え・・えー・・・また説明しにくいものを・・・・
えー、なんか提出しちゃってもったいなくなったので再利用。
教養科目「異文化理解」の期末試験用にざかざか書いたものです。
勿論ポケモンとは全く関係なく、無論「小説」でもありません。
が、原稿用紙をいい加減捨てたくなったんですが
魂込めて書いたので他に載せる場所もなく、ちょっと修正してここにこっそり。
某T先生だけはシャマが誰か分かる仕様になっております・・世界で一人!
フランツ・ヨーゼフ時代のウィーンの芸術
フランツ・ヨーゼフ時代のウィーンの芸術は、大まかに3人の人物の3つの時代に分けられる。
すなわち、H・マカルト、G・クリムト、E・シーレの3人であり、
これには世紀転換期という時代が大きく関わっている。
まず、ハンス・マカルトは、19世紀後半と言う時代そのものを代表する画家である。
彼はマカルト様式と呼ばれる様式を確立した。
それは歴史的主題や寓意的内容を取り上げ、「マカルトの赤」と呼ばれる華麗な色彩を用い、
バロック的手法によって劇的な要素が盛り込まれたものであった。
つまり建築における歴史主義のようなもので、当時はウィーン万博に大作を出品したり、
皇帝夫妻の成婚25周年祝賀行列の総監督を務めたりと大人気であったが、
それは美しくも古臭く、彼の死後は瞬く間にその絵の価値はなくなってしまうのである。
マカルト監督の皇帝夫妻成婚25周年記念式典に協力した芸術家に、グスタフ・クリムトが居た。
彼は世紀転換期前半を代表する画家である。
マカルトがウィーン造形美術アカデミー教授に就任した頃、クリムトは「芸術家コンパニー」を設立する。
これの消滅後はウィーン分離派を結成、また機関紙「ヴェル・サクルム(聖なる春)」を発刊した。
これらが生み出そうとしたのは大衆に向けた芸術であり、
合理的・実用的で市民の価値観を追求すると言う精神にはオットー・ヴァーグナーとの共通性も見出せる。
「金色の時代」最盛期でさえ、その装飾性には伝統的な絵画には無い生活芸術、
時代に応じた表現の探求と言う姿勢が見られる。
勿論この態度は誰にでも受け入れられるものではなく、
ウィーン大学大講堂の天井画は大きな論争を巻き起こした。
この画はあまりに斬新過ぎて、保守派から激しい批難を浴びた。
けれどその中の「哲学」がパリ万博で金賞を受賞するなど、
彼の新しい感覚は世紀転換期という時代にあって確実に認められていたのである。
また、彼の活動の中でも忘れてはならないのが、分離派展への尽力である。
クリムトが描いた第1回分離派展のポスターは、保守派に立ち向かうことを暗示する挑戦的なものであった。
これが大成功を収めたことこそが、彼ら分離派の理念こそ大衆、
つまり時代の求めるところであると言う証明になったのである。
けれど時代は変わり、分離派の中でも工芸家と絵画重視派が反発するなどして、
クリムトが分離派から脱会した頃、また別の新しい感性が生まれていた。
それがエゴン・シーレという天才である。
彼はクリムトに多大な影響を受け、
初期は「銀色のクリムト」と呼ばれるほどであったが、それからは独自の様式を打ち立てた。
表現主義と呼ばれるそれは、例えば建築におけるアドルフ・ロースや音楽におけるアーノルド・シェーンベルクのように、
ユーゲントシュティールの装飾性さえなく、剥ぎ取って抉り出す、リアルで生々しいものである。
彼自身が最高傑作のひとつであるとした「死せる母」がその例である。
死の中の生、そこには強烈なまでの自己主張がある。
彼の自己意識は、彼にしつこく自画像を描かせた。
これがクリムトならば、自画像をわざわざ描かなくても、彼の絵の中どこにでも自分は居たのである。
他の例をとってみても、「枢機卿と尼僧」と「接吻」のように、
シーレの絵はクリムトのそれと構図が似ているものも多くある。
が、それらの絵から受ける印象は全く違う。
クリムトの絵のエロティシズムが(フロイトに言われるまでも無く)生への欲動、生きる喜びを表現しているのに対し、
シーレの(それがたとえ手足でも)無駄なものが一切こそぎ落とされた絵からは、
何か怯えのようなものと、それに対する(あるいはそれゆえの)強い意志を感じる。
まるで生きるのには覚悟が必要であるようだ。
この若い才能は、勿論批難もされたが世に認められ、ミュンヘンの芸術家集団「ゼマ」の一員になったり、
第49回分離派展ではメインを飾るなどの活躍をするのである。
けれどこの年、インフルエンザの流行により、
ヴァーグナー、クリムト、シーレといった世紀転換期を代表する芸術家たちが死去した。
ここで、歴史主義、ユーゲントシュティール、表現主義というウィーン分離派の消長に見られた
世紀転換期のウィーンの芸術は幕を閉じるのである。