできるといわれたカメラでしたね。

――あんまり星に関係なさそうな機能だけど(笑)

小澤―自分もわかんなくて、親もわかんなかった(笑)。星を撮りに行ったんですけど、今ならちゃんちゃら笑っちゃうんですが、星をオートフォーカスで撮ろうとしてたんですよ。写らないですよね。ピント合わないし、バルブとかも知らないし。ただ星に向かってオートフォーカスで撮ろうとしていただけ。ずっと失敗ばっかりです。

――お金持ちの家だったんですか?(笑)

小澤―お金持ちじゃなかったんだけど、今考えると、親が、子どもが興味のあることに対しては頑張ったんじゃないですかね。

――中流なのかな?

小澤―うーん…、上の下? 中の上? 中の中?(笑)。車は普通の国産だったし。

――お風呂がライオンの蛇口だったり?(笑)

小澤―うんうん(笑)、いや、普通です。田舎だったので、最近のものを買うわけでもなかったし、ビデオが家に来たのも遅かったですね。誰も欲しいと思わなかったのかな。でもカメラに関しては、なぜか買った。

――それで、写らない(笑)。ずっと撮れないままだったんですか?

小澤―ええ、がっくり…


中学の頃、入り浸っていたカメラ屋さんのおやじ。


――勉強しようとは思わなかった?

小澤―中学校のとき、街の写真屋さんに入りびたっていたんですよ。学校終わると、学ランのまま遊びに行って。そこの店長、店長といってもおじいさんひとりでやっていたようなお店だったので、ジュースおごってもらったりして。それで、お店に置いてあったカメラ雑誌とかを、ずっと読んでたんですね。その店長に撮り方とかも聞いたんですけど、教えてもらえなかった。そのうち中学校の理科の先生で星を撮っている人がいて、その人に教わって、少しずつ撮れるようになっていった。

――昔はそういうカメラ屋さん、ありましたね。

小澤―カメラ屋さんのオヤジがずっと煙草吸ってるから、学ランが煙草臭くなってね。家に帰ると、「あんた煙草吸ってんじゃないの?」ってすごく怒られた記憶がある。

――昔は煙草も普通だった。

小澤―僕が?(笑)

――いや、世間(笑)

小澤―僕はその時はほんとに吸ってなかったんですよ(笑)。濡れ衣を着せられて切ない気持ちになりましたね…。そこに行くと、ジュースおごってもらえるけど、煙草臭くなって親に怒られるっていうね。


カメラ屋のおやじさんと一緒のネガに写っていた、中学生かよ、というようなシブいカット。


――昔は、子どもがカメラ屋とか電気屋とかによく入りびたってましたよね。

小澤―そうなんですか? 電気屋というと、ゲームとか?

――僕の場合は、オーディオとか。

小澤―音楽好きな人は楽器屋さんとか。タダで弾けるからとか。カメラ好きな人はどこに行くのかな。まだ中古カメラとかは好きじゃなかったから。中学時代から好きだったら、名古屋はいっぱいあるから行ってたでしょうね。


なんとか星が写り始めた頃の写真。オリオン座。


――それで、星の方はだんだん撮れるようになっていった?

小澤―はい。ほんとに今見ると下手くそで、写ってるっていうだけ。星が星のように写ってるだけで、よく考えたら高感度のフィルム使ってなかったし、ズームレンズも、そうズームだったんですよ。35-105mm F3.5-4.5かな。そりゃ写らないですよね。撮ってるのも街中で。月とか金星とかは写ったけど、細かい星は全然写らなくて、チクショーと思ってましたね。

――下手くそな写真ばかり大量に撮ってたんですか?(笑)

小澤―子どもだから、どこか遠くにとかそんなに行けないんですよ。だからそれほど撮ってたわけでもなかった。でも、その理科の先生が時々どこかに山まで連れて行ってくれたんですよね。夜一緒に撮りに行って、明け方とか戻ってきて学校に行く。そういうことがないと撮れなかった。


中学生の小さかった頃。修学旅行で来た横浜でのカット。


――それって先生にかわいがられてますよね。

小澤―なんですかね、みなさんのおかげです(笑)。物怖じせずにいろんな人に話しかけてたからかな。それでかわいがっていただけることがあるのかな。その頃メチャ小さかったんですよね。中学校のとき、126cmですよ。

――それは小さい。今はどのくらいなんですか?

小澤―157cmです。

――今よりずっと小さかったんだ。

小澤―そうそう。列を作るとき、僕はずっと腰に手をあてる人でしたから(笑)。前へならえをしたことない(笑)

――どうですか、そういう人生は?

小澤―え?(笑)。一番前が定位置。ある意味誰にも譲りたくない的な。うーん(笑)。今は大きくなった方です(笑)

――よく育ちましたね(笑)

小澤―中学一年から30cm伸びましたからね(笑)

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3. 高校時代



高校の陸上部時代。


――それで、星はずっとうまく撮れないまま?

小澤―中学で撮れなくて、高校でも撮れなかった。天文部でも写真部でもなかったから。両方あったと思うんですけどね。陸上部にいたんですよ。ただ走るっていうのがよかった。青春な感じしません?(笑)

――文系な部活をやろうとは思わなかった?

小澤―体験入部ってあるじゃないですか。そのときに天文部見に行ったんですけど、見に行った瞬間、これ違うなと思って。これ行ったらちょっとモテないかもとか(笑)。高校生活、違うんじゃないかと。入らなかったというより、入れなかったんだと思う。物怖じしちゃった。で、仕方なく陸上部に入った。

――オタクですよね、天文部は。

小澤―天文部はそうだったと思う。女の子はいなかったし。

――高校は共学?

小澤―共学です、男女半々の、普通な。その頃って、モテたいというか、そういうこと大好きじゃないですか。

――で、モテたの?(笑)

小澤―モテなかったですよ。そりゃそうですよ。その頃だって、151cmしかないし。走っただけですよ。

――でも、チューくらいはしたでしょ。

小澤―いや、モテないですね。僕、思うんですけど、中学時代にモテるのはヤンキーだと思うんですよ。ワルの香りが足りなかった、コザワには。


高校生の頃。


――中学、高校と、ヤンキー臭が足りなかった。

小澤―そうそう。

――でも、高校くらいになれば真面目でもモテるでしょう。

小澤―真面目でモテるのはデキる子じゃないですか。それも足りてない。中途半端。なんでしょうね。盛り上がることは好きなので、天文部じゃなかったんだよな。よっしゃ!流星!ってならないじゃないですか、天文部だと。それよりも、陸上部でひたすら走って…

――短距離ですか?

小澤―長距離で、高校だと1500m、5000m、10000mとか。

――えー、一番キツイでしょう。

小澤―1500mとか体育祭とかであるじゃないですか。学校一早かったですよ。だから走るのも好きだったし。無駄に盛り上がるのが好き(笑)。そういうことに冷ややかな人もいるじゃないですか。でも僕はそのへんは全然違った。

――じゃ、騎馬戦とかも好きなんだ。

小澤―騎馬戦は軽いから一番上になっちゃうでしょう。上になるととられちゃうので、いい思い出がない。だけど、好き。大学生になっても、みんなでドロケーやろうぜとか。ああいうの好き。今でもドロケーやりたい(笑)

――じゃ、どうして大学は写真学部を目指すようになったんですか?

小澤―はじめ大学に行く気がなかったんですよ。頭もよくない学校だったし。名古屋市立山田高校っていう。名前も平凡だけど、当時、生徒も平凡だった。進学校でもないし、商業や工業のように、就職するっていう学校でもなかったし。大学行けないけど、大学行きたいやつがたくさんいる。結果、短大行く人が多くて。

――じゃ、日大ってそうとう頑張ってないですか?

小澤―四大行くやつがあんまりいなくて、しかも、東京行くやつがほとんどいなくて。そのなかで僕は偏差値的には中の中だったから。要はダメなんですよ。ダメだったから、大学行くことも真剣に考えてないし、大学行って何をしようと考えることもなかった。


青学卒の高校3年の頃の恩師。この人のおかげでニチゲイを知った。


――それが、なぜ?

小澤―進路相談のときに、当時の先生が、青学卒の先生だったんですね。東京には写真の大学があるぞって教えてくれた。経済学部とか法学部とか難しそうで、何やればいいかわからないから、全然行く気がなかった。でも、芸術学部があるというのをはじめて知ったんですよね。隠れ天文ファンなのを先生は知っていたから。そういうのをきっかけに、提案してくれたんだと思うんですよね。

――その先生に聞かなかったら考えもしなかった。

小澤―そうですね。普通に何やってたかな。フリーター?

――何か半端なことを…(笑)

小澤―中の中の人生をやっていたかも(笑)


最初に買った原付の写真。


――93年頃ですか。そういう時代でもありましたね。

小澤―高校のとき、禁止だったんだけど、内緒でバイク乗ってたんですよ。原付をこっそり乗っている友達がいて。これすごいなと、夜の区役所の駐車場で練習して。原付免許をとって。最初の一年くらいそれに乗って。星とかも撮りに行ってたんですよ。でもやっぱ、原付に飽き足らなくて。高三のときに、中型免許をとった。

――250cc乗ってた?

小澤―400cc乗ってた。足届かなかった(笑)。けっこう400でも大きいの乗ってたんですよ。

――それは何ですか。ガンダムになるみたいな?(笑)

小澤―何ですかね、シャアみたいな(笑)。カッコよかったんですよね。当時レーサーレプリカが流行っていて、いわゆるレースのやつじゃなくて、ツアラーといって、長距離乗れるようなのに乗ってたので。それって大きいんですよ。安定感があって。それに乗るとどこにでも行ける気がして…

――自分で買ったんですか?

小澤―買ってもらっちゃいました…


おとん。


――甘やかされてますね(笑)

小澤―そうなの(笑)。今考えると、うちの親、頑張ったなと思います。

――グレないように?(笑)

小澤―いや、グレる要素はなかったと思います。

――じゃ、可愛がられてたんですね。

小澤―あるいは僕が相当ワガママ言ったか。


おかん。


――床でバタバタしたり?(笑)

小澤―う〜ん、けっこうワガママだったんで。それは迷惑かけたなと思いますね。それこそ、その頃思春期で、よくあるやつ、「うるせえ、ババア!」とか。我ながら恥ずかしい。

――土下座して謝らないと(笑)。ありがちな反抗もけっこうしてるんですね。

小澤―全然してましたよ。お母さん蹴ったりしたし…

――ええ?!家庭内暴力じゃないですか。本気で蹴ったの?

小澤―いや、もう、そうですよ。小さいから、たいしたことなかったのかもしれないけど。そこがまた中途半端なんですが。ダメな子でしたね。

――何でそんなに反抗してたの?

小澤―甘やかされてたのかなぁ。

――お小遣いはいくら貰ってたんですか?

小澤―決まって月にいくらじゃなくて、コロコロ出ましたとか、お菓子欲しいですとか。たぶん多かったのかな。だからダメだったのかも。親のありがたみがわからなかった。ほんとそれは感じるんですよね。東京に来てから。

――けっきょく大学は一発で受かったんですか?

小澤―一発で受かるわけないじゃないですか、そんなアホ高校のアホ学生が。一次で軽く落ちましたよ(笑)。当時、日芸って英語と国語で足切りがあって、そこで落ちました。二次は面接と論文で。それの練習してたんですけど、必要なかった(笑)。何かわからないけど、受かると思ってたんですよね。ひょっとしてこのまま、18年間生きてきたように、すんなり受かるんじゃないかと。勉強は確かにしなかったんですよ。ずっと走ってばっかだったから。でも意外と大丈夫じゃないのって。今考えると、いろいろ親が面倒みてくれたりとか、そういう助けがあってのことだったんですけどね。


おかんと、おとん。


――ショックでした?(笑)

小澤―ショック(笑)

――バカなのに?(笑)

小澤―ほんとバカなのによく受かると思ってたな、それは落ちて当然ですよね(笑)。あれ? と思ったもん。

――人生はじめての挫折だ。

小澤―それね、感じましたよ。ほんとにね。このままじゃアカン、ガツンと。

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4. 予備校時代


――で、浪人したんですか?

小澤―名古屋で浪人ですよ。

――けっこう遊んでハッピーな浪人生活?

小澤―ハッピーじゃないですよ。予備校時代暗かった。

――可愛い女の子もいたでしょう?

小澤―いた(笑)。いたので困ったんですけど、でも、アホ高校だったから、予備校に一緒に行くメンバーもけっこういたんですよ。そこがよくなかったかもしれない。予備校に通いつつ、今までと同じことやってたら、これはもう一回やっても受からないと思ったんですよね。日芸、当時はなかなか入れなかったんですよ。レベルが高いといわれてた。これはヤバいなと思って。一年間お金だしてあげるけど、あとはダメだといわれてたから、やるしかないかと思って。一日十時間勉強やるって決めて。机に向かう時間を。

――ほんとにやったんですか?

小澤―やりました。ほんとやったと思う。

――一生で一番勉強した。

小澤―ほんとやりましたね、あれは。甘えっ子だから、家にいるとダメだと感じたから、まず勉強できる場に行かないとと思って、名古屋の図書館に席を押さえに行く。朝一番にやることは、6時台だと思うけど、まず図書館の入口に場所をとりにいくこと。バイクで図書館に行って、荷物を置いて、家に戻って飯食って、開館時間に図書館に行ってずっと座ってる。閉館までずっといる。予備校があるときは、予備校に行って。

――バイクは高二くらいの出来事?

小澤―高三のときに大きいバイクでしたね。

――ツーリングとか行ったんですか?

小澤―一番最初に遠出をしたのは九州。高校のときに、卒業して、友達が九州に引っ越して、春休みに行きましたね。800kmだっけかな。

――自由になりたいとか思って?

小澤―最後の冒険みたいな感じだったのかな。そのあと、浪人、修行するって決まってましたから。

――この一年間勉強漬けになって、頭もよくなった。

小澤―頭、よくなったんですよね(笑)。よく考えたら、センター試験とかだと、科目がすごくあるじゃないですか。日芸は二教科だから、英語と国語だけやればいいんですよ。みんなが八科目とかやってるところ、二科目だけだから、そりゃできるようになったんですね。

――めでたく合格して。今度は当然だろ、って感じで(笑)

小澤―じっさいには推薦入試が先にあって、大阪芸大を受けたんですよ。一年目も大阪芸大受けたんだけど、やっぱ落ちて。二年目は受かったんですよね。大学は四つしか考えてなかったんですよ。日芸、東京工芸、大阪芸大、九州産大。推薦で受けられたのが大阪芸大だった。受かった、キタと思って。

――最初の年の受験は二校だけ?

小澤―東京工芸も受けたと思う。

――で落ちたんだ。

小澤―当たり前じゃないですか(笑)

――二年目は?

小澤―推薦で大阪芸大が受かったから、逆にもう、日芸しか受けなかった。一年日芸に恋してたわけじゃないですか。変な感覚になっていて、写真をやりたいのか、日芸に入りたいのか、よくわからなくなってた。とりあえず日芸に行くっていうのが重要に思っていて、写真学科のほかに、全然興味ないのに映画学科とか、なぜか文芸学科にもエントリーしてたんですよね。順番的には、最初、映画、次に写真、文芸。で、映画の撮影録音コースに受かったんですよ。映画が受かってるから、文芸に行くことはないなと思って受けなかった。写真も受かって、どうしようと思って。当時、映画の方が倍率が高かったんですよね。だから映画の方に行っちゃおうかなと思った。でもやっぱり最後には、写真かなと。

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5. 大学時代


――それで東京に引っ越してきた。どこに住んだんですか?

小澤―清瀬。

――遠いですよね。なぜ清瀬に。

小澤―最初、日芸っていったら江古田だろうっていうのがあって、合格発表を見に行ったのも江古田キャンパスだったから、東京に住むっていうことはそこらへんに住むっていうことだろうと思ったんです。でも1~2年は、所沢だったんですよね。それも知らなかったんですけど、やっぱ東京、それも23区に住みたいとは思っていて、おのぼりさんだったから、最初は練馬あたりで住もうと思ったんです。でも家賃とか、合わなかったんですよね。6万くらいで考えていたんですけど、なかなかなくて。

――練馬あたりだと7~8万だったのかな。

小澤―当時ロフトが流行っていて、ロフトっていうのに住んでみたいなというのもあった(笑)。名古屋の実家は普通の家だったから。そういう賃貸、マンション、アパートというのは住んだことがなくて、ロフトってカッコいいなと思った(笑)。で、探していって、なかなかなくて、西武線の沿線をバイクに乗って下って行ったら、清瀬だった。

――清瀬は市ですよね。そこは妥協して。

小澤―でも、そこは新築だったんですよね。何でだろう、今だったら全然気にしないけど、当時は新築にもこだわったんですよね。ほんとおのぼりさんで。

――新築、ロフト、ワンルーム(笑)

小澤―そうそう(笑)

――で、どういう物件だったんですか?

小澤―清瀬の駅から近くて、ロフト付き、真っ青な家でした。

――外装が?

小澤―はい。みんなに青い家と笑われるような(笑)。大家さんが、熱帯魚屋さんだったんですよね。だからかもしれないですけど…

――で、夢のキャンパスライフがはじまった。バイクとロフトとセックス(笑)

小澤―えっとね…セックスに関しては、そんなモテてなかったですよ…

――でも、バイクとロフトで上京ときたら、ね(笑)

小澤―あー…。残念ながら2階建てのアパートの2階だったんで、肝心のロフトが夏50度くらいになるんですよ(笑)。そこで寝れない。

――勉強の方は?

小澤―最初びっくりしたのはモノクロですね。撮ったことはあったけど、自分で現像したことはなかったからハマりました。家でも暗幕引いてやりました。床にビニールシートを敷いて。面白かったですね。自分でできることが楽しかったんでしょうね。

――1994、5年くらいの話ですかね。

小澤―富士のISO100の白黒フィルム、アクロスが出た頃じゃないかな。僕はアクロス派だったんで。

――モノクロの最後の黄金時代なのかな。

小澤―そうですね、T-MAXデベロッパーとか使ってる友達もいたけど、僕は富士派で。その頃、荒木経惟さんの全20巻の写真全集が出たりとか、平凡社から。モノクロ全盛で。やっぱモノクロ、カッコいいなと思って。お店なんかに出さずに、自分で現像したい! って思ってましたね。

――モノクロ現像のタンクは何を使ってました?

小澤―LPLです。

――ネガカラーが流行るのはもうちょっとあとなのかな。

小澤―学生にはプロセッサーが高かった。大学生のときに、野口里佳さんや蜷川実花さんの展示を見た記憶はあるけど。

――デジタルはまだまだですよね。

小澤―全然ですね。大学3年か4年のときに、一回授業で触ったくらいで。それが将来仕事につながるとかいう感覚はまったくなかったですね。

――大学時代は何を撮ってたんですか?

小澤―星です(笑)

――本格的に?

小澤―僕、荒木さんすごく好きだったから、最初に撮ってたのは日常です。今と変わらないんですけど、まわりの友達撮ったりとか。コンパクトカメラがあのとき流行ったじゃないですか。

――ビッグミニとか。

小澤―僕は富士のティアラ派で。そのあとリコーのGR1。画質にはこだわる方だったので。

――コニカのヘキサーとか。

小澤―使いました。ちょっとデカかったですよね。でも持ってた。あれ、星も撮れるしね。

――じゃ、星と日常を撮ってた。

小澤―モノクロで作品撮ってたりとか、毎日写真日記を日付入りで撮ってた。それが、2000年までの1000日前から、ちょうど2000年に1000枚目になるように撮ってましたね。

――1000日って、ずいぶん前からがんばりましたね(笑)

小澤―今日が2000年までの1000日前ですってラジオで言ってたんですよ。それを聴いて。ああ、そうかと。その日にコンパクトカメラ買いに行って。ビックカメラかな。そこでティアラ買ったと思う。日付が入って持ち歩けるカメラがなかったので。

――1日1枚撮ってたんですか?

小澤―いや、一日何枚か撮って。

――今もあるんですか?

小澤―ありますよ。

――発表しましょうよ(笑)

小澤―『千日日記』ってタイトル付けてあるんですけど。エロいのがけっこうありますから(笑)

――いいですね(笑)

小澤―当時の彼女とか…。ラブホテル行ったりとか。日付入りで。

――ハメ撮りもその頃覚えて(笑)

小澤―ハメ撮りはさすがに日付入りだと撮ってないですよね(笑)

――日付重複してると、何かとマズいもんね。

小澤―このシリーズの写真を文化祭に出したり。

――日芸はそういう写真多いのかな?

小澤―逆に最近増えてるのかもしれないですね。最近はそういうのばっかりで面白くないっていう話も聞きます。それは日芸に限らずじゃないかな。

――小澤さんが日常を撮っていたというのは、まさに時代の影響ですね。

小澤―完全にそうですね。HIROMIXさんとか…。荒木さんとかガンガン日付入れて撮ってたじゃないですか。あ、日付入れてもいいんだと思って。『千日日記』はカラーで撮っていて。毎日撮るから。

――お金もかかったでしょう?仕送りたくさん貰ってたんですか?

小澤―なかったです。

――じゃ、バイト?

小澤―そのとき、ミニラボでバイトしてたから、こっそり現像してた…。だから湯水のごとくネガカラー使えたんですよね。

――フィルムもそこのを使って?(笑)

小澤―いや、ちゃんと買ってましたよ(笑)

――その頃は、もう安かったですもんね。

小澤―業務用とか安いのを買ってましたね。

――そうこうして4年間が過ぎて。バイクもずっと乗ってたんですか?

小澤―乗ってました。車の免許とったのが、3年のときで。

――車も乗ってた?

小澤―車は4年のときに実家の車をもらってきちゃった。

――また親を殴って持ってきた?(笑)

小澤―違います(笑)

――ほんとに甘やかされてますね。

小澤―そうね…

――駐車場とかどうしたんですか?

小澤―引っ越しました。1~2年は清瀬で、3年の途中かな、夏くらいに。けっこう僕、まじめに学校行ってたんですよ。だから4年目は4年生の必修以外、行かなくていいくらい単位がとれていた。で、星ですよ。星を卒業制作に撮りたいと思って。だから車が必要で。車がないと、冬とか撮りに行けないじゃないですか。星のために車が必要で、そのために山に引っ越したんです。

――どこに?

小澤―高尾です。

――家賃的には楽ですね。

小澤―楽ですね、2DKでした。駐車場込みで6万くらいかな。青い家も6万でしたから。

――ちなみにいまの家賃はおいくら?

小澤―123,000円です。

――大出世ですね(笑)

小澤―卒業したあと、高尾のあとは西荻窪に住んで、そこは1DKでいくらだったかな。92,000円だったかな。

――それも出世ですね。で、高尾に話を戻すと、そこで星を撮っていた?

小澤―高尾では撮ってないですよ、そこから中央道に乗って。

――本格的ですね。どういう写真を撮ってたんですか?

小澤―星がある風景、星景写真ですね。そういうジャンルがあるんですよ。今だと武井伸吾さんとか。星があって地面があって、という。望遠鏡を使って星雲星団のアップというのもありますよね。そういうのは誰が撮っても一緒だと思って。ほんとは一緒じゃないけど、図鑑見ればいいじゃんと思っていて。そういうのじゃなくて、風景と星をからめるというのは、ある意味芸術だと思っていて。景色にすごくこだわったんですよね。デジタルじゃないから、感度いくつのフィルムで、星の長さがどのくらいとか、経験が必要で。

――露出なんかも経験ですもんね。夜景と星とか?

小澤―いや、夜景だと明るすぎちゃう。地形というか、樹が一本とか。あの樹カッコいい、とかね。

――シルエットで樹が浮かんでるとか。

小澤―そこなんですよ。月がなければシルエットになるんですけど、月があると照らされて昼間のようになっちゃう。その月があがってくる時間がいつ頃で、どのくらい照らされると昼間のようになるかというのも頭にあって、そういうイメージとデータをもとに撮ってた。

――何でそういうことやってたんですか?

小澤―カッコいいと思ってたんじゃないかな。

――芸術だという感じ?

小澤―そうですね、たぶん(笑)

――わかる。写真っぽいですもんね。デジタルだと簡単になったかもしれないけど、フィルムでそういうことやるのって、ロマンティックだし。

小澤―大きなプリントにしたときにも栄えるじゃないですか。その逆がコンパクトカメラで撮ってる日常で。

――両方やってるっていうのが、若さかな?

小澤―普段から、星撮れないっていうのもありましたしね。今も同じように星撮ってるんですけど、今の方が当時よりも、というか、当時は柔軟じゃなかったと思いますね。星を撮ることに対して、時間はこの時間じゃないといけないとか。月の大きさが満月付近じゃないとダメだとか。こだわりがあって。だから、卒業制作失敗しちゃったんですよ。

――というと?

小澤―リミットまで、このままだとできないくらいになっちゃって。で、挫折した。

――出せなかった?

小澤―提出期限が1月はじめで、挫折したのが11月。あと何日撮りに行けるとか、何枚足りないとか計算したら無理だとわかった。確か20枚だったんですが、絶対出せないなと。このままのシリーズだとまとまらないと思って、星をやめた。

――それでどうしたんですか?

小澤―一転して、郊外撮ってました(笑)

――ホンマタカシさんのような?

小澤―はい。ホンマさん好きだったんで。ほんとその影響だと思う。ホンマさんがカラーで撮ってたじゃないですか。ああいうものをやりたかったんだと思います。

――で、カラーで短期間で撮った(笑)

小澤―いや、自分で作るっていうこだわりはあったので、モノクロで。ブローニーで。GA645Wとマキナで。冬の固い順光の光で、八王子、立川、日野あたりの、形が面白いような建物を撮って。コントラスト強めの現像をして。空が黒く落ちる感じで。

――フィルムは?

小澤―アクロスです。

――星はカメラ、何を使ってたんですか?

小澤―GA645Wと、いろいろですね。

――この頃って面白いカメラが出たピークのひとつでもありますね。このままフィルムの時代がずっと続くと思ってた。

小澤―ですね。思ってました。コンタックスT2とかG1もこの時代じゃないかな。

――卒業制作は無事できた?

小澤―1ヶ月か2ヶ月しかかかってないんですけど、学校で賞もらったんですよ。日芸ヤバいんじゃないかな(笑)

――写真ってチョロいなと(笑)

小澤―そのとき、ちょっと思った(笑)。賞もらって、卒業式の日かな、賞品もらえるんですけど、賞品が広辞苑だったんですよ。名前入りの。すごく重くてね。

――嬉しくない(笑)

小澤―勉強が足りないということなのか。

――大学時代の、小澤さんのモチベーションって何だったんでしょうね。バイク、星、車…

小澤―知らないところに行きたいっていうのが強かったですね。これは昔から。小学生の頃とか、探検隊員になりたいとか、宇宙に行きたいと思っていたり。今でも知らないところに行くの、すごい好きです。

――時代的には、やはり一時代前なのかな。インターネット時代の前の。

小澤―インターネットをはじめてやったのは、アシスタントになってからだと思うので、確かに世界が狭かったのかな…

――狭くてわからないからこそ、行きたくなるっていうのはありますよね。

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6. アシスタント時代


――卒業後は、アシスタントになったとプロフィールにありますが、どういういきさつで?

小澤―大学4年のとき、就職活動するの忘れちゃったんです。写真を毎日撮っている方が楽しいから。

――ほかの人はしてたんですか?

小澤―わかんないな。僕のまわりではしてなかった気がしますね。みんながしてなかったから焦らなかったんでしょうね。

――いまはみんな、就活、就活っていってますけどね。

小澤―やったことがないから、わからないんですよね。リクルートスーツ持ってないし。どうやって会社まわりするかとか。大学1年のときからずっと『月刊カメラマン』でバイトしてたんですよ。

――何のバイトを?

小澤―それこそバイト君です。あらゆることをやってました。フォトコンの開封とか、企画で誰々先生が撮り比べするっていうのがあったら、一緒に行って鞄運ぶとか。

――どういうきっかけでやるようになったんですか?

小澤―月に一度くらいプロカメラマンが読者の写真を見るという持ち込みの企画があって、星の写真を持って行ったことがあるんですよ。高校3年のときに。入試のときだと思います。そのあと大学に受かってもう一度行ったんですよ。そのときに「ああ、あのときの」ってなって。「日芸受かりました」といったら、今の編集長の坂本直樹さんが「どうせ日芸の学生なんて暇なんだから、うちでバイトしない?」といってくれて。では「ぜひぜひ」ということで。月に1回、2回ですけど、お呼びがかかったときに。

――それで…

小澤―大学4年生のときにバイトに行ったのが、師匠の表紙の撮影現場だったんです。編集の人は、たぶん僕が就職決まってないのがわかっていたのかな、飲んだりしたとき話していましたから。

――そして…

小澤―そうしたら、はじめて目の当たりにするアイドルがいて、こうやって表紙って作るんだ、こうやって表紙ってできるんだと。すごいなと思って。そんなに長い撮影じゃなくて、今考えるとタイトなスケジュールだったんでしょうけど。そこで師匠、河野英喜さんとお会いして。そのときは、僕にとっても単なるバイトだったんですけど。そのあとしばらく経って、編集の人から「河野さんからお声がかかっているけど、会ってみる?」という話がきて、びっくりしたんですよね。

――向こうからくるというのは、めずらしいんじゃないですか?

小澤―そうなんですよね。何にもできなかったと思うんですが。

――日芸ってそういうこと、ひととおり勉強したりしないんですか?

小澤―しないんですよ。

――レフとか、ライティングとか。

小澤―やってなかった。人物を撮ろうと思ったこともなかったし。

――ストロボの使い方とか。

小澤―ないですね。

――嘘(笑)、サボってただけじゃないですか?

小澤―いや、ブツ撮りするのに、タングステンでやってましたし。EPY(エクタクローム64T プロフェッショナル)使って。

――タングステンだと、ライティングが見えるからかな。

小澤―ジェネ(ストロボのジェネレーター)なんて、「ジェネ?」って感じでわからなかったし、シンクロコードなんかもわからなかった(笑)。それはアシスタントになってから全部覚えた感じです。

――アシスタントやるのは、すぐ決めた?

小澤―悩みました。今まで星撮ってたんですもん。

――それで悩んだんだ。

小澤―悩みますよ。星を撮ったりとか、日付入りで毎日荒木さんをまねて撮っていたわけだから。芸術っぽいこと、えせ芸術っぽいことをやっていたわけですから(笑)。卒業して何年間かはバイトしてるんだろうなと、漠然と思ってましたし。ひょっとしたらこのまま『月刊カメラマン』さんとかで、たまに仕事いただいたりしながら食べていければいいのかな、とか。

――バイトしながら、好きなことをやるっていう、ありがちな。そのうち、作品がかたちになればいいな、という。

小澤―はい。

――芸術学科とか、写真やってる人なら、よくあることだし。

小澤―気づいたら30歳みたいな。

――よくある、設計してない、人生設計(笑)

小澤―惰性というか(笑)

――それで、アシスタントで縛られるのに、悩んだんだ。

小澤―いろんな人に相談して。反対する人もけっこういました。「今までやってることとぜんぜん違うだろう」、と。「何で人を撮るの」、とか。

――どうして決めたんですか?

小澤―流されてみようかな、と。大学入ったときも、先生にいわれたわけじゃないですか。ちょっとそれに乗っかってみようかなと思って、写真を本格的にやって。就職も、声をかけていただくことなんて、なかなかないじゃないですか。これは、何か、運命だと思ってやってみようかなと思った。で、やったあと人を撮るのが向いてないとかだったら、それからやめればいいかなと。せっかくだから、とりあえずやろうという感じで。

――面白いですね。アシスタントは何年やったんですか?

小澤―2年くらいです。

――河野さんのところには、アシスタントは何人もいたんですか?

小澤―基本的にはひとりです。なので、あらゆることを全部やるわけです。アシスタントっていろいろあると思うんですけど、チーフがいて分業してるとか。そうじゃなくて、全部だから、誰に教えてもらうってこともないんですね。

――背中流したりとか。

小澤―それはない(笑)。家に呼びに行くとかもない。でも、仕事のことは全部です。

――そこで仕事を覚えた。

小澤―逆にそれ以外知らないというか。

――お金はきちんともらってたんですか?

小澤―ええ、ちゃんともらってました。9万いくらの家に住めるくらいでしたから。

――20万とか。

小澤―そんなにはもらってなかったかな。えっとね、会社になっていて、残業代もつけてもらったりとか、休日手当とか。30日休みないということもあった時代なので。高尾に住んでいたときも、2DKで女の子と同棲してたんですけど。その女の子と、西荻窪の家にも住もうと。ひとりじゃ無理だけど、ふたりだったら払えるかなと思っていて…

――女の子もよくついてきてくれましたね、高尾とか。

小澤―そのとき付き合っていた子は、東京の清瀬に実家があった子で、要は実家があって、僕のところに来たり、実家にいたりという感じで。切ないときもあったけど、そのときは家に帰ったりとか。

――切ないときっていうのは、小澤さんの浮気?

小澤―ケンカしたりとか。浮気は面倒くさいからしてないです。残念ながら。

――いいですね、恋もあって。青春だ。

小澤―その子はね、8年くらい付き合ってたんですよ、大学から。

――何で別れちゃったんですか?

小澤―ええ?見限られたんじゃないですかね…(小声)

――え?

小澤―見限られたと思います(笑)

――同級生?

小澤―違います。大学2年のときだったかな、8歳上の人とバイト先の写真屋さんで知り合って、付き合いはじめて。

――相手は30歳くらいということですね。

小澤―ですね。

――相手が30歳半ばで見限ったんだ。

小澤―そうなんです。浮気されちゃったりとか。よくある感じ。

――よくあるかどうかしらないけど(笑)

小澤―最初、結婚の話が出たのが、相手が30歳の頃、僕が卒業してアシスタントになる頃なんですよ。それで結婚できないじゃないですか。そのタイミングでは。

――今考えれば、そのときしてればとも思うでしょ?

小澤―そうなんです。今考えればね。世間体とか気にしないでね。そのときはできなかった。「ちょっと待ってくれ」、と。高尾から、西荻窪に一緒にきて住んでたんですけど、フリーになって少しして、捨てられた。

――西荻窪の家はどうしたんですか?

小澤―そのまま住みました。

――家賃は大丈夫だった?

小澤―フリーになってからは、払えるかなという感じで。

――付き合っていた相手も、実家に帰れたとかいうこともあったのかな。

小澤―まあね。そういうところもあったかも。

――アシスタント時代って、日々、アイドル、アイドルだったんですか?

小澤―河野さんって僕より8個上、当時若手で、月カメの表紙も撮っていて、今でいう、魚住誠一さんのような感じなのかな。いろんな雑誌から仕事があって、でも、わけわからないですよね、何やったらいいか。ほんとに最後までわからなかった。

――すごく活躍されている方ですよね。

小澤―本も100冊以上出てるんじゃないかな。そのなかでも、僕も何冊か関わらせてもらいましたし。

――間近でアイドルに毎日接するって、どういう感じですか?

小澤―よくみんなに「いいよね」といわれたりしますけど、そんな余裕、ほんとになかったですよ。フィルムの時代で、ブローニーで撮ってたから15枚数えて「ラストです」ということとか、番記間違ってないかとか。被写体見るよりも、そっちが大変で。

――フィルム落として、ダメにしたりとか…

小澤―ありましたよ。蓋開けちゃったりとか。それはありますよ。どえらい感じですけど。

――泣いて謝ったりとか(笑)

小澤―いえません(笑)

――え?黙って捨てちゃったり?(笑)

小澤―いや、ここではいえないような…(笑)…でもそのとき、撮ったフィルムはこれだけ大事だとか、すごい教えていただいたんですよね。海外に行くと、写真集なら100本、200本、300までいったかな、そういう単位でフィルム回すんですよ。それがやっぱ、何より大事だという感覚で。師匠も話されてましたが、カメラは盗まれたりしても買い直せるけど、撮影済みのフィルムは絶対何より大事だと。あとで自分が海外行くようになってからも、その感覚はありますね。カメラはいいけど、今なら、データが大事だと。

――2年間はひたすらそういう日々で。

小澤―そういう2年でしたね。

――プロとしてのノウハウを学んで。

小澤―うーん。あらゆることでした。それまで大学生で、のんびりと好きなことをやっていたので何もわからなかったし。撮影のことは半分以下ですよね。それよりも仕事をどうやってうまくすすめるかとか。仕事に対する準備の大切さとか。フリーとしての生き方ですよね。

――やりたいことだけやってるのとは全然違いますよね。

小澤―ふつう、スタジオとかに行って、そのあとアシスタントにつくっていう流れだと思いますけど、それを飛ばしちゃったから、どういうことをやるのが一般的だとか、ほんとに相談する相手もいなくて、誰に何を聞いたらいいかわからないし、師匠に聞くわけにいかないし、でもうまくやりたいし…。どうしたら近道なのか、何をやったらいけないのか。わからなかった。毎日わからなかった。

――結果的にそれが勉強になった。

小澤―どうなんですかね。今考えると、スタジオマンをやって、一般的なライティングを見たりしたかったなと、少なからず思ったりしますけどね。自分が今やってることがどういうことか、わからないんですもんね。師匠のやり方しか知らないから。

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7. 21世紀、フリーになる


――フリーになった後の仕事というのは?暖簾分け的なこととか。

小澤―辞めたあとか、その直前だったか、師匠が月カメの編集部に連れて行ってくれて、「独立するから何かあったらぜひ」といっていただいたりとか。仕事を直接っていうんじゃなくて、そういうふうに紹介してもらったり、ですね。

――独立したのは何年でしたっけ?

小澤―アシスタントを辞めて独立したのが21世紀なんですよ。

――2001年。

小澤―2000年の年末ぎりぎりまで、アシスタントをやって。

――その間も、日付入りのカラーは撮ってたんだ。

小澤―時間がなかったですが、撮ってました。朝とか。

――星も?

小澤―星は撮れてなかったですね。

――独立してからの仕事は?

小澤―最初の頃、一番仕事いただいたのは『月刊カメラマン』さん、状況撮影とか。最初にレギュラーの話をいただいたのが『B.L.T.』さんで、モノクロのちょっとしたページなんですけど。ほとんどギャラが出ない仕事なんだけど、やってくれないかなという感じで。アシスタントやっていた頃に面識のあった編集の方から。嬉しかったですね。そういう流れから、カメラ雑誌、アイドル、タレントさんとか。

――カメラ雑誌も長いんですか?どこが一番多いのかな。

小澤―ちょっとわからないな…

――いろいろやられてますもんね。仕事ありすぎてわからないんじゃないですか(笑)

小澤―それはないですけど。

――月50本くらいあるでしょう(笑)

小澤―いやいや(笑)。昔は細かい仕事も多かったので、それこそ50本とかふつうにやってましたけどね。テレビ誌だと、ちょっと会見に行って、とか。1日3本、4本かけもちで。時間に追われる毎日でしたね。今はそんなにやってないですけど。

――1本1本が大きな仕事になった?

小澤―そこがよくわらないんですけど。本数は少なくなっていて、ひとつのページ数とか、求められているものとか、それは大きくなってるかも。1日3本、4本っていうのは、撮って渡すだけとか、そういう仕事なので。撮影の時間と、切り現テストと、本番と、時間を逆算してやるだけだったので。今はそれだとできない仕事も多くて。

――フリーになってからは、まさにフィルムからデジタルに変わっていった時代ですよね。

小澤―フリーになって少し経ってからですね。

――そのあたりの変化というのは。

小澤―最初はフィルムにこだわってました。

――そうなんだ。

小澤―デジタル使うのは遅かったと思います。はじめて買ったのが、ニコンD100で。

――雑誌とかで仕事する人としては遅かったのかな。

小澤―今ここでのらないと、という時期ですね。

――プロセスもかなり違いますよね。デジタルだと、撮ってフィルム渡して終わりっていうようなこともないでしょう? データ渡して終わりっていうのもあるのかな?

小澤―僕の場合は、データ持って帰りたいですね。見たいので。カメラ誌はデータをすぐ渡す仕事多いですよね。デジタルはフィルム回ってないとか、ストロボが飛んでないとか、そういう失敗がない、わかるじゃないですか。これはありがたかったですよね。当時、フリーになって何年目かだから。やっぱおそるおそるなところもあったし。光の作り方とか。自信持ってこれだ! という感覚じゃなかったですから。失敗がないようにとか、怯えながら撮っているような部分もあった。そういう面ではデジタルはありがたいですよね。すぐ結果が見えるので。

――今考えると、フィルムってこわいですよね(笑)

小澤―そうですね。

――でもデジタルになって、競争が激しくなったとか、そういうことはないですか?

小澤―ありますよ。1日何本もいただいていた会見の仕事とかは、編集の人やライターの人が撮っちゃってますし。逆に、僕はあんまりやってないけど、カメラマンでちょっとしたアイドルの会見のときに、言葉も拾っておいてと頼まれたりとか。

――フリーになってから、写真修行と称した海外取材はずっと行ってるんですか?

小澤―最初の頃はしてないですよ。お金もなかったし。2002年頃かな、内田ユキオさんと一緒にベトナムに行く機会があって、いい経験をさせてもらった。仕事じゃなくて、どこか撮りたいという話しになって、じゃ一緒に海外行きますかということになって、4、5泊の男ふたり旅をしたんです。ライカとフィルム持って。彼は187cmと、身長高いじゃないですか。ふたりで歩いてると笑われるんですよね(笑)。僕は師匠がグラビアの人だったので、それとは違った、内田さんの作家としての撮ってるスタイルを間近で見れたのが大きな経験になった。ここでこういうコミュニケーションするんだとか。内田さんも僕が撮っているのを見て、いろいろ話しをしてくれて。

――それからずっと行っているというのは、やはり、遠くに行きたいっていう気持ちが大きい?

小澤―何があるんだろうという。

――行き先の選び方とかは?

小澤―見たことがない場所、アフリカとか。うん、見たことのないものを見たいんじゃないかな。見てみたいものがいくつかあるんですよ。マチュ・ピチュとか。今はあんまり思ってないけど、モン・サン=ミシェル、すごく見たいなとか。今はそういうのでもないかな。もっとどこでもいいから、ふらっと行きたいというのもある。

――ふらっと行ってますよね(笑)。撮ってるのは、子どもが多いんですか?

小澤―いや、砂漠とかも撮ってますよ。はじめての個展、『世界で一番青い空』(キヤノンギャラリー 2009年)は子どもコーナーもあったけど、いろいろな被写体撮ってましたし。

――今は決めて撮ってるんですか?

小澤―決めて撮ることは少ないと思います。写真を作るときに、テーマを作ってそれに合わせて撮っていくタイプと、漠然と撮っていったもののなかから組むタイプがあるとすると、僕は後者なので。いろいろなものを、なりふりかまわず撮ってますね。

――学生のときに撮っていた星と日常とは、かなり違いますよね。

小澤―違うかな。雑食…?(笑) でも最初の個展のときも星の写真がありましたし、今回(『チビッコハウスへようこそ!』 キヤノンギャラリー 2011年)も出してますよ。ひとつのキーワードではあるんですよね。コザワらしさの証として、夜は撮りたいなというのがある。どこかに入れておきたい。

――星があるぞ、と。

小澤―星がある写真は、コザワっぽいね、と。

――影響というのかな、写真展とか写真集で意識して勉強したっていうのはないんですか?

小澤―ないです。意識してはないですね。高校生とか大学生のときに写真展をたくさん見た経験がないから、2009年の個展のときに、絶対的に見た数が足りないなと反省して、今見に行ってるんです。勉強というか、どういうパターンがあって、どう見えるかとか。自分の感覚としてどうなのか、チェックしに行こうという意識ですね。年に500本くらいの写真展は見に行くようにしています。これは勉強なのかどうかわからないですけど。

――去年は500本見たんですか?

小澤―550くらい見てます。2009年は、写真展が決まったのが2月末で7月開催だから、2月くらいから回ってますね。

――自分でやることになって見ると、写真展って全然違いますよね。

小澤―違いますね。違うし、自分が一回やったことがあると、空間の見せ方とかも違って見えますね。ただきれいだなっていうんじゃなくて。あと、写真展が間近になってくると、もっと違って見えてくる。それこそ、最後の1ヶ月、2ヶ月で見る写真展は、全部模試みたいな感じで、自分の写真展でこれをやるとどうかなとか、リアルに当てはめて見ちゃう。逆に流されちゃう気もするけど、やはり見ますね。

――東京はたくさん見る機会もあるけど、逆に見すぎちゃうってこともあるかな?

小澤―うーん。人によっては、流されるのを嫌って見ない人もいますよね。ダメな写真展は、ほとんど見ないで会場から出ちゃう写真家の人もいるけど、僕はダメだと思っても、何でダメなんだろうなと見ますね。けっきょく好き好きあるし、見ないで後悔するなら、見て後悔した方がいいなと。

――小澤さんが、仕事をやり、写真展もやり、というのはどうして?

小澤―定期的に写真展をやって挑戦していきたいし、仕事もバリバリしたい。海外に行くと、戻りたくないという人もいますが、僕は戻って依頼仕事を受けたくなる。変な話、旅の半分くらいをすぎると、仕事の夢を見るようになる(笑)。で、何ヶ月間かやってると、今度は海外に行きたくなってくる。それが自分にとっての、いい切り替えにもなっていると思います。カメラマンと写真家を分けたがる人もいるけど、僕は、カメラマンも写真家もバリバリやりたい。先生面したくないし、発注いただけるのはありがたい。撮ってることには変わりない。写真に関わってることには変わりない。どちらも好きなんですね。

――小澤さんの写真展会場内は、今回も撮影フリー?

小澤―だって、この間までフリーにしてたのに、今回ダメっていうのはいやらしいじゃないですか(笑)

――何で撮影フリーなんですか?

小澤―逆にみんなはなぜ禁止なんですかね? 複写されるから?

――わからない(笑)

小澤―複写されたら、僕もやりすぎですよ、って注意するでしょうけど。

――でも複写って絶対上手くできないですよね、会場では。

小澤―写真撮ってくれて、小澤の写真展見てきたってブログに書いてもいいんじゃないと思うんですよね。そこで芸術とは、ってやっても。海外の美術館でも写真撮れるところが多いわけですし。そんなに細かくいうことかな、という気が、僕はする。

――それを小澤さんが実践しているのはなぜ?

小澤―来てくれた人が記念写真撮って楽しいならいいんじゃないかなと思うんですよね。ほかにもいるでしょう、撮影オッケーな人は。

――あんまりいないんじゃないかな。

小澤―中井精也さんの『ほのかたび』(ペンタックスフォーラム 2010年)とか。

――確かに。ところで、写真家仲間では、誰が一番お友達なんですか?

小澤―鹿野貴司さんかな。

――鹿野さんはどこで知り合ったの?

小澤―北海道。ライバルだったんですよ。

――何の?

小澤―東川町でやってる、写真甲子園。

――え? 写真甲子園に出てたの?

小澤―じゃなくて、取材陣のライバル。

――そうだったんだ。

小澤―鹿野さんは『CAPA』で来ていて、僕は『月刊カメラマン』で。要はどっちがいい写真を撮るかとか、いいページを作るかとか。そういうところで切磋琢磨してたんです。

――戦友だ。

小澤―大変なイベントなんですよね、どこに何々高校がいるとか把握してないといけないし。あるところではスクープしたいし、あるところでは協力して。ちょっと特殊な取材なんですよね。それで何年間か現場で一緒に行っていて。2009年に写真展やるような時期から仲よくなった。僕と鹿野さんが写真展(『甦る五重塔 身延山久遠寺』 キヤノンギャラリー 2009年)やる時期が続いて。連絡とってる仲でもなかったので、はじめはキヤノンギャラリーでやるの知らなかったんですけど、鹿野さんのブログを見ていて気づいた。会った機会にその話をしたら、一緒じゃんということで、つるむようになったんです。写真展やるときって、写真家がひとりで決めてということが多いと思うんですが、あのときは、みんなで自然発生的に事前に集まって会を開いていたんですよね。僕と鹿野さんと土屋勝義さんと。勝手な集まりをやって、いろんな意見をいいあって。そのとき、僕、めちゃくちゃへこんだんですよ。家でしゃべれなくなるくらい。ダメ出しくらって。写真展やったときに、稜線連ねて展示するとかいう案もそのなかで出てきた。その会がなかったら、ここまでみんなと仲良くなってないだろうし、あの写真展もああいうかたちになってなかった。

――土屋さんはどういうつながり?

小澤―何だろうな。EOS学園の講師仲間ではあるけれど、最初はそんなに親しくなかったし。そこが土屋さんの変わっているところだと思います。不思議なんですよね。不思議と面倒見てくれて。たまに会っても他人行儀じゃないし。ちょっとしたことで電話しても、すごく丁寧に教えてくれるし。気軽に、お茶に誘ってくれたりして。心配してくれて「やるぞ」みたいな、声をかけてくれるのもありがたいから、やっぱり見せにいこうと。でも、あの会はしんどかった(笑)

――会を開くときというのは、要するに、勉強会みたいな感じ?

小澤―そのときはサミットって呼んでたんですよね。で、今でもメンバーが写真展やるときに、やるかという感じで開いている。土屋さんの近所のいきつけの料理屋の2階とかに個室をとって。広間があって。延々と話すんで、6時から終電とか。自分もさらけ出して、人の写真にも文句もいって。種清豊さんが写真展をやったときも集まりました。清水哲朗さんが遊びにきてくれたりとか。c?さんがゲストに来てくれたりとか。面白いです。

――キヤノンのEOS学園のお仕事はどのくらいやってるんでしたっけ?

小澤―4年目くらいかな。

――これはどういうきっかけで?

小澤―最初はどうかな、向いてないかなとも思ったんです。雑誌の仕事しかしてなかったし。人前で話なんかできないなと。写真撮る人のなかでは若い方だし、教えることなんてできないよって。だから話をいただいたときに、技量的に受けられないと思った。でも、いろんな人に相談したら、ある人が「とりあえずやってみて、ダメだったらやめればいい。せっかくのチャンスなんだから、やらない理由はない」といってくれて。そういう考え方もあるな、とりあえずやってみようかと。

――慣れました?

小澤―慣れましたけど、毎回違うので、発見がすごくありますね。今までやってきたやり方と差異を感じる。自分の教え方の問題なのか、生徒さんの年齢や技術の違いなのか。ズレがあるときに何でだろうと考えて、修正していって授業してます。

――何人くらいなんですか?

小澤―今は40人弱かな。エントリーは。エントリーを卒業すると教科書がないゼミみたいなクラスがあって。エントリーは教科書があって、絞りとかシャッターとか、そういう感じで。上は何もないので、もうちょっとゆるやかで。作品をつくっていくにはどうしたらいいのかとか。

――生徒さんから学ぶことも多い?

小澤―ありますよ。いっぱいありますね。

――具体的には。

小澤―去年生徒さんと写真展やったんですけど、その生徒さんっていうのはみんなレベルが上がってるんですよ。写真展を一回やるからか、それで作品作りに苦労するからか。どういう経験をすると、自分で水が流れるように考えるようになるのか。この間の12月かな、下の生徒さんが卒業して、上に合流したんですけど、はじめて上に入った生徒さんにどうやって話をしていこうとか。上のクラスの誰をモデルに話をすればいいのかとか。どういうふうに選んで、どういうふうに話せば、伝わりやすいのかなと。

――教えることで、考えていることが整理できるってありますよね。

小澤―自分がきちんと考えてないと、話が伝わらないですしね。

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8. コザワの日常生活


――話は飛びますが、どうしていつもパーカー着てるんですか?(笑)

小澤―確かに着てますね(笑)。楽でいいですよ。そういう質問ですか(笑)

――クローゼット開けると、全部パーカーだとか(笑)

小澤―それはない(笑)。でも、フード付きの服は好きです。シャツあまり持ってないんですよ。前ボタンの。

――かぶると安心するの?(笑)

小澤―このまま寝れるし(笑)

――そのまま寝てるの?

小澤―(笑)、シャツだとタイトだし。胸板ないから、開けてもね。だったらパーカーって感じで。いつもパーカーっていうイメージありますか?

――うん。いつも変わったデザインで。色とか。普通の日本人男性が着ないようなもの着てるでしょ。それで目立とうという魂胆なのかなと。

小澤―違います(笑)

――パーカー小澤ですみたいな。

小澤―違う(笑)

――じゃ、パーカー着てないときもあるの?

小澤―…あんまりないかな(笑)

――パーカー1枚で24時間生活してるんだ。

小澤―外用と中用は分けてるんですよ(笑)。コートもパーカー付だし、10着くらいはあるのかな。

――パーカー重ね着とかさ、もぞもぞするじゃないですか。

小澤―入れて一個にすればいいんですよ(笑)

――で、痩せてるのはどうしてですか?

小澤―貧乏だからです(笑)

――食べることに執着がないのかな。ずっとそういう体重なのかな。40kg前後の。でも今は走ってないんでしょう?

小澤―走ってないですね。

――食べるの面倒くさいの?

小澤―ちゃんと食べてますよ。朝昼晩食べる派ですし、食べないとイライラするし。でも、夜中のラーメンはしないし、焼き肉がどうとかもないし、家で晩酌もないし。そのせいかな。

――40歳すぎたらすごく太ったりして(笑)

小澤―あるかも(笑)、でもオヤジもオカンも太ってなかったから、このままかも。

――お母さんはお元気なのかな?

小澤―元気です。

――あんまり名古屋には帰らないの?

小澤―帰らないですね。

――名古屋帰る時間があったらどこかに行くと。

小澤―だめでしょう?

――いいんじゃないしょうか、若いし。野望はないんですか? 写真集出したいとか。

小澤―どうなんですかね、売れないじゃないですか。売れないものとか、人に求められてないものを作って、誰かが悲しい思いをするのは嫌なんですよね。

――自分自身も悲しいとかね(笑)。では、今のやり方を重ねていくって感じですかね。

小澤―また人生を変えるような、誰かがあらわれないかなと思って。

――船に乗らないか? とか(笑)

小澤―いや、ほんとに声をかけてくれる人がいたら、行ってもいいですよね。南極とか。半年間行かない? とか誘われたら行っちゃうんじゃないかな。

――冒険に行きたい気持ちをまだ持ってる。言ってると、そういうお誘いあるかもしれないですね。収入にはつながらないかもしれないけど。

小澤―面白かったら興味あるな。

――今の仕事やめてでも?

小澤―そうするしかないですよね。3年、火星にとか?(笑)