■原発、今そこにある危機!原子力政策見直しで、日本の製造業の空洞化が始まる!(やぴぴの兄)

大震災から2週間が経過した。大震災の大津波で発生した福島第一原発事故はいまだ一進一退の復旧作業が続いている。ところでその事故であるが、今後の日本経済、安全保障面に重大な危機をもたらすことになりそうだ。正直原発というと、放射能汚染ばかりがクローズアップされるが、国家単位で考えると経済、安全保障面での問題の方がはるかに大きい。だからこそアメリカのスリーマイル島事故の全容は、いまだにアメリカの国家機密なのである。

1986年にチェルノブイリ原発事故が起こったあと、3年後にベルリンの壁が崩壊、その2年後にソ連が解体したことを考えると、もともと悪化していたソ連経済にチェルノブイリ原発事故がとどめを刺した可能性が高い。それだけ電力というのは国家経済の要なのだ。

今後の日本の原子力政策は福島第一原発事故によって、急ブレーキがかかる可能性が高い。原発推進派の地方議員は軒並み落選。原発の新設はおろか、今ある原発の存在すら危ぶまれる。原発は危険である。だからこそ地震に対する備えが必要なのだ。反原発派の人間は福島第一原発の事故ばかり問題にするが、今回の震災で無傷だった女川原発をスルーするのは片手落ちでないのか。

『原発、明暗分けた津波対策 女川は避難所に』

東日本大震災の被害では、同じ東北の太平洋沿岸に立地する東京電力の福島第1原発と東北電力の女川原発が明暗を分けた。福島第1原発が多くの住民を故郷から引き離した半面で、女川原発には壊滅的被害となった女川町民が避難所として身を寄せている。2つの原発の明暗が分かれたのは福島第1原発では想定された津波の高さが約5・6メートルだったのに対して女川原発は9・1メートルに設定した立地のわずかな違いだった。震災後の停電はなく、水の備蓄もあったため、女川原発は津波で壊滅的被害を受けた女川町民の救いの場所になった。原子炉等規制法で一般住民は許可なく原発敷地内には入れないが、人道上の配慮から開放され、最大で330人が事務建屋の別館と体育館に避難した。(産経新聞)

福島第一原発は日本の原子力政策の観点から、女川原発を参考につくり直すべきである。

電力の供給不足から、すでに老朽化している火力発電の再稼動が始まっている。火力発電は高騰し続ける石油を大量に消費し、現在問題になっている二酸化炭素を大量に排出する。そればかりか日本の電力供給能力を30年〜40年前に逆戻りさせる。企業経営者は前向きの事業計画を考えることはあっても、後ろ向きの事業計画を考えることはありえない。日本の経営者が日本で安定した電力の供給が得られないならば、中国に最新式の原発(もちろん日本人の税金で)をつくって、そこに日本の最先端の工場を移設。日本企業が中国を拠点にグローバル経済に打って出るということを考えても不思議ではない。

「それでもいいんですか?」という話である。このことこそが、今回の原発事故の真の危機なのである。


■債務残高の国際比較(フィリピン在住の日本人)

下の図は日本の財政問題を説明するときによく用いられる、財務省のサイトに掲載されているグラフである。日本、アメリカ、カナダ、イタリア、ドイツ、フランス、イギリスの先進7カ国(G7)の債務残高の対GDP比率を表している。


この図を見ると、確かに日本の債務残高比率だけが異常に突出し、95年の80%台から一貫して上がり続け、2009年には180%を超えていることが理解できる。この図を見せられれば誰でも「日本は一刻も早く財政再建に着手しなくてはいけない」と思うことだろう。

しかし、日本の債務残高比率だけが一貫して上昇しているのは、何も日本だけが債務残高を増加させ続けているのが原因ではない。他のG7各国も一貫して債務残高を増加させているのだ。しかし、不思議なことに、債務残高の国際比較をGoogleで検索しても、それを示すグラフは一向に見つからない。仕方が無いので、筆者が作成してみた。なお、用いたデータはIMFのWorld Economic Outlook Databaseである。

データは各国の債務残高を1989年を基点(100)として20年間のデータをプロットしたものだが、赤線で示した日本は確かに債務残高を一貫して増加させてはいるものの、他国と比較して特別に突出しているわけでもない。フランスやドイツの債務残高の増加割合は日本よりも高い。ではなぜ、財務省のグラフでは日本の債務残高だけが突出して見えたのだろうか?種明かしをすると、最初のグラフは債務残高の対名目GDP比を示したものだからである。日本を除く他国はこの20年間、一貫して名目GDPの成長を達成していたのに対し、日本だけが成長していなかったのだ。

次のグラフはG7の名目GDP成長を比較したものである。同じく1989年を基点(100)として、20年間のデータをプロットした。この20年間で日本を除く全てのG7加盟国が軒並み2倍から3倍のGDP成長を見せている中で、日本のグラフだけほぼ水平を這っている。なんたるざまだ・・・・・

またここで種明かしをすると、日本の名目GDPだけ成長していない原因はデフレにある。下のグラフは先進7カ国の1989年から2009年までのインフレ率を2000年を基準点(100)として示したものである。G7の中で、水色で示した日本だけがほぼ水平、いや、むしろ下落していることが確認できるだろう。

この20年間、日本、アメリカ、イギリス、イタリア、カナダ、ドイツ、フランスの先進7カ国(G7)の中で日本だけがデフレで停滞し、他の国々はインフレを伴った経済成長を達成していたのだ。よく、デフレの原因として中国からの安い製品の輸入を挙げる人たちがいるが、中国が原因ならば、日本を除く他のG7各国がインフレであったことの説明がつかない。つまり、この20年間のデフレは日本固有の問題なのだ。そして、このデフレこそが日本の債務残高の対GDP比を突出させた元凶だったのである。

債務が長期的に見て持続可能であるか、それとも財政破綻するかは債務の(名目)利子率と名目GDPの成長率で決まる。なぜなら、債務(国債)は利子返済ができている限りにおいては破綻しないし、利子返済ができるかどうかは歳入によって左右されるからだ。そして歳入(税収)は名目GDPに比例して増加するので、名目GDPの成長率が利子率よりも大きければ破綻しえないのである(ドーマーの命題)。

財政問題の議論では、すぐに「増税」と「緊縮財政」により歳入を増やし、歳出を減らすことが解決策だと説明される。しかし、以上の議論により、それが全くのデタラメであることが示されただろう。デフレ不況下の日本で増税・緊縮財政などやれば、経済はますます縮小し、デフレはより深刻化、名目GDPがマイナス成長すれば増税を持ってしても国債の利子返済が可能な歳入が得られなくなり、本当の財政破綻へと突き進むことになることは目に見えている。財政再建のために日本が一刻も早くやらなくてはいけないことは、まず、デフレの克服である。デフレを克服しない限り、名目GDPの成長は達成されない。そしてそれは、日本銀行によるインフレ目標を伴った金融緩和(リフレ政策)なしには達成されないのだ。

■日本語と日本のメディア(三橋貴明)

大石氏の著書『国土学再考』で最も印象に残っているのは、公共投資の重要性の件もさることながら、日本文明を「自然災害史観」と名づけ、大陸(欧州や中国)とは言語の意義からして、全く異なる文明として位置づけている部分である。大石氏は欧州や中国などのユーラシア各国の文明を、「紛争死史観」と定義している。紛争死史観とは、欧州や中国では数百年、数十年、時には数年ごとに「住民が皆殺しにされる規模」の大量殺戮が発生し、街や言語がそれに対応し進化してきたことを意味している。

例えば、欧州の都市は、その多くが分厚い城壁に囲まれている。それに対し、日本は「城下町」という言葉の通り、城を囲むように市街地が発展した。街と「外」との境界は、それほど明確ではないのである。欧州は異民族や、時には同じ言語を共有する人々が、兵士の集団として押し寄せ、街の住民は協力してそれに対しなければならなかった。結果、街を城壁で囲むとともに、住民たちはそれぞれが「兵士」として、襲来者と戦わなければならなかったのである。そのため、欧州の言葉は単語やフレーズの「定義」が明確で、誰もが誤解なく理解できるように進化した。誰かが命令文の解釈を誤った結果、街の住民が危険な目に会う可能性すらあった以上、言語もそれに基づき発展せざるを得なかったわけである。

それに対し、「異民族襲来と虐殺」という歴史を持たない日本では、言葉が「各単語の意味や定義が幅広い」スタイルで、自由気ままに発展していった。異音同義語が極端に多い(英語の「I」の日本語訳の数を数えて欲しい)上に、単語の意味がそれほど厳密に定められているわけではない。読む人や聞く人により、様々な解釈が可能なのだ。その言語的曖昧性故に、日本では恐ろしいほどに懐が深く、普遍色が強い独自の文化が発展したのだ。現在の日本文化が、世界の様々な国々で広く受け入れられ、楽しまれているのは、この日本語が元々内包する力が極めて大きいと考える。

しかし、この「定義が曖昧」な日本語は、二つの点で困った問題を引き起こす。一つ目は、契約書や法律など、「誰もが同じ解釈をしなければならない」文書であっても、人により解釈が異なってしまうという点である。何しろ、国の根幹たる法律である「憲法」でさえ、解釈論争が発生してしまうくらいである。二つ目は、定義が曖昧故に、センセーショナルな「見出し」の影響が大きくなってしまう点である。たとえば「財政破綻」という言葉が典型だが、新聞の見出しなどで、「日本政府の財政破綻、秒読み段階に!」などと書かれると、普通の人は怯えるだろう。その際に「財政破綻」の定義は何なのか、「秒読み段階」とは具体的にどれほどの期間なのかなどは、読む人は特に深くは考えない。それぞれが「財政破綻」や「秒読み段階」などの言葉がもたらす印象に基づき、意味を勝手に解釈してしまうのである。結果、各個人が事実についてイメージに基づいた理解を重ね、情報が曖昧なまま流布してしまう。

メディアがセンセーショナリズムを求めるのは、確かに世界的な傾向だ。しかし、日本の場合は、新聞を読む層の割合が(欧米などと比べて)元々多いことに加え、日本語特有の曖昧性という問題もある。印象論に基づいたミスリードが、相対的に行いやすい環境にある可能性が高いのである。


■アメリカの同時多発テロ事件が切り開いた21世紀の新たなる潮流(やぴぴの兄)

アメリカの同時多発テロ事件から5年になる。この事件は近いところでは「ベルリンの壁崩壊」「ソ連解体」に匹敵する世界史の転換点である。当然ながらこの5年の間に様々な専門家、識者による検証が行われてきた。ここはひとつやぴぴの兄も加わって専門家にはない視点でこの事件を大いに検証してみたい。

まずこの事件を語る前に、人類の有史以来ずっと続けてきた「戦争」について語らなくてはいけない。それは何かと言うと人間がだんだんと戦争を嫌がるようになってきたということだ。21世紀に入ってからも相変わらず世界の各地で戦争が続いている。しかしそれは戦争と言うよりも、紛争と形容した方がいいいような小規模なものばかりである。かつての第一次、第二次世界大戦のようなスケールの大きな戦争はめっきり減った。おそらくそのような戦争はベトナム戦争あたりが最後ではないだろうか。

日本も戦争をやらなくなって60年になる。ヨーロッパも近年ではユーゴスラビアの民族紛争があったぐらいで、いたって平穏である。今フランスとイギリスの間で戦争になるだろうか。今ドイツ軍がポーランドに侵攻するだろうか。かつては当たり前のように行われてきたこのような戦争も、現在では、ほとんど起こる可能性がなくなってきている。1990年前後にソ連、東欧で起こった革命も無血革命であった。ルーマニアでチャウシェスク大統領が殺されたぐらいなものである。戦争大好きのアメリカもだんだんと戦争がやりにくくなってきている。戦争が長引いて、自国民に大量の死者が出れば、大統領の支持率が急落して、政治的求心力を失ってしまうからだ。

今戦争を熱心にやっている国は、世界の警察を自認するアメリカとその子分であるイスラエル、そして各々の後進国ぐらいなものである。そのうちアメリカは白兵戦をやめて、遠隔操作によるロボット戦に切り換えようとしている。あれほど世界をまたにかけて戦争をし、人を殺しまくってきた人類がなぜ今頃になって戦争を嫌がるようになってきたのだろうか。

ひとつは生活が向上して、3K(きつい、汚い、危険)なことをやりたがらなくなってきたというのがある。10年以上前に日本の若者が3K仕事をやりたがらなくなったことが問題視されたが、この傾向は日本に限らず世界的なものである。ある程度生活が満たされれば、しんどいことはやりたくない。楽をしたい。特に戦争なんかは3Kの最もたるもの。誰も好き好んでやりたくない(軍事マニアはのぞく)。よほどのハングリー精神がないと務まらない。アメリカの海兵隊も貧しい階層の出身者ばかりだという。

もうひとつは戦争が映像によって記録されるようになったことも大きい。昔は戦争体験のない人間が戦争を知るには口伝えしかなかった。当然それは「英雄談」「武勇伝」となって語られ、美化された戦争がインプットされ続けてきたのである。しかし20世紀に入ると映像技術が発達してありのままの戦争が記録されることになった。当然戦争を体験をしたことのない人間も、戦争の実態がどういうものか、ありのままを知ることができる。あれを見て戦争をやりたいと目をギラつかせる人は少数(軍事マニアだけ)だろう。

人類が長い間続けてきた戦争が、生活水準の高い先進国を中心に縮小傾向にある。これは事実である。ならばそういった流れの中で起こったアメリカの同時多発テロ事件はいったいどういう位置づけになるのであろうか。今度は視点をぐるりと変えて治安を担う「警察」について考えてみたい。

アメリカの同時多発テロ事件が起こったあと、しばらくして、日本では北朝鮮による拉致事件が明るみになった。これを日本の歴史的転換点として「日本の911」と呼ぶ人もいる。しかしこの問題が発覚して4年もなるのにいまだに解決していない。なぜだろう。このことをみな不思議に思わないのだろうか。もしやぴぴの兄が北朝鮮と同じような犯罪を犯せばどうなるか。少女を拉致し、国外へ連れ去り、偽札を作り、麻薬を密売する。おそらくそれぞれが重大犯罪であることから警察に捕まって死刑になるはずである。

しかし北朝鮮の拉致事件で、誰かが捕まったり、死刑になったという話を聞いたことがない。いやそれどころか被害者の生死や事件の全貌すらわからないのである。国内の事件でこんなことはあり得ない。なぜなら110番すれば警察が来て、事件の解決にあたってくれるからである。しかしこれがひとたび国交のない外国が絡む事件になると、国内の警察では対応しきれない。ではどうすればいいのか。実はどうすることもできないのである。なぜなら日本の国内には警察がいても、世界には警察がいないからである。110番しても誰も来てくれない。いや110番すらないのである。

世界には一応国連という組織がある。見た目は世界の平和を守る警察のように見えるが実態は違う。なぜなら何の力もないからである。警察の役割を担うなら強制力を伴った暴力が不可欠だ。日本の警察でも、犯人に対して警棒をふるい、手錠をかけ、いざとなったら発砲する。しかしそんなことのできる組織は世界にはない。その証拠に拉致事件の首謀者である金正日がいまだに逮捕されていない。国連は強制力を伴わない口先だけの組織である。国連とは別にアメリカが世界警察みたいなことをやっているが、あれは自国の利害だけで動いているので、到底警察とは呼べない。強いて言うなら暴力団である。日本の国内に例えれば、日本の治安を山口組が仕切っているようなものなのだ。

しかし、そうは言いつつも世界の平和を守る警察がそろそろ必要になってきているのではないか、ということにみな気づき始めている。しかしいざ作ろうと思うとこれがなかなか難しい。なぜなら世界各国の利害が一致しないからである。例えば中東にイスラエルという乱暴者がいる。治安を乱して周囲に大変な迷惑をかけている。しかし親分であるアメリカは子分のイスラエルを特別扱いして、暴力行為を放任している。アラブはそれに対して暴力で応酬する。ヨーロッパ、ロシアは両者とは距離を置いておいしい部分だけをかすめ盗ろうとする。これでは公共の利益を守る警察などできっこないのである。

世界警察をつくろうと思ったら世界の利害が一致しないと駄目だ。一番手っ取り早いのは、地球に宇宙人が攻めてくることだ。これなら世界の利害が一致するし、団結もできる。しかし地球に宇宙人が攻めてくることはそうそうありえない。ではどうすればいいだろうか。

日本もかつては現代の世界のように国がバラバラだった。そして国同士で戦争を繰り返していた。戦国時代がそのいい例だ。それが明治以降統一され、警察が誕生し、世界に冠たる平和な国になった。このような日本の過程を踏めば、世界にも警察が生まれ、世界平和が実現するのではないかと思う。ではなぜバラバラだった日本が国を統一できたのであろうか。それは欧米に侵略されるかもしれないという危機があったからである。

欧米という敵がいて、初めて日本は国を統一できた、警察ができた、平和になった。ならば世界も人類共通の敵を作る必要がある。それは誰が良いか。宇宙人は来ない。ミュータントも現れない。いや待てよ。自爆テロによって、何の罪もない人々を大勢殺しまくった尋常ならざる異常な集団がいる。テロリスト。そうだテロリストだ!テロリストを人類共通の敵として、いやスケープゴードにして、世界を統一し、世界警察をつくれば、世界平和が実現するかもしれない。実際そう考えて動いている人間もいる。

ここで先の「人間が戦争を嫌がるようになってきている」ことと結びついていてくる。世界警察が実現しない限り、世界は暴力が支配する無法地帯である。そんな状況下で身の安全を守ろうと思ったら、自分の身は自分で守らなくてはいけない。すなわち国防である。現在日本でも国防をしっかりしようという気運が高まってきているのは、こういった現実があるためだ。しかし自分の身を自分で守るには3K(きつい、汚い、危険)である戦争をしなくてはいけない。それはもう嫌だ。そこで国防をしなくても身の安全が保障される「世界警察」の待望につながるわけだ。

アメリカの同時多発テロ事件が世界史の転換点となった。それは、ひとつには人類有史以来初めて人類共通の敵が現れたことであり、もうひとつは人類有史以来実現不可能とされてきた世界警察誕生の布石をつくったところにあると断言できる。


■「150人」がちょうどいい(柴田文隆)

あなたの携帯には、何人の電話番号が登録されているだろうか。相手の顔を思い浮かべることができて、これからも電話をかける関係だ、と思える人の数は、100〜200人くらいだと言われている。

英国の人類学者R・ダンバーは、様々な共同体、軍隊、企業、宗教組織などの集団の大きさを調べた。その結果、目的を共有し、心を通わせながら一体となって活動するユニット(軍隊の中隊、企業の機能単位、1教会の信徒数など)の規模は、ほとんど100〜200人の範囲で、その平均は150人だった。軍隊は、互いに命を預け合う究極の運命共同体だが、中核をなす行動単位である中隊の規模は洋の東西、時代を超えて150人ほどだった。古代ローマ軍の歩兵中隊は120〜130人。第2次大戦時の各国軍も、130〜220人とほとんど変わっていなかった。この結果、ダンバーは、機能集団の維持にはメンバー間の直接的、個人的つながりが不可欠で、その最適規模が「150人」なのではないかと考えた。この数字には、どんな意味が隠れているのだろう。

チンパンジーやゴリラ、人間などの霊長類では、脳(大脳新皮質)の大きさと、共同生活を送る群れの大きさの間に比例関係があることがわかっている。人間の脳から推定される社会集団の規模を算定すると、やはり150人となる。人間は脳を巨大化させることで言語を獲得し、道具を使いこなし、複雑な人間関係を処理できるように進化してきた。人間の脳は、150人くらいの集団で暮らすのに最適化しているということができる。人間は相手の心の中を読み取り、人間関係を良好に築こうと心を砕く社会的動物だ。人間が3人いる場合の関係は、AとB、AとC、BとCの三つと単純だが、30人の集団では435の多角関係になる。規模は10倍だが、関係は150倍になる。これが150人の集団になると、関係は1万1175通り。人間はこの複雑な関係に配慮しながら、共同生活を維持していく能力を備えているのだ。

「150人」という数字は、さらに驚くべきところにも顔を出す。

今や66億まで増えた人類だが、直接の祖先となった集団は約150人だったことが、最新の遺伝子解析でわかったのだ。約7万年前にアフリカを出た小さな集団は、未知の環境に適応し、世界の隅々まで勢力を広げていった。この祖先集団が数十人の小ささだったら、厳しい自然というミキサーにすりつぶされ、消滅していただろう。200人より多かったら、派閥抗争が起こって分裂し、共倒れで全滅していたかもしれない。私たちの祖先は、絶妙のスタートを切ったのだった。


■「数学者の無神論」評(福岡伸一)

ある著名なアメリカの科学者が書いたSF小説に次のような名シーンがある。3.14・・・と円周率を無限に計算していくと、ある時点で1と0しか出現しなくなる箇所がある。コンピューターがはじき出す数列は、ディスプレー上に1と0を無機的に並べていく。ぼんやり眺めていた主人公の眼は突然、釘付けになった。画面上の1を背景に、0が作り出した図形が浮かびあがったからだ。それは正確に円の形をしていた・・・。

この場面が意図するものは明らかだ。自然の中に神は自らの存在を示すメッセージを密かに仕組んでいる。彼ほどの科学者であっても、見えざる力へのナイーブな接近があることを知り、私は興ざめした。それを禁じてこそ科学者ではないのか。その点、本書の著者はそうした誘惑を拒絶する姿勢を終始堅持している。

この世界は、単なる偶然から生まれたにしてはあまりに複雑で完璧だ。これは何らかの造物主のなせるわざとするしかない。ゆえに造物主たる神は存在する。この論理は正しいだろうか?答えは否である。

9月11日は1年の第254日目である。2、5、4の和は11となり、9、1、1の和も11。9月11日以降の1年の残り日数は111日。倒壊した世界貿易センタービルの2棟は11に見え、衝突した最初の旅客機は11便だった。テロに関連するNew York City, Afghanistan, The Pentagonの3語はすべて11文字。この特筆すべき符号には何か意味があるのだろうか?答えは否である。

単なる偶然に特別な意味を付与したい。これは私たちの脳の性向である。進化の過程で獲得した優れたパターン抽出能力は、同時に私たちの足元をすくう認識の陥穽にもなりうる。


■「DNAでたどる日本人10万年の旅」評(福岡伸一)

およそ10万年前、アフリカの洞窟でその書物は生まれ、時を隔てて写本が作られた。写本はよその土地へ運ばれ、行く先々で別の写本が生まれた。写本は全世界に散らばって今に至る。写本と写本を比べその細かな差異を調べると、写本の系譜が判明し、それらがいつどの枝から分岐したのかがわかる。

私がここで写本といっているのは、男が運ぶY染色体のことである。母系で受け継がれるミトコンドリアの解析は、人類すべての祖先がアフリカで生まれたひとりのイブであることを明らかにした。一方、Y染色体の多型解析は、その後の人類の軌跡を鮮やかに照らしだした。これまでの常識はことごとく塗り変えられた。

イブの子孫たちは、三回にわたって出アフリカを果たし、ヨーロッパ、インド、アジア、そして北米、南米へと移動した。その途上、あるものたちはそこに留まり、あるものたちはさらに進んだ。後から来たものたちとの間で諍いが生じた。アフリカに留まったものたちを含め、現在、人類のY染色体の写本は、18のタイプに分類される。世界の各地域ごとに多型解析をすると、このうちどの系統が優勢かによって、出アフリカ何回目のどの枝の子孫かが判明する。いわゆる白色人種、有色人種といった分類は決定的な誤りであり、その内部の多様性こそに意味がある。

もっとも興味深いのは日本人の解析である。DNAから見ると、出アフリカを果たした三つの系統が流れ流れて分岐したあと、もう一度落ち合った特別な場所として日本列島が現れる。日本こそが「人種」のるつぼなのだ。


■みんな虫のせい〜戦国時代の医書復刻(渡辺達治)

「かんの虫に効く」「虫の居所が悪い」・・・。そんな表現が示すように、日本人は古来、病などを引き起こす虫の姿を想像してきた。それらの虫のカラーイラストと退治法などを記した戦国時代の古医書『針聞書』が近く、復刻出版される。

16世紀半ば、現大阪府茨木市付近に住んでいた針の今新流開祖、茨木元行が編さんした書物で、縦24センチ、横21センチ、約140ページ。類例のない奇書で、医療史の資料としても貴重だが、近年まで存在が知られず、2003年に古書市場で発見され、以降研究員らの手で読解が進められた。当時、いると信じられていた63種類の虫について、イラストを添え、関連の病、その治療法を述べている。

ぎっくり腰を起こすという虫は、胴長のトンボのような姿で、飛来して体に侵入し、背骨に巻き付いてとげで刺す、とある。甘草などを服用すれば治ると書いてある。「肺積」という虫は、人面が付いた小さな雲の形をし、胸の中で肥大化して気分を憂鬱にする。針が効くという。このほか、大酒飲みの原因となるきんちゃく形の虫や高熱を出させる赤いヘビのような虫も出てくる。

これらは、戦国期の人々の想像力と、寄生虫や遺体ににつく虫のイメージなどが重なり合い、生み出されたと考えられる。研究員は「虫の仕業として、病の状態を具体的につかみ、治療したことがわかる。中国伝来の針治療などが、近世日本で独自の発展を遂げたが、これはその源流にあたる」と説明する。

この書物に現れている感性は、虫歯予防ポスターで歯を砕く悪魔が描かれる現代日本にも通じる部分がありそうだ。


■大阪の潜在力(片山善博)

筆者が鳥取県知事を務めていた頃、鳥取から大阪を見ていてなんとも歯がゆく、時にはいらだちを覚えることさえあった。

大阪はなんといっても西日本の中心である。山陰に限らず北陸でも四国でもそうだが、農産物の最大の市場は大阪である。また、観光客の多くも東京からではなく、大阪をはじめとした関西圏からである。これらの地域の人たちは常に大阪に関心を持ち、その動向に注意を払っている。

ところが、その関心や注意は一方通行でしかない。特に、大阪の政治・行政に携わる人たちの周辺地域に対する関心は極端に低い。このことは、これらの地域にとって切ないことではあるが、それ以上に大阪にとっても実にもったいない。その関心の薄さが、大阪自身の潜在能力を押し殺しているからである。

例えば、交通体系を東京圏と比較すると大阪のウイークポイントがよく理解できる。東京圏は東京を中心に高速道路が四通八達している。全て東京を起点に、東京の関心に従って整備されている。

一方大阪はどうか。例えば、鳥取県の県庁所在都市である鳥取市から高速道路で直接大阪へ行くことはできない。現在鳥取市から兵庫県の佐用までの区間を工事中である。数年前の高速道路の見直しの際、この工事が途中やめになる可能性があったため、大阪府や大阪市に力添えを頼んだことがある。しかし、田舎の高速道路には殆ど関心を持たないようだった。この道路の目的が「大阪に少しでも早く到達すること」にあり、大阪の後背地が実質的に拡大することにつながるにもかかわらず、である。

大阪の関心が大阪の区域内に終始するのであれば、所詮その力は知れている。大阪府にしても大阪市にしても小さな面積でしかないからだ。東京都も区域でいえば小さな自治体であるが、関東近県はもとより東北、東海、信越など周辺の広大な区域とその人口を引き付け、それを自らの「栄養」にして肥え太っている。大阪になぞらえれば当然山陰や北陸、四国が「栄養源」だが、大阪は未だこれらの地域を引きつけるに至っていない。

大阪も近畿圏の自治体とは定期的に会合を開くなど、連携を取ろうとしている。しかし、傍らから見ていると、その中で大阪がトップリーダーとして振る舞っているようにはとても見えない。むしろ、神戸や京都との綱引きや牽制の方が目につくようだ。

大阪はこの点でも連携の枠組みを拡大した方が賢明だろう。ここで「遠交近政策」を大阪に説けば、近隣大都市との間に波風を立てることになるから敢えて持ち出すまい。ただ、大きい星ほど中心に向かう重力が大きくなるのと同じように、大阪が関心と連携の対象を拡大すれば、それだけ大阪に向かうエネルギーは増幅する。

ともあれ、大阪は自ら押し殺している潜在能力があまりにも多い。今後は視野の広いリーダーシップを発揮してもらいたい。


■出土した「豚の骨」からわかる、ヒトの進化(岡本公樹)

縄文時代160センチ、弥生時代163センチ、江戸時代155センチ、現代の17歳170・9センチ。

江戸時代以前の時代別の男性平均身長は、弥生時代だけずぬけて高い。その理由を西本教授の研究室にずらりと並ぶ弥生豚の骨たちが教えてくれる。縄文時代の家畜は犬だけだったが、弥生時代になって、水田の稲作とともに初めて豚が大陸からやってきた。豊富なたんぱく質を摂取できるようになり、日本人の平均身長がぐんと伸びた。

しかし、奈良時代の8世紀になって、殺生を戒める仏教を篤く信仰した聖武天皇の命令で、豚は野に放たれた。以降、日本人の食卓から、豚などの獣肉メニューが消えていった。それに伴い、日本人の背は再び低くなった。豚が野生化してイノシシへと戻ってから約1200年。日本人はようやく弥生時代の身長を追い抜いたのだ。

実は20年ほど前まで、弥生時代の遺跡から出土した豚の骨は野生のイノシシだと考えられてきた。鼻が長く、一見すると現代のイノシシに似ているからだ。しかし、縄文人が獲物としたイノシシとシカの比率は半々なのに、弥生時代にはイノシシが8対2と、圧倒的に多くなる。西本教授は、この不自然さに注目した。

豚とイノシシを区別するポイントは、後頭部が丸い点や下あごの骨の厚さなど。しかし、その差は微妙だ。見極める目を養うため、3年間、イノシシ解体業者のもとに通い詰めた。こうして1989年、大分市の下郡桑苗遺跡で出土した三つのイノシシとみられる頭骨を分析し、豚であると識別することに成功した。弥生時代に豚はいなかったという定説が覆されたのだ。発表後は鑑定依頼が相次ぎ、家畜化された豚が全国に浸透していた実態が浮かび上がった。

一方、豚がいなくなった後の日本についてはこう説明できる。江戸時代の絵にある日本人はみな小顔で出っ歯である。これも動物性たんぱく質をあまり食べなくなったことで、顔とアゴが小さくなり、歯が出てきた結果なのである。豚がいるか、いないかで、人間の顔の形までが変わってしまう。動物が文化や歴史へいかに影響を与えてきたのかを探る動物考古学ならではの興味深い結論だ。


■テレビ番組と専門家(神里達博)

関西テレビの「発掘!あるある大事典U」による「納豆ダイエット事件」を契機に、テレビというメディアのあり方に対する議論が盛んになった。そこでは番組制作を取り巻く様々な問題が指摘されている。だが、製作に協力してきた「専門家」のことも、忘れるべきではない。見方を変えれば、それこそが問題の本質かもしれないからだ。

日本学術会議は、近年の科学者の不正行為多発を受けて、昨年「科学者の行動規範」を策定した。今回の問題に対しても、テレビ番組における「実験」も科学の活動の一つととらえ、科学者の倫理的規範を順守すべきとの会長談話を出した。これは表面上は、科学の職能集団からメディアへのメッセージである。だが、この種の番組が科学者や医師などの「専門家」の協力の上に成立していることを考えると、メディアに登場する専門家への「注意喚起」の意味もあるはずだ。少なくとも、テレビ番組において「専門家」としてコメントすることに、一定の社会的責任を伴うのは至極当然だ。だからといって専門家が「君子、危うきに近寄らず」的な態度を取ることは、問題の解決につながらない。それは結果的に適切でない「専門家」の登場を許すことになるからだ。

ここで指摘したいのは、売名や個人的利益の追求を狙うような「インチキ専門家」のことだけではない。何も悪意がない場合でも、問題となりうる。それはなぜか。

現代は、あらゆる学術の専門分化が著しく、真っ当な「専門家」であっても、少し分野が異なると急速に理解が困難になるという現象が起こっている。いわゆる「タコツボ化」の問題だ。一方で、メディアが適切な専門家を探すにも、時間と知識が必要だ。しかし、低予算で視聴率競争に追われる製作現場では、そのような余裕は少ないだろう。もっと言えば、逆説的だが、その専門性の微妙な差異は、当該分野の専門家でないと本来は分からないのだ。

その結果、「専門家の使い回し」が多発する。メディアに登場する人物の正当性は、メディアへの露出度そのもので担保されるという、循環論法に陥るのだ。もし適切な専門家が、今回の事件を「教訓」にメディアと距離を取るようになれば、この傾向は更に加速され、悪貨が良貨を駆逐してしまうだろう。


■男のコレクション、女のコレクション(竹熊健太郎)

世間的にも「コレクター」というと、やはり「男がやるもの」のイメージが強いのではないだろうか。確かに人生のすべてを賭けるような、気合いの入ったコレクションを築くのは男性が多い。では、女にコレクターはいないのか。そんなことはない。お気に入りの小物を集めたり、可愛い洋服を集めたり、素敵なティーカップやヌイグルミを集めている女性は現実に多いではないか。古い例で恐縮だが、70年代前半のアイドル女優だった岡崎友紀はスヌーピーの大ファンで、キャラクターグッズを部屋一杯に集めていたし、黒柳徹子は40年来のパンダ・フリークであり、パンダのぬいぐるみやパンダ絵の入った小物を集めているという。一般的に男性は古本やソフビ怪獣、萌えフィギュアは集めても、洋服や素敵なティーカップを集める人は少ない。まあ俺の知る限りでは皆無だ。女性がコレクションとして好む分野と男性が好む分野には、ジャンルの違いがあるのは確かである。

しかし言いたいのは、「集める対象」の差異についてではない。どちらかといえば「集める行為」そのもの、その行動パターンにこそ、男と女には容易に通じ合えぬ、根源的な違いがあるのだと考えている。これはけっこう説明が難しい部分だ。抽象的になるが、こういう言い方はどうか。女のコレクションが「自分の好きなモノ」だけを集めるのに対して、男のコレクションは「世界」を、あるいは「宇宙」を集める行為だと言えるかもしれないのだと。そのために男は、あえて「好きでないモノ」でさえ集めることもあるのだと。「世界」「宇宙」を集めるとはどういう意味なのか?それに「好きなモノ」を集めることはコレクターとして当然ではないか?反対に「好きでないモノ」を集めるコレクターなど、存在するのかという疑問もあろう。以上を説明することは、大変難しいのだが、重要なポイントなので避けるわけにはいかない。

たとえばコレクションの王様と呼ばれる「切手収集」を考えてみよう。俺の子供の頃は少年雑誌に必ず切手コーナーがあって、すさまじいブームであった。切手には長大な歴史があり、圧倒的に豊富なバリエーションがある。値段も高価なものから額面通りに買える手頃なものまで揃っていて、奥が深いと同時に子供にも手が出しやすい手頃なコレクションであった。切手には「通常切手」と「記念切手」がある。通常切手はもちろん葉書や封書を出す時に貼るもので、一方の記念切手も通常切手と同様に使うこともできるが、普通は「コレクション用」として扱われることが多い。世界の国の中には、外貨目的で他国に向けて記念切手を発行している小国もある。そして記念切手はたいていの場合、「シリーズ」として何枚組かで発行される。コレクターの心理として、できればシリーズを全部揃えたいという衝動に駆られるのが普通だ。「完揃え=コンプリート」の誘惑である。記念切手に限らず、食玩など、もとから「シリーズ」で発売されることが多いものは、マニアのコンプリート欲を刺激するため、わざとそうしていたりするわけである。この「コンプリート欲」は男性に多く、女性にはあまり見られないと思うのだが、どうだろうか。

俺もかつて60年代末の「少年マガジン」バックナンバーを集めていたときには、ある年のある号だけがどうしても見つからず、都内の古本屋をほぼ踏破したことがあった。しかも、その内容が特に読みたかったわけではないのだ。背表紙をズラリと並べたときに、その号だけ欠けているのが「気持ち悪かった」からである。もはや理屈も何もない。どんなにカネや時間がかかろうとも、「それ」を集めずにはいられないのだ。当時は、寝ても覚めてもその号のことだけを考えていた。内容は「どうでもいい」のに、である。これが俺が言う「好きでないモノでも集める」ということである。より正確に言うなら、当時の「マガジン」はもちろん「好き」なのだが、「欠落を埋める=コンプリートする」ことに頭が完全に支配されてしまい、「中身」のほうはもうどうでもよくなっているということである。

パンダマニアの女性がいたとして、本当に「パンダならなんでも」集める女性がどのくらいいるのだろうか。多くのパンダグッズの中には、正直「可愛くない」ものもあるのではないか。それでも「欲しい」女性がどのくらいいるものなのか、俺にはよくわからない。男コレクターの場合、「それなくしてコンプリートできない」となったら、可愛かろうがそうでなかろうが、個人的な興味などどうでもよくなるはずだ。「コンプリートすることで、世界を完成させる」ことが、より重要な目的になるからである。俺がコレクションを考えるうえで、「世界」「宇宙」という言葉を使ったのはこういう意味においてである。男にとってコレクションとは、コンプリートすることで「体系」を完成させる、要するに「世界」なり「宇宙」を完成させることではないかと思うのだ。彼はコレクションすることで壮大な観念のジグソー・パズルを完成させようとしているのである。女性にそういう人がまったくいないとまでは言わないが、少ないことは確かだと思う。多くの女性にとってのコレクションは、どこまでも「好きなモノ」を自分の手元に寄せる行為だと思うからである。

一方、集めることによって「世界の模型」を作らざるをえない「男」に対して、俺はある種の「哀しみ」を感じざるをえないのだ。これは個人的な仮説なのだが、男にとってのコレクションとは、「子供を産むことができない」ことへの「代償行為」ではないかとさえ思うのである。女は子供を産む、即ち一個の生命を自らの体内に形成することができる。男は子作りに「協力」することはできても、自ら生命を生み出すことはできない。そこでその替わりとして「コレクション」があるのではないか。コレクションとは、本質的に欠けた機能を、モノによって補完する行為なのではないか。しかしモノはどこまで集めてもモノなのであり、生命がそこから誕生するわけではない。これが男にとっての本質的な「哀しみ」でなくしてなんであろう。

女のコレクターは、好きなモノに囲まれて幸せそうだ。一方、俺が男のコレクターに感じるのはただ「業」の深さであり、おのが因果を見つめての「嘆き節」である。俺は以前、ブックコレクターとしても著名な荒俣弘氏にはじめてお会いしたとき、会話の中で氏が何度も「なんで本なんかを集めてしまったんだろう・・・」と嘆いていたことを思い出す。「20〜30年代のアメリカのパルプマガジンなんか、積み上げれば数メートルに達するくらい集めたんですけどね。あるときアメリカの古書店に発注して、丁寧にパックされたものが届いたんですが、ビニールの封を解いた瞬間、雑誌が粉みじんになって飛び散ったんです。こんなこともあるんですね。もともと紙質が悪い上に、何十年も封印されていたものですから、急激に外気にさらしたボクがバカだったんです。諸行無常といいましょうか、そのときボクは、こんなものを集めざるを得ない自分の宿命を呪いましたよ・・・」

荒俣氏の述懐を聞いて、思わず身が引き締まる思いにかられた。そんな荒俣氏であるが、80年代末に小説『帝都物語』が大ヒットして、いきなり2億とも3億ともいわれる巨額の印税が転がり込んだとき、氏はそれを全部古本購入に使ってしまったそうである。その中には一冊一千万もする17世紀ヨーロッパの手彩色銅販画の図鑑があり、それが氏の大著『世界大博物図鑑』(平凡社)のネタ本にもなった。しかし翌年の確定申告で、同書購入を「必要経費」として申告したところ、税務署は最後まで認めてくれなかったそうである。「一冊一千万もするような本は、経費とは認められない、宝石と同じく資産扱いになるというんですよ。ボクにとっては必要経費なのに・・・」こう言って荒俣さんは「本なんか集めるもんじゃありませんよ。不幸になるだけなのに・・・」と、深くため息をついた。その顔は、不治の難病を宣告された患者のそれであった。


■ウマ無し馬車と、銀と塩(クロパンダ)

リコーから、GRデジタルというカメラが発表されました。今やケイタイでも当たり前な"ズーム機能"の無い、"単焦点"のレンズが、大型の一眼レフなみの画質を生み出す、プロやマニア向けの高級カメラです。私はリコーのデジカメが、使いやすくて好きなので、この新製品にも興味があるのですが、それ以上に感慨深いのは、このニュースの見出しに"銀塩時代"という表現があったことです。"GR"というネーミングが、デジタル以前の名機を引き継ぐものだからです。

白黒フィルムは、光が当たった部分を現像すると、"塩化銀"が生じて黒くなります。それが"銀塩"の語源です。

今、カメラといえば、デジカメのことが多く、フィルムを使うカメラを区別するときは"銀塩カメラ"や"フィルムのカメラ"と呼ばれます。10年くらい前、デジカメが出てきたときは、もちろんカメラといえば銀塩のことで、デジカメは"デジタルカメラ"と、常にいわれていました。

デジカメが"銀塩"の売れ行きを追い抜いたのは、もう3年前のことなので、カメラ=デジタルという表現に違和感が無いのも当然のことです。そして、古いものには、古い名称"銀塩"がつけられるわけです。

モノには、名前があり、言葉が与えられます。英語でcarといえば、誰でも自動車のことを思い浮かべます。しかし、自動車が発明されたばかりの頃、それは"ウマなし馬車"(horseless carriage)と呼ばれました。クルマには馬がつきものだった時代には、そう表現するのが普通だったからです。

"銀塩"カメラという言葉には、かつての"馬車"のように、不便ではあるものの、ノスタルジックで優雅な響きが付け加えられようとしています。


■出生率はなぜ下がるのか(やぴぴの兄)

日本の出生率が下がり続けている。少子高齢化が問題になって早ん十年。一向に改善する気配がない。政府も危機感を募らせて様々な施策を打ってはいるが、効果は薄いようだ。出生率低下は日本だけでなく先進国共通の悩み。後進国でも富裕層を中心に出生率は低下傾向にある。出生率低下は社会的な問題や経済的な問題など、いろいろ言われているが、一般的に生活水準が高くなればなるほど出生率は低下するようである。

なぜ生活が向上すると出生率が低下するのか?それは人間が動物であり、生物であることと密接な関係がある。もともと人間を含む哺乳類は他の生物に比べて出生率が低い。なぜなら子供の生存率が高いので、たくさんの子供を生む必要がないからである。哺乳類の子供の生存率が高いのは子供が母体の中で安全に育てられるためで、逆に哺乳類以外の動物は自然界に直接卵を産み付けるため、子供の死亡率は極めて高い。だから下手な鉄砲数撃ちゃあ当たるってな感じでたくさんの卵を産むわけだ。

人間でも大昔多産だったのは貧しい食生活、劣悪な医療、天災の直撃、幾多の戦争により子供が数多く死んで、子供をたくさん産む必要があったためだ。後進国の出生率が高いのもほぼ同じ理由だ。これからいくと出生率を上げようと思ったら、生活のレベルを下げて、子供が死にやすい環境をつくるということになる。加えて一般に女の子より男の子の方が死亡率が高いことから、その希少性ゆえ「一姫二太郎」「男系男子」といった種族保存を男の子中心に考える傾向もある。

また出生率の低下は子供の生存率との相関関係だけが原因ではない。要は「増えたものは減る」「減ったものは増える」「上がったものは下がる」「下がったものは上がる」といった自然法則も関係してくる。だいたい出生率が人間の都合のいいように一本調子で上がっていくと考える方がおかしい。普通は人間の体重や血圧のように、またオシログラフ、株価チャート、地震波形のように上がったり、下がったりするのが自然である。出生率もまたしかり。出生率の低下は単に「今まで増えてきたものが減っただけ」と結論付けることもできるのだ。

出生率低下は自然法則に基づいている。そういった自然界の実態を無視して、少子化は日本の危機だとか、日本はもうお終いだとか不安を煽りに煽るコメンテーターたちは正真正銘の愚か者なのである。出生率低下を目の当たりにして、我々がとるべき態度とは、いたずらに不安がるのではなく、現実をありのまま受け止め、日々あるがままに生きる。ただそれだけだ。無理に出生率を引き上げるのではなく、人口減少時代に見合った分相応の生き方を探れば良いのである。


■女は度胸、男は愛嬌(長岡鉄男)

男と女とどっちが強いのだろうか。なんでも原点のそのまた原点からスタートしないとものごとを考えられない筆者はアメーバにまでとんでしまうのである。アメーバにはオスもメスもない。これは当り前だ。原始的な生物は分裂してふえたり、芽が出てふえたりする。それが進化すると、ミミズのような雌雄同体の生物が登場する。一体完結型ではなく、2匹で相互に精子を交換するので、進化の可能性が大きくなる。このタイプについてはメスがオスの機能も持っていると考えることができる。メスが主体である。さらに進化するとオスとメスが分離して別の個体になる。といっても依然メスが主役であって、オスは酒の肴、刺身のつまだ。小さく、弱く、寿命も短い。この手の生物は概して卵の数が多く、全部が育ったら、アッという間に大繁殖して、食糧危機で全滅するはずだが、実際は個体の能力(攻撃力、防衛力、適応力、知能)が低いので、生き残るのはごくわずか、それでバランスがとれている。個体の能力が向上した生物では卵の数が減る。そうでないとバランスがとれなくなる。生き残るのはバランスのとれたものに限るのだ。

これは哺乳類のような高等な生物でも変わりはない。能力は低いが子供が多いか、子供は少ないが能力が高いかが生き残る条件。またどの場合でもメスは環境への適応力が高く、体力的には瞬発力はないが持続力はあるというのがふつうである。オスは瞬発力はあるが持続力はない。その典型がライオンだ。ノミの夫婦などという、下等な生物では当然メスが主役だが、オスが立派に見える鳥類や哺乳類でも実はメスが主役だ。オスはアクセサリーであり、用心棒でしかない。観音さまと仁王さま、実は観音さまが主役なのだ。なんといっても動物の世界では、子供を生んで育てて、食料を調達するやつが上なのである。

では人間はどうなのか?人類が誕生したばかりの頃は弱い存在で、猛獣、天災、細菌等にやられて生きのびるのがたいへんだったにちがいない。となると女が主役であり、男はやはりアクセサリーであり、用心棒だったろうにちがいない。ただ、肉食と菜食ではずいぶんちがう。狩猟は成年男子の仕事だが、農耕や採拾(木の実を拾い、草の根を堀り、貝をあさる)は女子供でもできるので、ますます女性優位になる。ただ、食って寝るだけのサルなみの生活を卒業して文化と名のつくものを持つようになると、男がのさばり出す。石器を作る、弓矢を作る、小屋を作る、船を作る、各種の土木工事を行う。いずれも力仕事なので男が主役になる。さらに人間がふえてくると、相互の争いもひんぱんに起こるので、これまた男の出番となる。さらに文化が進んで、機械文明の時代、これまた男の独壇場、機械を動かすには力がいるし、ものによっては瞬発力も必要。また、数学だ、力学だ、電気だと、抽象的な学問も必要、これも男性向きである。オスというものはもともとがメスの幽体のような形で分離された抽象的な存在であり、種の保存についてもメスは卵や子供を生んで育てるのだから極めて具体的だが、オスの役割は極めて抽象的、本当にオレは種の保存に役立っているのかなと、疑心暗鬼のオスも多いにちがいない。従って頭の中身も抽象的思考に向いているのだときめつけてしまおう。

文化のひとつ、技術のアクセサリー的存在として芸術がある。とんでもない、芸術こそがすべてであり、技術は芸術に奉仕するアクセサリーにすぎない、という主張もあると思うが、そんなことはどうでもよろしい。とにかく芸術というスパイス、嗜好品がある。生活には関係のない部分に情熱を燃やすという点からすると、芸術もトータルでは抽象的だ。芸術の中でも具体性の強い文学、美術では女性も結構がんばっているが、抽象性の強い音楽(作曲)には女性は少ない。

さて、狩猟民族の白人と、農耕民族の日本人とではやっぱりちがいがあって、欧米では昔から男が強い。体格だって男女差が非常に大きい。レディファーストというのは単に女をこわれもの注意として扱っているにすぎない。欧米では今でも主人が一家を支配しており、毎朝1日の生活費を夫が妻に渡す。何を買うにも夫から金をもらわなければならないので、夫からの贈り物で妻が有頂天になる。欧米の夫はまさに主人と呼ぶにふさわしい。日本では昔から男女同権で、男女の体格差も少ない。だから歌舞伎宝塚も成立する。日本では妻が一家を支配しており、夫は妻から1日のお小遣いをもらって出ていくその日暮らしの生活。妻はほしいものを勝手に買う。日本では本当の主人は妻なのだが、表面上は夫を主人として奉っている。欧米のレディファーストと同じような意味でのジェントルマン・ファーストなのである。

世界のどこでも創造神や、ナンバーワンの神さまは男性だ。夫婦神というのも一部にはあるが、独身女性でナンバーワンになったのは天照大神ぐらいのものだろう。そして古代には女王ヒミコがいて、さらに実質的な女帝として神功皇后登場、公式的にも女帝となったのは推古天皇(在位592〜628)で、その後も皇極(後に再登場して斉明)、天明、元正、孝謙(後に再登場して称徳)と女帝が続く、孝謙の母の光明皇后も実質的な女帝だった。イギリスに女王が登場するのは1553年だから1000年も後の話である。女宰相、尼将軍北条政子にしても13世紀の初めである。女流作家紫式部が10世紀末から11世紀初めにかけて活躍、源義仲に従って、群がる敵をばったばったとなぎ倒し、斬り倒し、しめ殺したという女武者、巴御前(12世紀)なんていうのも欧米にはいない。ジャンヌダルク(15世紀)にしても指揮官であって武者ではない。現在の女子プロレスを凌ぐ人気を集めたという女相撲も1750年頃の流行だというから、欧米ではジャン・ジャック・ルソー、ヒューム、ヴォルテールの時代だ。日本の女は昔から強かった。戦中戦後の食糧難時代でも女は強かった。戦争中、撃沈されてイカダで漂流して助かった、というより、漂流者のリーダーとなった小学生の女の子の話。アナタハンという無人島で5人の男を従えて君臨、映画にまでなったアナタハンの女王、つい最近は日航機事故で生き残った4人の女性。乗客は男性の方が多かったのに、生き残ったのは女性だけというのはショッキングだった。

ところで、これから先はどうなるかというと、あらゆる条件がますます女性優位を示唆している。自動車がいい例だが、すべての機械がマイコン・オートになり、筋肉運動が不要になるので、筋力が弱くても持続力のある女性が有利。頭脳労働の方も同じだ。これからはコンピューターの時代、天才的な閃きは必要ない。どうしても必要ならコンピューターにそのような機能を持たせることもできるはずだ。たいせつなのはコンピューターとの根気のよいつきあい。それはタイピストの仕事にも似ており、女性に有利だ。キーボードの操作は指が細くしなやかな女性向き。女性専用とすればキーボードそのものも小型化できる。さらに音声入力のコンピューターとなっても、明瞭度の点で男性より女性が有利だ。未来社会はコンピューターが支配するが、コンピューターを支配するのは女性である。コンピューター労働者は女性中心、力仕事はロボットがやる。男性はロボットに不向きな力仕事、あるいはロボットにやらせるとコストアップになるので人間にやらせた方が安上がりというような雑用を受持つ。おそらく家事育児も男性専科となり、夫は一家の主夫として、あるいはアクセサリー、用心棒的存在として生活を保証されることになるだろう。その代り、芸術は男性のものになる可能性が出てくる。家事、育児にそれほどの時間をとられることはないので、余った時間を芸術に振り向ける。南方の農耕中心の未開部族の間では、女がひたすら働き、男はおしゃれと、おしゃべりと、踊りと、芸術品作りに明け暮れる。未来社会は同じようになるにちがいない。


■創作衝動と愛の喪失の関係(吉松隆)

脳やDNAに関する最新研究を紹介するバラエティ風科学番組(「サイエンス・ミステリー」フジテレビ)で、「ある日突然芸術衝動に駆られるようになり、そのかわりに愛を失った男性についての話」というのがあり、興味深かったので見てみた。

主人公はアメリカのとある60代の男性。脳卒中で倒れ、手術をして回復してから、(それまでは全くアートとは無関係の一労働者の生活だったのに)わけの分からない創作衝動に駆られるようになり、止まらなくなったと言うのだ。部屋の壁一面に奇妙な絵を描き、粘土をこねて不気味な彫刻を作り、紙には詩を書きつける。文字通り寝食を忘れ、ひたすら孤独かつ寡黙に造り続ける。その姿は完璧に「芸術家」なのだが、問題がひとつ。それが「芸術性ゼロ」だということ・・・。

この番組では、これを脳の「障害」と捉え、創作衝動ばかりが先に立って、奥さんへの愛も、友達との付き合いも、子供への興味も完全に失い、孤独ばかりを好み、興奮したり落ち込んだりと躁と鬱が目まぐるしく入れ替わり、家にこもりっきりの社会的不適応者になってしまったことを、手術による脳の一部の欠損→ドーパミンの過剰放出→創作衝動の暴走→抑制の不全→性格障害・・・と解説する。
 
うーん。でも、これって芸術家としてはごく普通(?)の性質じゃないんだろうか。どこか障害なのかサッパリ分からない。私もほぼ100%この通りだし(笑)。

ただ、一見「プラス」の性格要素のように見える「創作(芸術)衝動」というものが、(実は脳のシステム不全によって)孤独癖や人間嫌い・躁と鬱の交代や多重人格・社会的不適応といった「マイナス」の性格要素と表裏一体のように現れる・・・と言うのは、話としてはちょっと面白い。たぶん〈才能〉というのは、普通の脳にプラスとして組み込まれる追加機能ではなく、マイナスの欠損部分を補うために発生する補助機能なのだ。だから、目が見えないと勘が鋭くなり、言葉を失うと表現力は研ぎ澄まされ、望みがないほど夢は広がり、満たされないほど愛は深くなる。

「そもそも〈芸術〉も〈愛〉も両方とも手にしようなんて、それではあんまり虫が良すぎるんじゃないかね」・・・と、そう言って微笑む神の声が聞こえる(笑)。


■歴史は海でつくられた(やぴぴの兄)

都市生活が当たり前になっている昨今。ついつい陸を中心に物事を考えてしまう。しかし文明発祥以来。歴史の中心は海だった。特に海に囲まれ、面積の大部分を山が占める日本は、大陸のように平野部で大規模な農業や牧畜を営むのが難しかった。古くから日本人はその拠り所を海に求めて生きてきたのである。

最近「道路」の問題がクローズアップされている。無駄な道路が多すぎる。いや欧米に比べると道路の整備が遅れていると。道路の整備が欧米より遅れているのは事実で、それは政治的な問題ではなく、日本は長らく運輸・交通の中心は海だったからである。ヨーロッパのようになだらかな地形が延々と続くわけではないので、山あり谷ありの地形に道路をつくるというのは至難の業だった。五街道と言ってもあぜ道に毛の生えたようなもので、とても道路と呼べるようなものではなかった。

運輸・交通の中心は海というか水上だったのは何も日本だけではない。四大河文明が大河のほとりに文明を築いたのは、飲料水の確保や農業用水の調達以外に川を使って運輸・交通をスムーズにする狙いがあった。陸上の運輸・交通がいかにハードなものであるかは遊牧民の生活を見れば一目瞭然。ひるがえって水上では「重いもの」「大量に」しかも「遠方へ」「速く」「効率的に」輸送・運搬することに長けていた。なぜなら浮力、水流、風力といった自然の物理的エネルギーによって、最小限のエネルギーで最大限の輸送・運搬が可能だったからである。

シルクロードがNHKのドキュメントなどで有名になったおかげで、東西の交流があたかも陸上中心だったような印象を与えるが、実は東西の交流も海が中心だったのである。造船技術と航海術は国の繁栄に欠かせないものとなった。現代は空を制するものが、世界を制するが、昔は海を制するものが世界を制したのである。北欧や日本が現代においても先進国なのは造船技術と航海術が発達したおかげである。

北欧や日本でなぜ造船技術や航海術が発達したのか。それは海難事故が多発する地域だったからである。日本の例で言うとモンスーンで海上が時化やすく、海流が複雑(日本の海はちょうど暖流と寒流がぶつかる地点)。元寇で神風が吹いて、敵の船が沈んだとあるが、造船技術、航海術が少しでも劣ると、日本の海の航行は極めて危険であることを象徴的に物語っている。

現代人が歴史を陸上中心に考えるようになったのは近代化して、都市化が進んで、生活の中における海の役割が減ったためだ。そして最近の歴史学は遺跡発掘による科学的検証で発達した経緯があり、遺跡といっても何も残らない海が、歴史の記憶から遠ざかるのは無理もないことなのである。


■気力と視力(通崎睦美)

私は、二十代半ばから古い着物に興味を持ち始め、それらを通して「見る」ということの楽しさを知った。

例えば、上等の麻の布を「上布」というが、上布にもいろいろな種類がある。宮古、越後、能登上布に近江上布など。それらは織られた産地によって特徴がある。柄はもとより、最終的なものの見極めは、糸の細かさや縒りの違い、すなわち繊維のレベル。ルーペの世界である。

それがいかなるものであるのかを「見抜く」ためには、知性や感性はさておき、まずはよく見なければ始まらない。それは「気力」「視力」のいることでもある。

ものの細部までを見るということは、そこからさらに深い世界を知る入り口にたつことでもある。しかし、これは気力と視力が充実している若いうちに癖をつけておかねば、そうそうできることではない。若い頃に一つのものに執着し、自分の目でよく見、触った感触の記憶は貴重である。何もむずかしいことではない。昆虫を捕まえ一夏大切に見守る。ものを見るというのは、子供の頃のそういう経験から始まるものかもしれない。

このことは、演奏においての「聴く」にも共通する。演奏家をめざすなら、自分の音を細部まで丁寧に聴くということを、耳が鋭い、そして時間のたっぷりある若いうちに身に着けておかなければならない。

これらは、若いと言われる年代を過ぎた頃に、実感することでもある。


■差別についての自然科学的考察(やぴぴの兄)

差別とは何か?と問われた場合返答するのはとても難しい。それは人間社会に起こる特有の現象であり、なおかつ一般に社会科学的な視点で議論するため、客観的に分析することが難しいためだ。そこで試しに自然科学的な視点で差別を考察してみてはどうか。ということを提唱してみたい。

差別は人類が文明を発展させ、近代化が進むごとに深まってきた。例えば死刑執行人はもとは「死刑」という名の宗教的行事を司る祭司であった。それが近代化するにつれて賤民となった。「穢多」ももとは御祓いをして穢れを取り除く職能であった。それが近代化して身分が固定され、差別の対象となった。

一般に人間のもつ動物性があらわになる職業ほど差別の対象となる。例えば売春(性)、食肉加工(食)、死刑執行人(殺人)、清掃作業員(排尿、排便)。文明社会を生きる人間は、人間が本来もっている動物性があらわになることをことさら忌み嫌う。「性」はいやらしい、恥ずかしい、破廉恥だと封印し、暴力は残酷、野蛮だ、人権侵害だとして糾弾する。文明の発祥は人間がもつ動物性の否定から始まっており、文明が進めば進むほど動物性の否定が進む。しかし人間が動物であることはどんなに文明が進んでも変わりがない。このことの乖離こそが差別につながるのである。

差別について考えるということは、文明について考えるということだ。その場合の文明とは何かというと、それは文明の象徴としての都市、そして中央集権的な集団生活に集約されると思う。

人間は最初から都市生活、集団生活をしていたわけではない。アフリカの原野に始まる人類の曙は樹上生活だった。それが地上での生活に移り、移動が始まり、全世界に散らばって行った。そしてようやく大河のほとりに根を下ろし、都市生活、集団生活を始めるのである。

人類が樹上から地上へと生活の場を移したのは、地上に生息するインパラ、ムー、ゼブラ、ライオン、キリン、ハイエナ、ゾウ、カバといった動物を観察し、その生態を取り入れたものと思われる。人類は原初から学習能力に長けていた。他の生物の生態を取り入れて、自身の生活範囲を著しく広げていったのである。人類の世界規模の大移動も空を飛ぶ渡り鳥、海を回遊する魚たちにヒントを得たものと思われる。

では都市生活、集団生活は何にヒントを得たのだろうか。これは推測だがの生態にヒントを得たのではないかと思われる。蜂や蟻が作る複雑なは人間の造る都市と似ている。また兵隊蟻からは軍隊を、働き蜂からは労働者を。女王蜂(蟻)を頂点としたピラミッド型の社会構造はそのまま人類の中央集権的な社会構造へと受け継がれた。それが集団生活をする上で最も合理的な「かたち」として捉えられたのだろう。

結果蜂や蟻がもっていた縦社会の構図がそのまま「差別」として人類の社会に受け継がれた。おそらくこれが差別の原点かと思われる。なおこの説はやぴぴの兄のオリジナルであり、どの論文、学説にも載っていない。いや世界は広い。似たような考えをした学者が過去何人かはいたかもしれない。マンガチックで突飛な考え方だが、個人的には結構「筋」は通っていると思う。


■キリシタン弾圧、鎖国は天下の大英断(やぴぴの兄)

キリスト教の伝来が1549年。以来500年近くになるが、思ったほどキリスト教の信者は増えていない。伝来の時代が違うとは言え、神社とお寺さんの区別がつかないほど広まった仏教とはえらい違いだ。一神教の考えがなじまないというのもあるかもしれない。しかし本当の要因はキリスト教の布教活動の歴史にあるのではないだろうか。

キリスト教は伝来以来、豊臣秀吉、徳川幕府などから幾度となく激しい弾圧を受けている。そのキリシタンへの拷問の凄まじさは後世に語り継がれるほどである。日本のように比較的宗教に寛容な国でなぜここまでの拒否反応が起きたのだろうか。学校の歴史の授業では「封建的な身分制度の上にあぐらをかいていた当時の権力者が、人間の平等を説くキリスト教の布教を必要以上に恐れたため」と教わった。

確かにそういった面はあったかもしれない。しかし理由はそれだけだろうか。まず考えなければいけないのはキリスト教の布教活動は日本だけで行われていたわけではないということだ。キリスト教の布教活動は大航海時代の後押しもあって、全世界的規模で行われていた。しかもその布教活動は実に先住民族の大量虐殺、略奪、強姦などと共に行われていたのである。北米のインディアン、南米のインディオ、オーストラリアのアボリジニ。地域によっては永らく栄えていた古代文明や帝国がヨーロッパ人によって滅ぼされたところもある。秀吉や徳川幕府が恐れたのはまさにキリスト教の布教活動と共に行われていたヨーロッパ人による虐殺及びその支配であったと断言できる。日本の歴史教育ではなぜかキリシタン弾圧に触れても、ヨーロッパ人が世界中で行っていた虐殺行為にはあまり触れられていない。

また徳川幕府が長い間行っていた「鎖国」についても、多くの歴史家は日本の閉鎖性を誇張し、世界の潮流に取り残された元凶のように批判してきた。しかし今思うにこの「鎖国」はヨーロッパの植民地支配から逃れるための日本の防衛政策だったのではないかと思ってしまう。実際徳川300年。一度たりともヨーロッパの植民地支配を受けていない。インドや中国といった四大河文明を担う2つのアジアの大国が欧米の植民地支配を受けていたことを考えれば、「鎖国」は英断と呼ぶべき施策であったろうと考える。しかもアメリカ軍基地に頼ってようやく60年の平和が保たれている現代日本と違って、どこの国にも頼らず、自給自足で防衛政策を継続できたのは驚愕に値する。

欧米列強と戦ったのは明治維新以降のことと思われがちだが、実はキリスト教を弾圧した秀吉、徳川幕府の頃からヨーロッパとの戦いが始まっていたのだ。時として悪者扱いされる、秀吉、徳川幕府だが日本を侵略者から守った偉い人たちという一面を持っていたことは事実だろう。


■「沖縄の方言札」評(高橋秀実)

「方言札」をご存じだろうか。

明治末期から昭和30年代に至るまで、「方言撲滅・標準語励行」を旗印に主に沖縄の小中学校で用いられたもの。学校で方言を使うと、罰として首からぶら下げさせられた木札のことである。札には「方言ばか」あるいは「わたしはほうげんをつかいました あしたからはつかいません」などと書かれており、強引な沖縄同化政策として悪の象徴とされているのだ。

ところが本書によれば、方言札は法令や条例等で定められたものではなく、沖縄の教員たちが自ら「草の根運動」のように始めたらしい。札を下げた生徒は次の違反者が出るまでずっと下げていなくてはならない。そこで子供たちは同級生の足を踏み、「アガー(痛い)」と叫ばせて札を渡す。学校を出れば方言も自由だったが、札を持ち帰って違反者を探す者も。逆にわざと方言を使い、札を下げて目立とうとする子もいたらしく、罰則はまるでゲームの様相を呈したのである。

そもそも沖縄には旧来から罰札制度が存在していた。トラブルなどを起こすと大人も罰札を下げさせられる。その者には罰金が課せられ、それが村の運営資金になっていたという。罰札の循環が村財政を支えていたのだ。そして彼らが標準語を学ぶのも、本土との同化ではなく、沖縄内の標準語(首里士族語)を話す上流階級と対等になるためだった。こうした実情を知らない本土の文化人が、美しい方言を守るべきなどと勝手に糾弾したことから、方言札は「悪魔的な性格を有する罰札」と解釈されるようになったのである。

私はふと沖縄の米軍基地近くにあった小学校のことを思い出した。「騒音反対!」と本土マスコミが繰り返す中、子供たちの間では騒音を聞いただけでその戦闘ヘリの機種を当てる遊びが流行っていた。行き先の定まらない基地問題もひとつの札のようなものかもしれない。


■人間機械論(長岡鉄男)

筆者は人間とサルとの間に決定的なちがいはないと信じている。サルの中にはバーテンダーとして、獣医の助手として、人間以上の働きをしている秀才もいる。人間の中にはサル以下、いや、植物同然というのもたくさんいる。

人間のカンちがいの中で最もたるものは「人間は意志を持っている」ということだろう。人間は自分の意志に従って行動していると思っているが、これは大まちがい、人間の行動はすべて物理的、化学的な反応の集積として自動的に決まっていくものであって、意志というような抽象的な力のつけいる余地はないのである。行動のパターンが、いかにも意志が働いていると見えるだけのことなのだ。これは動物すべてに共通する。

鳥が卵をあたためるのは子供のことを考えているわけでも何でもない。ただ、季節とホルモンの関係で胸が熱を持つから、それを冷やしているにすぎない。卵と同じ形をした磁器でもプラスチックでもいいのである。石ころや水でもいいのではないか?確かにそうである。そういう鳥もいた。しかし、それでは種の保存は不可能なので絶滅した。卵で胸を冷やした鳥だけが生き残ったのである。鳥は巣からころげ出した卵は見向きもしない。子供のことを考えているわけではないからである。

ヒナに餌をやるという行動についてもまったく同じで、色と動きさえ似ていればプラモデルにでもブリキのオモチャにでも餌をやる。逆に本当のヒナであっても巣からこぼれ落ちたら、これはもう単なるゴミなのである。すべては単純な物理的、化学的な反応の集積にちがいない。

植物についても状況は同じだ。蜂や蝶をひっかけようとして色とりどりの花を咲かせているわけではない。そう見えるだけである。実は機械も同じだ。SLは自分の意志で、懸命に列車を引っぱって走っているわけではないし、ロボットも人間のごきげんを伺って動き回っているわけでもない。

要するに、人間もサルも、鳥も虫も、植物も機械も、岩石も土も、雲も水も空気も、分子も原子もクォークもみんな同じである。だから逆に、人間に意志や感情があると認めるならサルにはもちろん、原子やクォークにも意志や感情を認めないわけにはいかないのである。


■「格差社会」と「戦後」(やぴぴの兄)

小泉構造改革の結果生じた「格差社会」に批判が集まっている。「格差社会」はいつの時代も、どこの国でもあることだが、なぜ今改めて「格差社会」が問題になるのか。まずは現在の日本と高度経済成長時代との比較から検証してみたい。

高度経済成長時代にも「格差」はあった。しかも現在の「格差」よりもひどかった。黒澤明の映画「天国と地獄」(1963年)、内田吐夢の映画「飢餓海峡」(1965年)を見れば、そのひどさは一目瞭然である。しかし高度経済成長時代には「格差」もあった代わりに「希望」もあった。頑張って仕事をすれば報われるという社会の雰囲気があった。そして事実頑張って仕事をした者は報われていったのである。なぜなら日本は右肩上がりの経済成長を続けていたからである。

しかし現代はどうであろうか。旧来のように頑張って仕事をすれば報われるのだろうか。そもそも極貧からのスタートの高度経済成長時代と違って、現代は相当に生活水準の高い、満たされた社会からのスタートである。しかも日本は着実に右肩下がりを続けている。

日本人の生活の拠り所になっている「企業」の実態を見ればわかりやすい。現在景気が良くなった、良くなったと言われている。雇用も以前よりは積極的に行うようになっている。しかしその実態はほとんどが非正社員であり、正社員の雇用が進んだわけではない。また以前はスポーツチームやスポーツ選手を企業の広告塔として抱えることも多かったが、景気回復が続く現在でもスポーツ部門の縮小は続いている。そういえばバブル時代にはメセナ(芸術支援)ということもやっていた。今はどうなっているのだろうか。広告も停滞気味だ。テレビ番組は金のかかってないようなトーク番組ばかりだが、それはスポンサーである「企業」がテレビの広告にお金をかけられなくなっている証拠である。

企業は昔に比べると着実にお金が回らなくなってきている。昔のサラリーマンは企業が出す出張手当を貯金に回すことができたが、現代では、貯金どころか出張に際して自腹を切るよう迫られることもある。このように時代は右肩下がりである。そして右肩下がりの中で「格差」が広がっている。まさにここに現代の「格差社会」が批判を集める最大の要因があるかと思われる。

ではなぜ日本の企業にお金が回らなくなったのか。それにはまず一見「格差社会」を考えるうえで何の関係もないように思える「戦後」について考えなくてはいけない。日本で言う戦後は1945年。太平洋戦争が終結した年である。太平洋戦争が終結した時点で第二次世界大戦が終わったのだから、世界の戦後も1945年。だと日本人は思っている。ところが1945年の時点で戦後を迎えたのは日本だけである。その他の国々は第二次世界大戦が終わったあとも、新たなる戦争を続けたのである。「冷戦」である。

この冷戦のおかげで多くの国々は軍事面にエネルギーを費やし、経済を疲弊させた。特にヨーロッパは冷戦に加え、2つの世界大戦のダメージ、植民地の独立もあって急速に衰えた。アメリカもベトナム戦争の敗北で大混乱。ソ連に至っては膨大な軍事費に経済が回らなくなってとうとうつぶれてしまったのである。そういった中で日本だけは蚊帳の外であり続け、経済を発展させていったのである。これが高度経済成長の正体だ。

日本が冷戦に巻き込まれなかったのは、ベトナム、朝鮮、ドイツのように国が2つに分割されなかったことと、アメリカ軍基地を置いたからに他ならない。アメリカ軍基地があることによってソ連は容易に日本を攻めることができなかった。日本の平和は憲法9条ではなく、アメリカ軍基地によって守られてきたのである。日本は自らを「不沈空母」と称することによって、豊かな経済と半世紀以上にわたる平和を国防という自助努力なしに享受することができたし、アメリカも北東&東南アジアの共産圏(ソ連、北朝鮮、中国、ベトナム、カンボジア)の脅威に対抗するのに、日本は軍事基地を置くうえで格好の場所にあったわけで、まさに両者の利害が一致していたわけだ。当時の日本の政治家はこの点を利用して、かなりうまく立ち回ったと言ってよい。

しかしその冷戦も「ベルリンの壁崩壊」(1989年)「ソ連解体」(1991年)で終結する。これが世界(一部を除く)の事実上の戦後になる。世界の戦後復興はまさにここから始まるのである。アメリカは90年代、ITと金融ビジネスで好景気に沸いた。ヨーロッパもワルシャワ条約機構の解散、ヨーロッパ共同体による通貨統合などで復活。ブリックス(インド、中国、ロシア、ブラジル)なる新興勢力も台頭。世界経済は激しい競争の時代に入ったのだ。

しかし日本だけは高度経済成長の成功体験を引きずったまま、世界の大きな変化についていけなかった。まるで遠くのかなたで起こったチリ大地震の大津波が日本の沿岸部に大被害をもたらしたように、遠くのかなたで起こったソ連崩壊という大津波が、日本の中小企業や小さな商店街を襲って飲み込んでしまったのである。これがバブル崩壊以降長く続いた不景気の正体だ。

ソ連が崩壊して世の中がらりと変わり、競争が激しくなった。ソ連が崩壊する前は日本は競争相手もなく、ほとんど独り勝ちだった。これが日本の企業に多くのお金が回り、昔のサラリーマンが出張手当を貯金に回せた理由。ソ連が崩壊して以降は日本以外にたくさんの競争相手ができて、日本の企業にお金が回らなくなった。これが今のサラリーマンが自腹で出張せざるをえない理由。あるいは昼飯に吉野家の牛丼や100円マックを食わざるをえない理由である。

日本の「格差社会」の広がりはまさに、90年代以降の世界の「戦後」と密接に結びついている。偶然にも日本の「平成」の始まりと時を同じくしているところが面白い。「昭和」から「平成」は、ひょっとすると平安時代(貴族社会)から鎌倉時代(武家社会)、江戸時代(地方分権)から明治時代(中央集権)以来の大変革だったのかもしれない。もはや「昭和」の常識は通用しない。「格差社会」の広がりは新たな社会に移行するうえでのひとつの過程なのかもしれない。


■日本はなぜ戦争に負けたのか(やぴぴの兄)

今年は終戦60周年。人間で言えば還暦にあたる。60年経って今思うことは日本はアメリカとの戦争になぜ負けたのかということだ。今までそのことについてあまり検証されなかったように思う。検証されていれば、国防をアメリカに任せっきりにして、口だけ平和を唱える今の現状はなかったように思う。戦争を語るといえば、判で押したように「戦争の悲惨さ」「戦争の愚かさ」である。あくまでも太平洋戦争は「悲しくも美しい物語」にとどめておきたいようだ。そこらあたりが戦争に対する日本人の思考停止を招いているように思われる。

敗戦は作戦面の不備など、軍事専門的な視点からの検証もあるかと思われるが、自身は軍事専門家ではないので、もっと別の視点から敗戦を検証していきたい。

マンガ家の水木しげるがラバウル戦線に従軍していた頃、敵の襲撃にあって撤退。前線の現状を上官に報告したところ「なぜお前は戦って死ななかったのか!」と上官に一喝されたという。現在の感覚からいうと、何という人でなしの上官かと思ってしまうが、当時はこれが当たり前だったのだ。前進命令を出された部隊が池にぶつかり、そのまま池に沈んで溺死した事件でも、溺死した兵隊は軍人の鑑として賞賛され、泳いで助かったものは天皇の菊の紋のついた銃を池に捨てたということで厳罰に処せられた。今では人命は地球よりも重いことになっているが、むかしの人命は一丁の銃よりも軽かったことになる。このようなメンタリティが二百三高地、爆弾三勇士、神風特攻隊、回天、玉砕につながったのだと思う。

一方アメリカの部隊は、映画「プライベート・ライアン」に描かれていたように、兄弟の大半が戦死。残った一人の息子だけでも母親のもとへ帰還させようと、部隊が二等兵の救出作戦に出かけるということをやっていた。映画だから描かれていることには美談や誇張もあるかもしれない。しかし当時の日本兵の扱われ方と比べると、なんと対照的かと思ってしまう。

また2001年9月に起こった米同時多発テロ事件で、旅客機ごとビルに突っ込んだテロリストを「まるで米艦隊に突っ込む神風特攻隊のようだ」とメディアが評したことは記憶に新しい。個人的にも両者をイスラム教、あるいは天皇教(国家神道)による宗教的狂気かなと思っていたが、最近になって両者には決定的な違いがあると感じるようになった。そのきっかけとなったのは、自爆テロをする直前のテロリストの映像を見たときである。テロリストは聖戦(ジハード)を戦いぬくことによって、死んだあと、神の御もとへ行き、祝福されると信じきっている。だから表情はややトランス状態にあった。

ところが神風特攻隊は「天皇のために死ぬことは日本人として最大の喜び」と教え込まれていたにも関わらず、特攻の直前、みな泣いていたのだという。天皇のために死ぬことが最大の喜びであるならば、なぜ泣くのか?このことからも両者の間には決定的な違いがあると感じたのだ。

結論をいうと、宗教的狂気というよりは日本の文化的背景。すなわち日本人自身が死ぬことに美しさを感じる国民だからということにつきると思う。

切腹という様式美、心中ものブームから、桜のようにぱっと散るということに美しさを感じるところまで。近年日本では自殺者の多さが問題になっているが、それは不景気というよりも日本人のこういったDNAによるところが大きいのではと思われる。死にたくなければ逃げればよい。しかし多くの日本人は逃げなかった。四方を海に囲まれているとはいえ、ベトナム戦争でボートピープルと称して、ベトナム人の多くが海を渡って国外に脱出したのとはえらい違いだ。日本人の頭の中に国外脱出というのはなかったのだろう。

もうひとつ日本人には負けるということにも美しさを感じる国民である。最近の連戦連敗の競走馬「ハルウララ」が人気になったことなどはそのいい例だ。弱い者を応援する「判官びいき」という言葉は源頼朝に追われて都落ちした義経への同情からきたもの。また「平家物語」は滅びゆく平家を美しく語った物語。日本人のメンタリティはなんと千年以上変わっていないのだ。これなら負けるとわかって太平洋戦争をやった当時の日本人の感覚も少しは理解できる。はなから勝とうとして戦争をやっているわけではないのだ。負けるはずである。

サービス残業をやらせて、サラリーマンを酷使し、そのくせ営業収益は少しも上がらない日本企業とどこか似ている。サービス残業は収益の向上でやっているわけではない。ましてや労働の美徳でやっているわけではさらさらない。労働によってひたすら汗し、苦しむ姿が美しいからやっているのだ。日本人は苦しむということにも美しさを感じる国民である。「闘病日記」などというような、他人が病気で苦しんでいる姿を喜んで読むような人種は日本人だけである。

死ぬ、負ける、苦しむ、それに加えて不幸、貧しい、別れる・・・。そういったもろもろのネガティブなことを日本人は美しいと感じてきた。だから日本人は太平洋戦争で300万人も死んだ。いや戦争が長引けば、本土決戦になればもっと死んだはずである。もしかしたら原爆によって滅んでいたかもしれない。別にA級戦犯が悪いわけでも、誰かが悪いわけでもない。日本人はそういう国民だということだ。

今度戦争になった場合、日本人が以上のようなことを認識してないと、今度は負けるどころか滅ぶ危険性がある。なぜなら日本人自身が滅ぶことに美しさを感じる国民だからである。

「己を知り敵を知れば百戦危うからず」

日本人は戦争に勝とうと思ったら、まず自分自身を知るべきである。


■三種の神器(やぴぴの兄)

三種の神器と言えばテレビ、冷蔵庫、洗濯機。いや本来は八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことを指すはずだが、家電で使われて以来、広く《3つの大切なもの》という意味で使われるようになった。

人類の三種の神器というと「宗教・政治・経済」か。ただ大切さの度合いは宗教>政治>経済の順番になっている。新聞を見ても日経新聞をのぞいて経済面が政治面よりもトップにくることはない。経済はお金のやり取り、政治は命のやり取りをするものである。「命の次に大切なものがお金」という考え方からすれば、当然命のやり取りをする政治の方が経済より上にくるのは当たり前だ。

今の日本に住んでいると、政治が命をやり取りをするものというのはあまりピンとこないかもしれない。しかし歴史を見てみれば、政治家というのはたいてい大量殺戮者であることがわかる。太閤記の信長、秀吉、家康は言うに及ばず、戦国武将、明治維新。歴史上人気のある政治家は必ずといっていいほどたくさん人を殺している。現在でも海外の政治家は大量殺戮者である。アメリカはイラクやアフガニスタンで、ロシアはチェチェンで、中国はチベットで。たくさん人を殺している。人を殺さない今の日本の政治家は極めて特殊な存在だと言える。

政治>経済というのはわかった。しかし命のやり取りをもしのぐ宗教と言うのはいったいどれほど大切なものなのか。新聞では政治面、経済面はあっても宗教面はない。これは聖教新聞などの宗教広報新聞をのぞいて、新聞ごときが宗教を扱うのは畏れ多いことを意味する。

映画「屋根の上のバイオリン弾き」を例にとるとわかりやすい。

家長父のテヴィエには三人の娘がいました。三人の娘は年頃の年齢になりお婿さんを迎える時期に来ました。むかしは父親がお婿さんを決めていましたが、近代化により、娘は恋愛による結婚を望むようになりました。長女は経済的に貧しいお婿さんを選びました。最初父親は難色を示しましたが、娘が望むのならとその結婚を許しました。三女は政治運動に身を投じるお婿さんを選びました。これも最初父親は難色を示しましたが、娘が望むのならとその結婚を許しました。次女は宗教の違う異教徒のお婿さんを選びました。これには父親も激怒し、とうとう最後まで結婚を許しませんでした。

「宗教、政治、経済」には共通点もある。それは人間のわがままから派生しているということだ。経済は基本的にお困りごとの解決である。困ったことは自分で解決すればいいはずだが、人間はわがままなのでそれを他人にやらせてしまう。そこに経済の発展があるわけだ。政治は2人以上の人間がいた場合の利害調整である。わがままとわがままのぶつかり合い。その間をアメやムチを用いながら取りもつのが政治である。そして宗教は人間の最大のわがまま「死にたくない」というのがもとになっている。人間は「死にたくない」と思うからこそ、来世があり、天国があり、輪廻があり、彼岸があると信じるのだ。人間が死にたくないと思う限り、宗教は永遠なのだ。


■無限の未来からの贈りもの(呉智英)

岩井克人は戦後生まれでは最も注目されている経済学者である。彼は『貨幣論』で、この率直きわまりない書名が示すように、貨幣とは何かについて考察する。経済学の根源的なテーマの一つである。そして、根源的であるが故に、いわゆる経済問題に疎い人にもかえって興味が湧くテーマである。

貨幣については、既に経済学の巨人たちがいくつもの業績を残している。貨幣がどんな商品とでも交換できる特殊な商品だからだ。では、その貨幣の価値はどこから来るのか。貨幣と交換されるさまざまな商品に価値があることはわかる。それなら、さまざまな商品と交換できる特殊な商品である貨幣は、何故に価値があるのか。これについて、資本主義の矛盾を労働者階級の歴史的使命によって解決しようとしたマルクスは、労働価値論を唱えた。貨幣には、その原初形態である金貨・銀貨などの原料である金・銀を採掘し加工するのに必要な労働が込められているのだ、と。

しかし、現在、含有される金・銀の価格と同じ額面の通貨は存在しない。金貨だろうと銀貨だろうと、一枚十円になるかならないかの紙幣だろうと、貨幣としての価値は同じである。さらには、カードなどに見られる電子マネーさえも使われるようになっている。ここに労働が込められているとは言えないのだ。貨幣はまさしく数値にすぎないのである。

数値にすぎない貨幣が流通するのは、それを受け取った人が、別の商品と交換でき、しかもそれはさらに次の人に対しても、次の次の人に対しても、同じように交換できるからである。では、その連続する交換の一番最後の人は誰か。当然、無限の未来の人間だということになる。岩井克人はこう言う。

「たんなる一枚の紙切れが、貨幣として使われているということによって、紙切れとしての価値をはるかにこえてもつことになる一万円という価値とは、無限の未来に住む人間から今ここに住む人間へと送られてきた、気前のよい贈りものにほかならない」

究極の抽象的商品である貨幣の不思議さがよく表現されている。貨幣は抽象的であるからこそ自由に流通し資本主義を作り上げた。また抽象的であるからこそギャンブルに最も適した賭物にもなった。人間は不思議なものを生んだのである。


■生命と物理学(呉智英)

生命の不思議さとは何か。いろいろなものが考えられるだろうが、文字通り「生きている」ことが最大の不思議だろう。これをシュレーディンガーは「負のエントロピー(ネゲントロピー)」という言葉で説明する。

動いている物質と止まっている物質を比較してみよう。動いている物質の中には、必ず物理的・化学的な落差が存在している。坂の上から玉を転がせば、高低差があるからそれは転がり落ちる。電池の入った玩具が動くのは、電位差があるからだ。この高低差や電位差がなくなったとき、動いていた物質は止まる。すなわち、落差は平衡状態になったのである。これをエントロピー最大状態という。

ところが、生命体だけは他の物質とはちがって、容易には平衡状態にならない。これを古代から神秘的な生命力と呼んできた。しかし、先程のエントロピー(落差のない平衡状態)という考えを取り入れれば、生命体はネゲントロピーを摂取し、エントロピーを排出する存在として説明できる。神秘主義に頼ることなく物理学の立場から生命を論じることは可能なのだ。しかも、シュレーディンガーのこの考えは、純粋に科学的な彼の意図を超えて宗教や哲学に寄与する面もある。

成すべき仕事を終え、安らかな老後を送っている人の顔はなぜ穏やかなのか、そしてまた、穏やかな顔つきの老人にはなぜエネルギッシュな仕事ができないのか。彼の心の中には落差はなく、平衡状態になっているからである。安らぎと仕事が本質的に対立するものであることも、この古典的名著「生命とは何か」は教えてくれる。


■ハリケーン被災であらわになった米国の人種問題(古森義久)

いまの世界で「唯一のスーパーパワー」などと評されてきた強大で富裕な国家のアメリカが一瞬にして世界の最貧国のような惨状をみせるとは、ショッキングだった。ハリケーンに襲われ、大規模な水害が起きて、アメリカ南部の各州が建国以来の歴史でも最悪の被害を受けたのである。おびただしい人命の損失と、巨大なビルや住宅の破壊の跡をみると、その原因となったハリケーンに「カトリーナ」などと女性の名前をつけるアメリカの慣行がいかにも無神経で不自然にも思えてくる。

このニューオーリンズの悲惨な状況のなかでもとくに衝撃的なのは一部の市民たちによる略奪の光景だった。その様子はテレビでもふんだんに映し出されていた。広大なスーパーマーケットに侵入して、食物や飲料を片はしからカートに投げ込んで、走り去る青年、ドアの破れた薬局から医薬品を山のように盗んでカゴに下げ、水浸しの街路を歩いていく中年女性、テレビやラジオなどの電気製品を肩にかついで逃げていく中年男性、色とりどりの衣類を腕いっぱいに抱え、笑顔をみせ、走っていく少女、なにかの商品を入れた箱を引っ張り、誇らしげに片手を宙に高々と突き出す少年・・・みな他人の財産を奪い、盗んでいるのだった。

現地からの報道によると、略奪者たちはフォークリフトまで使って、高級商店の入り口をぶち壊して、宝石や家具などを盗んでいた。銃砲店に侵入した一味はライフルやピストルまで持ち出していた。要するに災害にあった市民たちが生存のために、やむにやまれず他人の食糧を入手するという種類の行為ではないのだった。水害で食べ物、飲み物がなくなり、近くの商店から飲食物を生きるために調達するという性格の行動ではないのだ。金目の商品を手当たりしだい、という悪質な略奪であり、窃盗なのである。被害者が水害に遭って避難した人たちであることを考えれば、その留守を狙って、被害者の財産を奪うというのは、きわめて悪質だといえる。しかも街全体でそんな略奪行為が展開されているのだ。日本では考えられない事態だといえよう。

この略奪にはさらに重要な特徴があった。こうした略奪を働く人間たちのほぼ100パーセントが黒人なのである。テレビの映像や新聞の写真でみる限り、略奪者はみなアフリカ系市民、つまり黒人だった。この事実は現地からの他の一部の報道でも裏づけられていた。

いったいなぜみな黒人なのか。

南部のニューオーリンズ市は総人口48万のうち67パーセントが黒人である。だから住民の多数派は黒人なのだが、それにしても略奪者は100パーセント黒人なのである。ハリケーンによる水害は自然発生の緊急事態として市民みんなに平等に襲いかかった。被害を受ける可能性は人種や民族の相違にかかわらず、みな平等である。だから被害を受けたことを原因として盗みに走るならば、略奪者のなかに白人やアジア系の市民が少数でもいたほうが自然となる。ところがそれがいないのだ。

しかもさらにおもしろいことに、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CBSテレビといった大手マスコミは略奪に走る住民たちが判でおしたように黒人である事実を報じていない。大手テレビは映像で黒人の略奪の光景を流しても、解説のなかではその単純な事実には触れようとしない。略奪自体については報道も論評も山のように伝えても、その行為の実行者たちがほぼすべて単一の人種に限られることは伝えないのだ。

こうした現象について日ごろ大手マスコミのリベラル偏向を大胆に非難する保守派の論客ラッシュ・リムボウ氏が論評していた。

「大手マスコミは人種差別主義だと非難されることを恐れて、略奪者がみな黒人だという重要な事実を報じないのだ。リベラル派の政治家たちは逆に『黒人は日ごろ抑圧されているので、緊急時に略奪をすることも理解できる』という態度をとる。いずれも間違った対応だ」

どう考えるにせよ、いまのアメリカ社会がなお人種や階層のギャップという複雑で深刻な課題を抱えていることがこうした現象を生むことは間違いない。たしかにニューオーリンズなどの都市では黒人の所得は平均を下回る。学歴も黒人は平均より低くなる。その原因が社会全体の黒人に対する偏見や差別だという説にも理はあろう。とはいえ偏見や差別ならば、アジア系市民も対象になる部分がある。だがアジア系の略奪者は皆無なのだ。なぜ黒人だけなのか。

この点、リムボウ氏はびっくりするほど大胆な考察を一日三時間もの自分のラジオ番組で述べていた。

「ニューオーリンズでここ数日、起きたことは数世代にもわたるエンタイトルメント(社会福祉の受給権利)の失敗の現象なのだ。自分の努力よりも政府からの福祉の受給に依存する心理が『自分たちは社会で恵まれない層だから、社会や政府から特別の恩恵を受けることのできる特権がある』という潜在意識を生んできた結果なのだ」

つまり黒人は政府への依存が強すぎて、いざという事態には他者の財産をも入手してよいとみなすような独特の心理を抱きがちだ、と示唆しているのである。その示唆の背後には社会福祉を拡大してきたリベラル派の「大きな政府」への辛辣な批判がある。黒人の側からすれば、飛んでもない糾弾ということになろう。だが略奪者はみな黒人だという事実を否定することもできないのである。しかも過去の天災や暴動の際に大都市で起きた他の大規模略奪も、実行者はほぼすべて黒人だったというのも事実なのだ。

日ごろは表面に出ることが少なくなったアメリカ社会の人種がらみのジレンマが未曾有の大水害という非常時にまたその姿をみせた、ということであろう。


■ガス(渡瀬謙)

さて地震のときの基本行動と言えば、

・戸を開けて出口を確保する
・机の下にもぐり込む  
・テレビをつけて情報を得る  

そしてもうひとつ、  

・ガスを消す  

そう今回はガス栓がテーマである。

つけやすさと消しやすさ。ガスコンロのつまみは回転方向が決まっている。反時計回りで点火するようになっている。しかしその方向はどちらかというと、左手で扱うのに適している。左右の手は構造上、それぞれ内側よりも外側に回転しやすくなっている。だから反時計回りは左手に有利なのだ。右手でコンロをつけるとき、カラダを妙によじっているのではないだろうか。それは手首がそれ以上回らないので、身をくねらせているのだ。その点、左手で着火する僕はラクなもんである。スマートな姿勢で火をつけることができる。ところが、もうお気付きかと思うが、ガスコンロはつけたら消さなければならない。消すときは回転が逆になるので、右手の方がスマートに消せる。左手では消しにくいのだ。一度つけたら一度消すので、回すのは左右同じ回数になる。結局は左右平等なのでは?と思ったりしがちだ。ところが世の中そうじゃない。

左右の違いは、緊急度の違い。さきの地震だけでなく、ナベがふきこぼれているときなど、とっさにガスコンロを消さないと危険だ。そう、ガスコンロの右回り(時計回り)が消す方向と決まっているのは、とっさの場合に“右手で”消しやすいようになのだ。つけるときより消すときのほうが緊急度が高いのである。歩いていてつまづいたときなど、とっさに左手が出てしまう僕の場合、いざ緊急のときには、はたしてどちらの手でガスを消すのだろう?やはり左のような気がする。それでまごまごして、ほんの一瞬の遅れが災害をまねくかもしれない。それを考えるとちょっと不安だ。このように左右の違いは生命にかかわることもある。左利きの人が自己防衛を心がけるのは必須だが、ガス機器をつくっているメーカー側もこの点、多少でも考慮していただきたい。


■てぶくろ(渡瀬謙)

毎朝、最寄りの駅まで自転車で通っている。寒いので手袋は必需品だ。さて、ある日ふと思い立って、手袋をどちらの手からはめるのかと注意するようになった。意識して自分を観察してみると100%右手からはめていたのだ。意識しないようにしていても、そして最初に左手用の方を手に持ったとしても、やはり右手からはめるクセがついていた。逆からはめると違和感がある。なぜだろう?

ためしに身近にいる右利きの人にもやってもらった。すると、彼らは左手からはめるではないか。これは利き手に関係がありそうだぞ。ちなみにはずすときはというと、これは反対に利き手側からはずすようなのだ。つまり瞬間的にせよ、利き手の方が手袋をしてない時間が長いといえる。左利きの僕が右手から手袋をはめるということは、利き手の自由時間を長くしておきたいということではないだろうか。

とくに駅をつかうときは、切符を買ったり、定期を出したりと利き手で細かい作業をする機会が多い。そんなときは利き手の手袋をはずして、お金を出したりすることになる。温かい缶コーヒーのリングプルを開けるときも、利き手の手袋をはずすだろう。そういう日々の生活から手袋をはめたりはずしたりするときのクセが生まれたと僕は考える。また利き手側をより長時間自由にしておきたいというのは、危機回避の本能だろうとも思われる。

だからおそらく手袋を片方落とすときも、利き手側の方がなくなりやすいハズである。もっと言うと、ドラマの刑事モノなどで、現場に片方の手袋が落ちていたとき、それによって利き手が判別できるのではないだろうか。


■震災と日本人(河合隼雄)

阪神淡路大震災より早くも十年が経った。この間に、新潟中越地震が起こったし、最近は大津波によってアジアの国々は大災害を受け、人間にとっての天災の恐ろしさを、あらためて思い知らされたのである。

日本は地震国で歴史を見ても、何度も大地震に襲われている。これらの災害に日本人はどう対処してきたか。そして今後はどうするべきかについて、筆者は専門の「心」の問題に焦点を絞って考えてみたい。

阪神淡路大震災の一年前にロサンゼルス近郊で大地震が生じた。このためもあって、筆者が欧米の臨床心理学の友人たちと話し合うと、この比較が話題になった。そして、そこには実に明瞭な対比が認められた。まず、米国では相当な略奪や暴動があったが、日本にはまったく生じなかった。あれだけの災害が大都会で生じ、略奪や暴動が一件もないのは、むしろ稀有なことで、日本人はこれを誇りにしていいだろう。

この点を大いに賞賛され喜んでいると、「それに反して」と出てくるのが、日本政府の対応の遅さである。米国大統領は震災の翌日に現場に来て、復興のための特別予算について言明している。日本の総理の対応はそれに比してあまりにも遅い、というのである。

ここで、日本の総理を非難しても意味がない。むしろ、先に述べた米国と日本の比較の明暗の根本に共通項があることを認識するべきだと思う。それは端的に言うと、人間の生き方であり、人間関係の在り方である。

日本人の場合、見ず知らずの人に対しても必要なときは、心が通じ合うような一体感が生じる。この際、あまり言語的表現を必要としない。これがうまく作用すると、震災のときに、見ず知らずの人たちの間にも信頼関係が生じやすく、乏しいものを分け合ったり、共に耐えたりして、感情的爆発が生じるのを防ぐことになる。

ところが、このような一体感の反映として、何事であれ、ある個人が強い決定権を持つことを嫌うので、日本では「長」と名がついても、多くの場合、自分の意思によって決定できず、結果的には集団の合議(それも長時間にわたる)によらねばならない。これも長の独善を防ぐよさをもつが、危機状態においてはマイナスになるのは、先の米国大統領と日本の総理の比較を見るとわかるであろう。両者の決定権には大きい差がある。

ここで日本の総理を大統領と同じにしろ、などという気はない。今後のことを考えるとき、われわれはその難しさをまず認識すべきである。つまり、日本人のもつ人間関係の在り方を保持しつつ、危機状態においては、それを破り、リーダーの即断即決を可能にする方法を考えておく。そして、日本で「長」となった人は、危機が生じた場合、通常のパターンと異なる動きをしなくてはならない、という覚悟と心の準備をしておく、ということになろう。

筆者は日本人がよくこの事実を認識し、明確に意識して努力すれば、このようなことは可能であると考えている。今後、災害について考えるときに、日本人全体が大切なこととして認識して欲しいと思う。


■日本人はなぜ熱しやすく冷めやすいのか(やぴぴの兄)

2004年。今年を漢字一字で表すと「災」だそうだ。新潟中越地震、台風大量飛来。さもありなん。2番目は「韓」だそうだ。「冬のソナタ」「ヨン様」か。今年の一位と二位になった「災」と「韓」。一見なんの関係もなさそうで、実は深いつながりがある。それは日本人がなぜ熱しやすく冷めやすいかということをずばり言い当てているからだ。ドラマ「冬のソナタ」で人気大爆発となった「ヨン様」。成田空港でお出迎えをしたおばはんどもが将棋倒しとなって、けが人が出るほどの過熱ぶり。「冬ソナツアー」に「韓国男性との合コン」と、次から次へと飽きもせずと思ったら、ちまたのうわさでは「もう飽きてきた」なのだそうだ。「韓」の人気に火がついてまだ一年とたってないのに、まさに熱しやすく冷めやすいの典型。

熱しやすく冷めやすいといえば、きりもなく登場する新商品、新商法、新サービス。しかし最近は3ヶ月と持たない。3ヶ月持たないと言えばテレビドラマ。1年もダラダラとやるような大河ドラマはおよびでない。大事件が起こってわっと騒いだかと思えば、人のうわさも75日。次の大事件へと飛びつく。なんちゅう変わり身の早さ。いかん、いかん。

経済や情報ばかりではない。政治の世界でもつい最近まで総理大臣がころころと変わった。一国のトップがこれほど短期間にころころ変わるのは珍しいのではないか。いったい誰がいつ総理大臣になったのか。クイズに出題できるほどのありさまだ。小泉首相の登場でやっと歯止めがかかったという感じ。

もっと凄いのは宗教だ。年末になるとクリスマスをし(キリスト教)、大晦日になると除夜の鐘を聞き(仏教)、年が明けると神社にお参り(神道)、子供がせがめばお年玉をやる(儒教)。節操のなさ丸出し。しかしながらそうであるからこそ平和な日本。これが「神さまはひとつ」の一神教が支配していたら、今ころ血の雨、殺戮の雨が降っていることだろう。天皇教という一神教が支配していた太平洋戦争時代を見ればそれはあきらかだ。ひとつの神さまにこだわらない。あっちに神さま、こっちに神さま、八百万の神は、日本人が熱しやすく冷めやすい国民性からきたものだろう。

では日本人はなぜ熱しやすく冷めやすいのか?それは今年の漢字「災」に深くかかわりがあるのではと見ている。

今年の災害映像を見ていると、せっかく長い間築き上げてきた財産(住宅、家財)や手塩にかけて育ててきた田畑や家畜が地震や台風によって一瞬にして崩壊してしまう。こんなことに遭遇したら人は「今までの努力はなんだったのか!」と思うのが自然である。しかもこういった経験は今が初めてではない。日本人が先祖古来からずっと経験してきたことなのだ。その証拠に日本には長く高層建築の技術が育たなかった。高層建築の技術が育たなかったのは日本人に技術がなかったからではない。日本は世界に稀に見る技術大国である。例を挙げると高速鉄道。日本には「新幹線」、フランスには「TGV」があるが、これらが世界の一、二のスピードを誇っているからといって、同じ土俵で語ってはいけない。なぜなら「TGV」は平易な地形を直線的に横断しているからである。一方「新幹線」は山あり谷ありの複雑な地形を曲がったりくねったりして猛スピードで突っ走る。これを比較しただけでもいかに日本の技術が並みはずれているかがわかると思う。

その日本が長く高層建築の技術が育たなかった最大の理由は、台風などの長雨で地盤がゆるく、しかも地震が多発する国だったからである。日本建築が木造なのは建築資材となる森林が多かったから、湿度が高かったからというのもあるが、台風や地震でつぶれても再建しやすかったからというのもあるのだろう。建築物というのは消耗品だったのだ。

せっかく作ったものが地震や台風にもっていかれてしまう。ならば消耗品ですまそう。そう考えるのが合理的である。だから日本人はいつしか熱しやすく、冷めやすくなった。ヨーロッパ人のように何百年とかけたプロジェクト(欧州共同体)、何百年とかけた建築物(聖家族教会)などない。すべて目先のことばかり。それでいいのか、それでいいのだ。日本列島がモンスーン地帯にあり、日本列島の近海に太平洋プレートがあるかぎり。


■「リルケ詩集」(阿部謹也)

私は四十年以上ヨーロッパの中世史を学んできたが、それはヨーロッパそのものに関心があったためというより、明治以降の日本に決定的な影響を与えてきたヨーロッパの文化に関心があったためである。いわば自分の生き方を探るためにヨーロッパを対象としてきたことになる。

はじめは中世史家ヘルマン・ハインペルの研究の方法に惹かれ、彼の研究だけでなく、現代社会の中でのハインペル自身の生き方にも注目していた。しかし、私はドイツに留学してからは一地域の歴史を中世半ばから宗教改革まで描き、かの地の中世史研究を尊重しながらも、自分の方法でその地域の歴史をまとめてみた。それが私の処女作であった。その地域の近代史をあるドイツ史家が描き、その地域の全史は一応完結している。しかし今ではハインペルの方法にも、自分の中世地域史の方法にも満足していない。

ところで日本の近代詩もヨーロッパに対する憧憬を表現してきた。しかしその接近方法は当然のことながら歴史家の場合とはかなり異なっている。高村光太郎や金子光春はみずからヨーロッパを体験し、その体験の中から対象を描いている。そのために歴史家の描くヨーロッパよりも直接私たちに訴えるものとなっている。

歴史家はヨーロッパの研究者の方法をそのまま受け入れ、かの地の歴史像に参加する形で描いているために日本人としての叙述という特性は見られなくなっている。それで良いという人もいる。しかし私はそれでは満足できない。ヨーロッパを日本人の視点で捉えたいからである。

その中でも一番大きな課題は個人のあり方である。欧米人なら誰もが認める個人のあり方はW・H・オーデンの詩に表現されているという。

「私の鼻先三十インチに 私の人格の最前線がある。 その間の未耕の空間は私の内庭、直轄領 枕を共にする人と交わす親しい眼差しで迎えない限り 異邦人よ 無断でそこを横切れば 銃はなくとも唾を吐きかけることはできるのだ。」

日本人にはこのような個人の意識は受け入れられないだろう。しかしヨーロッパにもそれとは異なった個人の意識がある。それはライナー・マリア・リルケの詩に示されている。私は『若き詩人への手紙』をはじめとして長い間リルケを読んできたが、『形象詩集』の中の次の詩がもっとも印象深い。

寂寥は雨のようだ。それは海から夕闇こめた岸辺に打ち上げ、人里はなれた広野からいつも寂寥のこめた空にむかって登る。そうして空から街の上に降る。 薄明の時間を、雨となって降りそそぐ。すべての小路が東雲の方角に走るとき。 期待を裏切られた二つの肉体が 幻滅と悲哀とを感じながらはなれるとき、 そうして憎み合う人と人とが ひとつの寝床に眠らなければならぬとき、 そのとき寂寥は川となって流れてゆく・・・」

寂寥の原語はアインザームカイトである。これは「ひとりであること」という意味であり、寂しさや孤独とはやや異なる。しかし日本人はそれを寂しさや孤独と受け取りがちである。リルケは「一人であること」を宇宙の現象として受け止めている。「一人であること」は人間の小さな寂しさなどではなく、リルケの詩にあるようにであり、であり、である。ここにはヨーロッパ文化のもっとも大きな成果がある。私たちがヨーロッパから学ばなければならないのはその歴史というより、その歴史を受け止めてきた詩人のなのである。

リルケはドイツの若い詩人達が生気のない現実に反抗して自然の中で自分達の境地を造ろうとして集まったヴォルプスヴェーデの風景を見てその地下に埋もれてしまった数千年前の海の様子をも感じ取っていた。今ものこる銀松の古木に満ちている騒めきは埋もれた海の騒めきと聞こえていた。このような感性は詩人が歴史の深層にまで視線を広げていった結果生まれたものなのであり、今の私はそのような感性を学び取りたいと願っている。


■目の高さを意識してみる(渡瀬謙)

とつぜんだが、写真を撮るときのコツを伝授しよう。これは友人のカメラマンに教わったちょっとプロっぽいワザだ。よく家族や友人などで記念写真を撮ったりするが、名所の看板の前で横一列に並ぶのはつまらない。つまらないのだが、かといってシロウトにいきなりポーズをつけろと言っても、すぐにはできないだろう。そんなときは、こちら(カメラマン)が移動するのである。移動といっても左右ではない、上下だ。上下のアングルを少し変えて撮影する。すると、いつもとは違った写真ができるのである。いつもと違うということは、真新しい新鮮な写真ということだ。ためしに木に登ったり、地面に寝転がったりして撮ってみてほしい。“おっ、これいいね!”という写真がきっとできるはずだ。

同じことが営業の場でも言える。目の高さを変えるだけで、相手の応対が違ってくるのだ。これは私の実体験で、科学的根拠は全くないし計測もしていないので、軽い気持ちで読んでほしい。以前、私は求人広告をとるために飛び込み営業をしていたことがある。始めたころのパターンは、「会社に飛び込む→受付にあいさつする→断られる→帰る」だったが、“目の高さを変える”を意識して使うようにすると、「会社に飛び込む→受付にあいさつする→話を聞いてもらえる」に変わったのだ。まあ、全部が全部ではないが、少なくとも即座に断られなくなった。その具体的な内容とは‥‥

女性を見上げるようにする。

ある程度の規模の会社には、受付がいる。そしてほとんどが女性だ。女性は一般的に男性よりも背が低い。つまり男性と話すときは日常的に見上げることが多いのだ。それが女性の普通の光景である。そこで私は、あえてしゃがんで、女性に見おろされながら話をしてみた。ただ単にしゃがみ込んでも不自然なので、カバンを下に置き、そこから資料を出すフリをするのだ。ただそれだけなのだが、相手にとっては新鮮な感覚なのだろう。しっかりと話を聞いてくれたのだ。最初は偶然しゃがんで話したのだが、ためしにその後もやってみると偶然とは思えない効果があった。なにも飛び込み営業ではなくても、いつもの顧客と話をするときでも有効だ。靴ひもを結び直しながら話しかけるのもいいだろう。簡単なので試してみてほしい。

逆に女性の場合は、男性を見おろしてみよう。これは立ち話のときはむずかしいので、座っているときに使う。お互いに座っている場で、資料を説明するときなどに、ちょっと立ち上がり、中腰になって横から説明するのだ。場面によってはむずかしいときもあるが、打ち合わせの場で一度でもいいから上から話しかけるタイミングをつくってみてもいい。これも男性にとっては新鮮なのである。ただし失礼にならない程度にしなければならないが。意外なことやいつもと違うことを演出すると、人は思った以上に反応してくれる。いろいろな角度から自分を魅せる工夫をしてみてはいかがだろうか。


■フランス革命とは何だったのか(呉智英)

新聞に出ていたデパートの広告には、思わず笑ってしまった。「祝フランス革命二百周年、ワインと輸入雑貨フェア開催」ときた。たしかにこの七月はフランス革命二百周年だが、ワインやハンドバッグや香水がフランス革命と何の関係があるのだろうか。そう言えばこの十月は支那革命四十周年である。これまたどこかのデパートがウーロン茶や老酒のフェアをやるのではないかと思う。

しかし、このようなことは、やっている当事者も便乗商法だと割り切っている。フランス革命と何の関係もないことはわかった上でのことである。咎め立てするのは野暮というものだろう。

これと反対なのが、便乗などとは縁遠そうな「良識ある」新聞コラムである。今年初めの1月17日付け朝日新聞の論説委員コラム「窓」には、「革命二百年」と題がつけられている。署名〈長〉氏は、フランスでの記念行事を紹介し、「注目したいのは、お祭り騒ぎばかりでなく、革命の産物である『自由、平等、博愛』という理念が今日の社会でどのように具現化されているか、という議論もさかんなことだ」と述べ、「歴史から多くを学ぶ」「歴史にこだわる心を大切にしたい」と結んでいる。

これはフランス革命便乗フェアより数倍罪が重い。この良識ある論説委員は、便乗商法だと承知して言っているのではない。本気で良いことを言っているつもりなのだ。この論説委員によれば、フランス革命は虐げられ苦しめられた民衆が、自由、平等、博愛を求めて立ち上がった美しくも感動的な事件だということになる。だが、近年、アナール学派などの社会史、文化人類学、宗教学を取り入れた研究が明らかにしつつあるフランス革命の実像は、そんなソボクな勧善懲悪の事件ではない。人間の持つ不条理性や逆説があらわになったと言っていいほどの不可解な事件なのである。これも一種の便乗ではあるが、このところ日本でもこうしたフランス革命の新研究の好著が何冊も出ている。最新のものを紹介しておこう。

まず、日本人の手になる立川孝一『フランス革命と祭り』。立川は、昨年出たM・オズーフ『革命祭典』の訳者である。

本書第一章は「五月の木」から始まる。ヨーロッパには古くから、活力、死、再生のシンボルとして木があった。長い冬が終わった春、広場の大きな木の下で、人々は祭りをし、またある時は異分子をしばり首にした。しばり首を含む、この祭りの延長線上にフランス革命がある。フランス革命を祭りと見る視点は、二十年前のルフェーブルからあったが、本書は、日本人が書いただけに、我々にはとっつきやすく理解しやすい。革命が、良識人の予期する市民運動のもうちょっと規模の大きなものなどとは全く次元の違うものだとわかる。大量に収録された版画や模式図を見るだけでも既成イメージは一新されるだろう。

もう一冊は、アメリカの女性歴史学者リン・ハントの『フランス革命の政治文化』である。本書で、ハントは、革命を文学作品のような一つのテクストと見る。テクストは、作者の意図の単純な反映物ではなく、意図の挫折や変形をも含む成立物である。革命をこう見る時、狭義の政治以外の文化や社会状況に目がいくのは当然だろう。本書でも、奇妙な宗教的熱狂を帯びる革命祭典や革命シンボルの話がたくさん出てくる。準専門書のため、とっつきは悪いが、論理は精密である。

本当の意味で「歴史にこだわる心」があるのならば、フランス革命とは何だったのかから始めなければならない。


■人類にいたる動物の歴史(香原志勢)

私たちは、人類は生物であるという認識にたって、これを考えるべきであるが、この場合の生物とは何であろうか。それは単に「生命を有するもの」と見なし、生命の本質をタンパク質や核酸のあり方だと規定しても、それは人間研究にはなんの役にも立たない。むしろ、生物の重要な特徴は、個体維持種族保存にあるといえる。生物の形態と機能と生活とは、このことによってかなりよく説明されうる。は生物の基本問題であるが、これは前記の二大特徴の具体例であるとともに、現代文化のうちでも、もっとも根源的な人間的現象といえよう。

つぎに、人類は「動物である」ということができるが、その場合の動物とは前進運動(ロコモーション)の可能な生物であると規定できる。動物という日本語はアニマルの訳語であるが、その点で実に的確に動物の特徴をつかんだ表現である。水中での前進運動は魚類によって遊泳という前進運動形式で完成された。それは、スピードや航続距離の点で、軟骨魚のサメや硬骨魚のブリやマグロにおいて頂点に到達した。魚類の体は、全身これ運動器とでもいえるように体幹の筋肉が発達した。

その後、生息圏の拡大にともない、両生類や爬虫類が登場する。陸上生活をいとなむために、重力に拮抗する体構造を有するが、同時に魚類のムナビレ、ハラビレに対応して、前肢、後肢が形成される。その発達は貧弱であり、初期の段階では四肢は匍匐の際の一つのひっかかりとしての役を果たすにすぎない。やがて、四肢は前進運動器として漸次分化し、強大になる。哺乳類ではそれはとくに発達し、歩行が軽やかになるばかりでなく、疾走も可能になる。四肢の全身に対する比率も大きくなり、とくに長さを増す。脚のはこびの軌跡は半円形を呈し、いちじるしく能率的になる。

体幹は前進運動から解放され、そのため背部などにおける筋肉の量ははるかに少なくなる。歩行中イヌなどは首を回して側方や後方をふりかえる余裕すらできる。このような運動器の進化のあとは化石化した骨格から推察できる。体の円滑な運動を可能ならしめる筋肉は、進化につれて分化していくことが、比較解剖学的に追跡できる。

一方、鳥類は非常にすぐれた前進運動を実行する動物であり、そのほとんどが飛翔に頼る。全身の形態もすべて飛翔に適応し、前肢は翼となり、爬虫類の鱗に相当して羽毛が全身に分布する。骨は軽量強固な骨質から成る。すべてが飛翔に適する形態となるため、多種類に分かれている鳥類も、その骨格に関しては変異の幅が比較的狭い。速度に関して飛翔は非常にすぐれた前進運動様式である。動物の進化の歴史、とくに脊椎動物の進化の歴史は前進運動の歴史でおきかえることもできる。そして、それは地球の重力に抗う形で進んできたといえる。その点では、一般に、鳥類の方が哺乳類よりも先を越しているようである。鳥類は進化の道の、一つの極にいるともいえる。

しかし、質的側面からみると、もっともすぐれた前進運動様式は、人類の採用している直立二足歩行であろう。これは霊長類一般のいとなむ樹上生活に由来するもので、前肢と後肢が分化し、前者を用いて枝から枝へと移動する一方、体幹が直立し、後肢のみを用いて歩行できることから生じたものである。類人猿段階から人類へと化成されていくにつれ、直立二足歩行は機能的にも、形態的にも完成されていった。この種の前進運動は、速度こそ四足歩行や、とくに飛翔にくらべて劣るが、上肢が解放され、道具使用が可能になるという大きな利点を生みだした。このことは脳の発達とあいまって、人類の文化発展をもたらすものである。


■人命軽視は国土面積に正比例する(やぴぴの兄)

中国で起こった反日ブーイング問題で、台湾出身の金美齢が中華思想について語っていた。

日本に対する反日感情、台湾に対する威嚇、チベットに対する宗教弾圧、香港に対する高圧的態度。それらは全て中華思想にあると。中華思想とは中国は偉大なり、日本や韓国、台湾、香港、チベットは中国のしもべなりといった中国中心主義のことを指す。その中華思想は他国を侵略し、そのたびに国土を拡大していった中国の歴史から培われたもの。だからそういった歴史を持つ中国は人命軽視のDNAがある。ポルノを観ただけで死刑になった。という笑い話のような本当の話もそんなところから来ているのかもしれない。

石原都知事も文化大革命をはじめとして自国民をあれだけ大量に虐殺した国は中国だけとか言っていた。もともと多くの民族が寄り合ったような国だから、村が違えば言語が違う。だから違う言葉を話すよその村の人間は人間とは見なされなかった。だから平気で人を殺すのだとも語っていた。

とかく国土面積が広いということはそれだけ他国、他民族を侵略し、人をたくさん殺してきたあかし。

同じようなことはロシアにも言えるのではないか。ロシアもその広大な国土を支配するためにたくさんの人を殺してきた歴史があるはずだ。それが今の人命軽視のお国柄につながっているのだろう。最近の事例を見ても、例えばテロリストによる劇場占拠、学校占拠事件。テロリストとの銃撃戦の末、人質が数百人死んでもなんの問題にもならない。事件解決のためには多少の犠牲はやむをえない。といったところか。これが日本だったら、これだけの死者を出した救出作戦の是非を問われて政権が倒れかねない。

日本、ドイツは戦争で負けたため、南京大虐殺、アウシュビッツ。各々の非道で世界中から叩かれてはいるが、その手の非道は、中国、ロシアの歴史を調べてみればたくさんあるのではないか。

人命軽視は国土面積に正比例する。


格言はうそをつかない。


■伝統芸能における感情表現

能と歌舞伎。どちらも日本を代表する伝統芸能であるが、両者には明らかに異なった特徴がある。それは顔の動き、すなわち表情ではないだろうか。表面的な印象が似ているからなのか、歌舞伎の隈取りと能面が似たようなものとして取り上げられることもある。しかし隈取りは、役者の表情を生かしつつ、役の性格や感情を誇張するものである。これに対して能面は、役者の顔が表に出ることはけっしてない。あくまで面が顔なのだ。

「能面のような顔」という言葉に象徴されるように、能面は無表情の代名詞とされている。それは本当だろうか。演劇の分野において無表情であることは、マイナス要因にはならないのだろうか。むろん仮面劇は能だけではない。西欧にも、他のアジアの国々にも古くから仮面劇は存在している。ただしそれらは皆、過剰と思えるほど動的に振る舞うことで、顔の見えないマイナス分を補っている。

では、能はどうか。面による感情の表現方法は単純で、基本は次の三つしかない。

・面を照らす―わずかに仰ぐ(喜びを表わす)

・面を曇らす―わずかに俯く(悲しみを表わす)

・面を切る― 一瞬鋭く角度を転ずる(怒りなどの激情を表す)

非常に静的である。固定された表情と限られた技法による表現は、むしろ演技を最小限にしている印象すら与える。

それでは本当に、能は表情の表現にとぼしい芸能かといえば、答えは「NO」である。実際、顔の印象ほどそのつどちがって見えるものはない。顔の角度によって、あるいは、光のあたり具合によって、印象はまったく変わってしまう。つまり人は顔面の筋肉の伸縮のみで表情を認識するのではなく、外界のさまざまな要素をも含めて、初めて表情として受け取るのだ。これと同じことが能についてもいえる。面を照らす行為は、顔に光をあてて明るい印象をつくり、逆に面を曇らすのは影をつくって暗さを強調したいがためだ。一見工夫のなさそうに見える表現方法が、実は非常に理にかなったものであることがわかる。

また、こうもいえる。印象とは多分に受け手側の主観に左右されるものである。たとえば、二人の人間が同じものを同時に見たとしても、それぞれの感性が異なれば結果はちがってくるだろう。

能に関しても、そのわずかな感情表現を見過ごすか、しっかりと受け取るかは、受け手しだいということだ。感性が無表情な能面にも、無限の表情を見てとれるはずである。もしかしたら固定された能面の顔は、すべての表情を内包した、完成された顔かもしれない。


■危険の回避は危険との共存共栄(やぴぴの兄)

原発に関しては、やぴ兄的には積極的に賛成も反対もしないという立場。いろいろ言われているが、電気の供給にコストがかかりすぎたり、電気エネルギーの供給効率に問題があるとすれば原発はやめるべき。しかし気になるのは、原発反対とか言っている連中は「原発は危険だから」やめるべきとかぬかしていること。これは危険なものを排除しようという論理。

そういえば最近、回転扉は危険だから撤去しようとか、遊具は危険だから撤去しようとか、騎馬戦は危険だからやめようとか。何かと危険なものは排除しようとの風潮がまかり通っている。しかしながら危険だ、危険だといって人間にとって何が危険かって、それは人間自身ではないのか。だいたい歴史を振り返ってみても人間が原発の事故で死んだ数と、人間が人間によって殺された数とでは、後者の方が圧倒的に多い。だとすると危険なものを排除しようとして考えてみた場合、まず人間から排除しなくてはいけない。反原発運動家はそこんとこをどう考えているのかな。

だいたい人間が作ったものに安全なものはない。飛行機、車、鉄道、船舶。事故が起これば当然死者が出る。原発と同じだ。「昔から二階は危険なものだった」は上田篤の説であるが、これかすると二階建ての住宅はおろか高層ビル群はすべて危険である。撤去すべきだろう。包丁、はさみ、カッターナイフ、シャープペンシル、ドライバー。すべて凶器になる。薬品投与、医療行為。身体生命に及ぶ危険な行為だ。法律、警察、裁判。ややもすると冤罪を生み、無実の人の命をも奪いかねない。危険である。かように人間社会とは危険と隣りあわせで生きているわけで、危険を排除しようと思ったら、人間社会は成り立たない。だから人間にとって大切なのは危険回避能力危険をコントロールする能力なのだ。

人間は常に危険にさらされてきた。人類の歴史は危険との戦いだったといってもいい。先に書いたように、人間は人間に殺される危険がある。またライオンやトラなどの肉食動物に食べられる危険もあった。さらに都市化が進む以前の人間の生活は、厳しい自然環境の前にさらされてきた。あるときは厳冬の中で凍え、またあるときは暑さの中で倒れ、台風が来れば家屋は吹き飛び、洪水によって流され、噴火が起これば町は一夜にして消えた。農作物が不良になると途端に飢餓に見舞われ、病気が蔓延すれば人はなすすべもなく倒れ死んでいった。人間は自分の身に危険が降り注ぐたびに、その中で危険回避能力を身につけ、安全を手にしていったのである。

これが「まわりから危険なものを排除しよう」といった論理が助長されるとどうなるか。間違いなく危険回避能力の劣った人間を生むことになり、逆に無菌室で育った患者を外部へ放り出すような危険を与えかねない。イラクで人質になった5バカは言うに及ばず、危険を承知で中州に取り残され、洪水に流されていったバカ家族も記憶に新しい。事故が起こって人が死んだら、なんでもかんでも行政の責任にしやがる。線路の金網に空があいていたら行政の責任。池や沼に柵をしていなかったら行政の責任。昔の農家は危険ともいえる肥溜めや井戸を放置しておいてあたり前だったが、それでも人は支障なく生活をしていた。

朝霧の花火祭りの中。歩道橋で将棋倒しとなって死亡した事故。あれも行政の責任か?事故当時の映像を見ると歩道橋の状況はあきらかに異常。あれを見て親たちは「やばいな」「歩道橋を渡るのは危険だな」と思わなかったのだろうか?子どもが死んだ責任は危険回避能力を発揮できなかった親たちにもあるのではないか?だいたい祭りで人が死ぬのは当たり前なのだ。なぜなら祭りは集団的狂気だからである。狭い歩道橋の中で、押せや押すなのおしくらまんじゅうは集団的狂気以外のなにものでもない。岸和田のだんじり祭り、リオのカーニバル。毎年のように死者が出ている。フランス革命、一向一揆、関東大震災の朝鮮人虐殺。すべて祭りである。祭りは大量の死者が出やすい。このことを頭のすみっこにでも入れておけば、あるいは子どもたちの死は回避できたかもしれない。知識や知恵も危険回避能力のひとつだ。

かように危険を回避する、安全に暮すには常に現在の危険を認識し、それに対処することが必要だ。それは危険を排除することではなく、危険と共存共栄するぐらいの心持ちが必要なのである。


■呪文と音楽(長岡鉄男)

開けゴマ、ヘンシーン、シュワッチ、ウーヤーター、チチンプイ、ケンゲンコーリ、アブラカダブラ、ナムサッダルマオンダリギャー、オムマニパドメフム、シャザーン、六根清浄、エロイム、エッサイムわれは求め訴えたり・・・呪文を唱えると扉が開き、姿が消え、変身が起こり、天変地異が生じ、石ころが金塊に変り、悪魔が現れ、悪魔が去る。子供の頃は誰でも呪文にあこがれたものである。しかし、呪文が何の効果も見せないことを悟ると、やがて呪文に見切りをつけて常識的なおとなの世界に・・・どっこい、呪文の威力はそんなにもろいものではない。呪文が真価を発揮しだすのはむしろおとなになってからだ。なんと日本人の生活を支配しているのは呪文なのである。

呪文とは呪術を行う時に唱える言葉、または言葉に準ずるものである。呪術を行うには種々の準備が必要だが、すべての準備が整ったところで、呪術を作動させるキーワードとなるのが呪文である。祭壇を設け、悪魔の像を置き、十字架を逆さに立て、黒いローソクを灯して魔女のスープを煮詰めてみてもそれだけでは何も起こらない。呪文を唱えて初めて呪術が作動開始するのである。だから、略式の呪術は準備なしで呪文だけで間に合わせるというのもある。

呪文を研究してみると面白いことがわかる。第一は、呪文は一時代以上前の言葉を使うべしという原則だ。現代用語は不可である。欧米人の呪文はラテン語だ。古代ローマ人の呪文はギリシャ語だったし、インド人の呪文はサンスクリットだった。日本人の呪文は今なら文語体でさえあればOKだが、戦前の呪文は漢文や戦国時代、平安時代の言葉でないと効力を発揮しなかった。仏教の経文も呪文の一種なので、サンスクリットやパーリ語、中国語のなまったものを使っている。だれにも意味はわからないのだが、だから呪文としての力が強い。アビラウンケンソワカ、オンナボキャーベーロシャノー、ナムカラタンノトラヤーヤー、とくれば効きそうな気がする。キリスト教でも「今いまし昔います主たる全能の神よ」と呼びかけなければダメだ。「昔からずーっとおいでのゴッドマスターさんよ」では効かないのだ。アッラー・アクバル。クワバラ、クワバラ。

呪文の条件第二、一字一句たりとまちがえてはいけない、順序を前後させてもいけない。呪文が効かない場合を調べてみると、たいてい準備段階でミスがあったか、呪文が正しく唱えられていなかったかである。日本神話の国生みの章では、イザナミが「アナニヤシ、エオトコヲ」続いてイザナギが「アナニヤシ、エオトメヲ」と呪文を唱えて失敗している。順序が逆だったのである。開け豆、開け百合、開けリンゴ、では扉は開かない。

呪文の効用、天変地異、変身、魔術、魔除け、そういったものは今は信じる人が少ない。超能力や血液型占いを信じる人なら呪文による変身も信じるかもしれないが、ふつうの人はまず信じない。現代の呪文の効用はもっと別なところにある。自己暗示集団催眠、それとサイコシャッター効果だ。呪文には外部から入りこんでくる言葉や思考をシャットアウトする効果が大きい。更に自分の思考そのものを他人の目からかくす効果も大きいのである。ナンマイダ、ナムミョーホーレンゲキョー、悪しきを払いてタースケタマーエ、いずれもよくできた呪文である。

サイコシャッターとしての呪文は実に広範囲に見られる。自分の考えを読まれないために、他人の考えをはねつけ無視するために唱える呪文。その典型はシュプレヒ・コールだ。なんでも反対、かんでも反対ときりもなく繰返して唱えていると三十分から一時間ぐらいで効き目が現れてくる。二時間も唱えていれば完璧だ。ヘルメットをかぶった連中が駅前でやっている「われわれは、われわれの、われわれが、われわれに・・・」という演説も典型的な呪文の一種である。休みなく喋ること、相手に口を開かせないこと、相手の言葉や思考をシャットアウトすること。決して反論してはいけない。無視すること、聞かないこと、耳を閉じること。こういった弁論術は、実はギリシャ時代に確立しているのだが、案外知られていないようだ。だから、昔はテレビ討論会などで、この種の訓練を受けた学生にマイクジャックされてあわてふためく光景がよくあった。最近はそういう企画がなくなったのでつまらなくなった。「われわれ屋さん」に対抗するのは実は極めて容易である。耳に栓をしてマンガでも読んでいるか、いねむりをしていればよい。もっともそれができるのは大物だという説もある。国会でもいねむり議員やいねむり大臣がいるが、立派だと思う。国会の討論というのは、筋書きのきまっている呪文合戦にすぎないので、大目玉をあけて聞いているやつはバカなのである。

『眼はいつでも思った時にすぐ閉じることが出来るように出来ている。併し、耳の方は自分では自分を閉じることが出来ないように出来ている。何故だろう』(寺田寅彦、柿の種)。

そこで呪文によって耳を閉じることを考え出したわけだ。実は筆者も自分用の呪文は持っている。これを唱えていると質の悪い音が耳に入ってくるのを防ぐことができる。感心する程のことではない。誰でも何通りかの自分用の呪文を持っているはずなのだ。ナムアミダブツ、ナンマイダもそのひとつだが、他には「チキショーメ」とか「コンニャロ」とか「クソ」とか「アリガタヤ、アリガタヤ」「イロハニホヘト」「ドッコイショ」といったものがある。

いや、数え上げたらきりがない。パチンコ屋で絶えず口の中でぶつぶつ云いながら弾いている人がいるが、これも呪文である。幼児がお絵描きしながらぶつぶつ云ってるのも呪文だ。更に徹底すると、ヘッドフォンで耳をふさぎながらぶつぶつつぶやくようになる。徹底したサイコシャッター式呪文。現代の呪文はウォークマンであり、BGMであり、ディスコの轟音である。音楽そのものが呪文である。だから最近のポップスの歌詞は発音不明瞭、意味不明、そこがいいのだ。もっともクラシックの歌詞でもわかって聞いている人はいない。わかない方がいい。わかるとあまりにも低俗な内容にがっかりしてしまう。更によく考えてみたら、古代の音楽は呪術の一部として発生したものだった。音楽は百万年前から現代まで、常に呪文だったのだ。ホンマカイナ?


■金言、銀言、銅言、無酸素銅言(長岡鉄男)

○大衆は常に圧倒的にバカである。

○信ずるものはだまされる。

すべての戦争は宗教戦争である。

○人は猛獣として生まれ、植物として死ぬ。

○歩き出してから行先を決める。

○誤った知識を常識と呼ぶ。

○死なずにいることと生きていることとはちがう。

○自分以外は他人である。

○自分の無能ぶりに気がついてはいけない。

○機械も人も基本的には同じである。それに気付いていないのが機械である。

○名前と外観が中身を決める。

○悪は強く、善は弱し。

○ウソを見破れる人は偉いが、見破れないウソをつく人はもっと偉い。

○正義とは過半数のこと。

○断じて主張すればあらゆることが真実となる。

○ない人はあるふりをし、ある人はないふりをする。金もひまも才能も秘密も。

○情報収集をやめれば情報の方で押しかけてくる。

○手段が目的となることを文化という。

○過程を楽しむことを趣味という。

○自分のことは他人がやる。

○他人のことは自分がやる。

○金持ちの息子は革命家になり、革命家の息子は金持ちになる。

犯罪の影に宗教あり。

○プロには任せられない。

○人間は顔が命です。

○医者は病人を作り、弁護士は犯罪者を育てる。

○親子は他人の始まり。

○わからない時は叩いてみる。

○落ちこぼれも一種のエリート。

○誰でも所詮はデモシカ。

○涙は鼻水の原料。

○健康法が寿命を縮める。

○投票率は文化度に反比例する。

○極左の左に極右がいる。

○暴走も脱走もできない悲劇。


■会うは別れの始まり(やぴぴの兄)

インターネットは「出会い系サイト」に代表されるように、見知らぬ人との出会いが大きなメリットとされている。しかしながら「会うは別れの始まり」とも言われている。インターネットはウィン95で爆発的に普及してからまだ10年ぐらいしか経ってないので、「出会い」ばかりが強調され「別れ」に対してはあまり語られない。

現在HPの管理者は40、30、20代が中心だ。あと20年、30年後。HPの管理者がHPの運営をずっと続けた場合、HP上に「別れを告げる」文言が躍るはずである。なぜなら何人も死期が訪れるからである。HPの管理者もその例外ではない。そのHPを定期的に訪れている来訪者も管理者との付き合いが長ければ20年、30年になるはずである。その場合HP上に「別れを告げる」文言を見た来訪者の多くは、付き合いが長ければ長いほど、付き合いが深ければ深いほど、PCの前で激しく落涙するはずである。あと20年、30年経てば、PCの前で落涙する人々の姿はほぼ日常と化す。

インターネットが登場する以前は家族や親戚あるいは友人、会社の同僚など。よほど社交性のある人以外は、人の死別で落涙する回数は限られたものとなっていた。しかし現在我々は人類史上初めてと言っていいぐらい、人の死別と接する機会の多い《環境》になっている。いまはそれを意識することはない。しかし20年、30年経てば、人は否応無しにそれを意識するはずだ。もしその時その場面になって人はなんと語るだろう。「こんなに出会いがあって私の人生は幸せだった」と語るのか「次から次へとなじみのHPが閉鎖されさびしい」と語るのか。

いずれにせよ我々は人類が今だかつて経験したことのない「数多くの別れ」を体験する最初の世代になることだけは間違いない。


■政治を見失わないために(呉智英)

新聞や雑誌や、あるいはちょっと教養あり気な会話などで、政治という言葉を見聞きしないことはない。政治という言葉は、ものすごく当たり前に使われているのである。だが、それでは政治とは何か、と問われると、たいてい一瞬考え込む。ややあって返ってくる答えは、政治とは思いやりでしょうねぇ、とか、政治とはマゴコロである、とか、政治とは参加です、とかいったものである。しかし、これらは、福祉とか代議士の倫理とか住民参加とかいう、国家が日常生活と接点を持つ分野の、しかもその一部のことにすぎない。こんなものが政治そのものであるとは思えないのである。

だが、実際には、ほとんど誰もが政治というものを、こういうものだと考えるようになっている。「意識の低い人」は、飲み屋でちびりちびり安酒を飲みながら代議士の不実を批判する政治論をし、「意識の高い人」は、新聞の論評やら解説やらを引用しつつ政策への住民意思の反映を主張するという政治論をしている。我々は、政治というものをこういうふうに考えるのに慣れてしまっている。

しかし、次のように考えてみた時、こういう政治のとらえ方で何かが解明できたり有益な提言ができたりするだろうかという疑問が湧く。すなわち、ソ連が攻め込んできて日本を支配した場合、ということだ。そこで行われる政治に、思いやり政治論やマゴコロ政治論や住民参加政治論が何か意味を持つであろうか。まったく否。何の意味も持たない。持つとすれば、ソ連の支配が100年も200年も、日常的に続いた後のことであろう。その時、また人々は、政治とは思いやりです、とか、マゴコロです、とか言い出すであろう。

もちろん、ソ連が現実に日本に攻め込んできたり支配する可能性はほとんどないのである。むしろ、アメリカのほうが、かつては日本の一部(沖縄)を支配していたのである(北方領土は、支配というより占領に近い)。そこでは、政治は、支配という意味があらわであった。かつての沖縄では、政治といえば、米軍に無関係にはありえなかったのだ。

政治というものは、このように、権力・支配の問題なのであり、その日常型が「行政」なのである。我々が慣らされている、思いやりやマゴコロや住民参加は、行政=日常政治のそのまた一部分なのである。

では、支配・権力とは何か。

それは、人が人を動かすということである。まず、棍棒、鉄砲、牢獄、食糧占有といった物理力。そして大は愛国心から、小は、家族内の命令指示といった、人を動かす心理力。これらによる、人が人を動かすことの集中形態・制度が権力と見ていいだろう。だからこそ、エンゲルスは、民族学者の知見を採り入れて、家族や私有財産(何故モノが誰かに属するということが起き、それを他の人も認めるのか、ということ)や国家の起源について研究したのであり、吉本隆明は、共同幻想(誰かと誰かの関係というものは、見えないけれど、確かにある、ということ)について考察したのである。

政治について考える、という場合、ここのところを考えなければ、実は、晩ごはんのおかずを考える程度にしか政治について考えていることにならない。むろん、晩ごはんのおかずについて考えることは非常に切実なことである。だが、だからといって、それが政治だということにはならないのである。


■日本人は幸福か(河合隼雄)

日本が敗戦を経験してから半世紀余り、この間に日本ほど目ざましい発展をした国は他にないと言っていいだろう。現在のわれわれはかつて想像もできなかったほどの豊かな生活をしている。この地球上で、飢えに苦しんでいる人や、電気も水道もない生活をしている人が多くいることを思えば、今日の日本の繁栄は、有難く感じていいことであろう。

ところで、このような状況のなかで、日本人は幸福だろうか。町を歩くと、うつむき加減に暗い顔をしている人が多いし、新聞を見ても、暗いニュースに満ちている。そして、日本の状態について嘆く論調を、あちこちに見ることができる。このような点に注目する限り、日本人全体が不幸になっているような感じがするのである。これはいったいどうしてだろうか。

もちろん、これを長く続いた不況のせいにする人は多い。日本中の「閉塞感」などについて語る人のほとんどは、経済成長のゆきづまりについて言及する。しかし、そもそも経済の「成長」ばかりを期待する態度に根本的な問題があるのではなかろうか。不況、不況と言いつつ、日本人は他の国々の人に比べると、あり余るほどのお金を持っているのだ。

経済のことを離れて、人間の在り方の問題として考えてみよう。現在の繁栄をもたらした有力な武器に科学・技術ということがある。本来、科学と技術は分けて考えるべきなのだが、日本では科学技術としてひとつのもののように考える人が多い。そのときの科学はヨーロッパ近代に起こった近代科学を範として、研究者はものごとを客観的に、つまり、その対象と無関係の立場に立って研究し、そこに因果の法則を見出す。それと技術が結びつくと、今日の電気機械のように、マニュアルに従ってボタンを押すと、機械が思うように操作され、望ましい結果が得られることになる。

これは素晴らしいことだ。しかし、これがあまりにもうまくゆくので、日本の多くの人がマニュアルに従ってちゃんとやると、何でも思いどおりにうまくゆく、と思い込みすぎたのではなかろうか。ただ、そのためには上等の機械や、よい方法を手に入れる必要があるが、それらはお金で買うことができる。つまり、お金さえあれば何でも思いのままにできる――幸福になる――と考える。

このことを端的に示す例として、子どもの不登校に悩んでいた父親から、「科学が発達した今日、ボタンを上手に押せば人間は月まで行って帰って来られるのに、息子を学校に行かせるボタンはないのですか」と詰問されたことがある。科学技術は、操作する側とされる側に関係がないときにのみ有効である。父親と息子という人間関係があるところでは、それは役立たない。

そのことを忘れて、現代人は他人を上手に操作して自分の思いどおりにすることができると錯覚しているのではなかろうか。上手い育児法に従って自分の子どもを「よい子」に育てるとか、高齢者に対するよい「対策」を見つけて、面倒をなくするとか。そして、その結果、子どもや高齢者は自分を「人間扱い」してくれないと、なんとなく感じとって、余計に悪い方向に向かうと思われる。

「人間関係」というと、話が急に堅くなる。親子の対話をどうするかなどという前に、家庭でも友人でも、とにかく「一緒に生きているんやで」とでも言いたいような感情の共有ということがあるのではなかろうか。そのような感情に支えられてこそ、人間は自分は生きていると感じられるのである。

このことを忘れて、何とか他人を「操作」したり「支配」したりして、自分の欲望を遂げるのが幸福だと思う。そして、そのために必要と考えるお金やマニュアル探しに熱心になっているうちに、先に述べたような他人との感情を共有する態度が弱くなってしまう。これでは、心は安定しないし幸福になれないのも当然である。

豊かな物に相応するだけの心のつながりを大切にすることに、もう少しエネルギーを使ってはどうだろう。足もとにある沢山の果物のことを忘れ、高い木になっている果物を取り合いするために、われ勝ちに高く登ろうといがみあっている群衆。日本人はこんな姿にならぬように、まず人と人とがつながって分け合う楽しみを見出して欲しい。


■「機関銃の社会史」評(呉智英)

新しい時代が新しい技術や道具を生む。逆に、新しい技術や道具が新しい時代を生む。この二つのことは相互にからみあっている。それが歴史なのである。火を起こす技術の発明、冶金技術の改良、印刷術の発達・・・。どれもそうだ。

新しい兵器の出現も、時代の要請であり、同時に、その時代を生む力にもなる。鉄砲の発明は、戦争の歴史を大きく変え、人々の考え方も変えた。二十世紀半ばの核兵器の発明とその二度の使用も、その後の世界の行方を決定づけた。

しかし、意外に気づかないのが、機関銃の出現とその影響である。機関銃は、単なる便利になった小銃ではない。確かに、機関銃は、単発銃が連発銃に改良された延長線上にあるように見える。一発が五発になり、五十発になり、百発になり、千発になり、一万発になっただけではある。しかし、この「なっただけ」は大きかった。

近代の陸戦は塹壕戦である。つまり、人が入れるほどの長い溝を掘り、前に土嚢を積んで敵の銃撃から身を守る。我々はこれを当り前のように思っているけれど、それまでの戦闘形態とは大きく異なっている。なぜならば、戦士の仕事はまず穴掘りから始まるからだ。土方仕事こそ戦士の必須の作業なのである。

これはまた士官の出身階層の変化にも対応している。およそ十九世紀まで、士官は世襲貴族など名家の出身者が多かった。彼らは伝統的でロマンチックな戦争観を持っていた。戦争にとって肝要なのは士気であり、フェアプレイの精神である、というように。しかし、それが塹壕戦によって変わってゆく。「戦争」は「作業」になった。

機関銃の発明と採用の間には数十年のタイムラグがある。現在のように新兵器がすぐに採用される時代から見れば奇妙なことだが、各国の軍隊はこの新兵器にただちに跳びついたわけではなかった。その性能よりもその意義が理解されなかったからである。

やがて、植民地拡大競争の中で、機関銃は広がってゆく。植民地における住民の暴動を鎮圧するのに、機関銃はけたちがいの威力を発揮したからだ。それは、機関銃が「戦闘」の道具ではなく、「殺戮」の道具だったからである。

こんな風に、近代における戦争の意味を、機関銃をキーワードにして余すところなく描き出したのが、ジョン・エリス「機関銃の社会史」である。

戦争と兵器が時代とどれほど深く結びついているか、観念的平和主義者には想像もできないだろう。本書に序文を寄せた軍隊史研究家E・C・エゼルは、こんなことを言っている。「多くの『リベラルな』歴史家が、軍事技術とそれがわれわれの生活に及ぼす影響の分析にしりごみしてきた。彼らはこのテーマが不愉快だったからである」。欧米でもそうらしい。日本ならなおのこと、そうだろう。兵器や戦争についての知識をマニアに独占させておくべきではない。十年前に翻訳が出版されたが、幸いにも絶版になることなく、版を重ねている。不幸にも、今こそ読まれるべき時が来ているような気がする。


■仏説摩訶般若波羅蜜多心経(唐三蔵法師玄奘)

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)

観音様が

行深般若波羅蜜多時(ぎようじんはんにやはらみつたじ)

知恵の行をしていたとき

照見五蘊皆空(しようけんごうんかいくう)

この世の世界は実体がないということをはっきりと実感した

度一切苦厄(どいつさいくやく)

そして世のすべての苦しみや厄災から救われた

舎利子(しやりし)

釈迦の弟子よ

色不異空 空不異色(しきふいくう くうふいしき)

形があるということは実体がない 実体がないということは形がある

色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)

形があるからこそ実体がない 実体がないからこそ形がある

受想行識 亦復如是(じゆそうぎようしき やくぶによぜ)

感覚、記憶、意識、知識にいたっても またまたかくのごとし

舎利子(しやりし)

釈迦の弟子よ

是諸法空相(ぜしよほうくうそう)

このもろもろの現象は空想である

不生不滅(ふしようふめつ)

生まれるということもなければ死ぬということもない

不垢不浄 不増不減(ふくふじよう ふぞうふげん)

きれいということもなければ汚いということもない 増えるということもなければ減るということもない

是故空中 無色無受想行識(ぜこくうちゆう むしきむじゆそうぎようしき)

実体がないということの中には 形がないまた感覚、記憶、意識、知識がない

無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)

眼、耳、鼻、舌、体、心もなければ

無色声香味触法(むしきしようこうみそくほう)

形、声、香、味、触、法もない

無眼界 乃至無意識界(むげんかい ないしむいしきかい)

眼界もなければ 意識界もない

無無明 亦無無明尽(むむみよう やくむむみようじん)

無明がないということは またまた無明がないということにつきる

乃至無老死 亦無老死尽(ないしむろうし やくむろうしじん)

老いや死がないということは またまた老いや死がないということにつきる

無苦集滅道(むくしゆうめつどう)

苦しみや執着をなくす方法

無智亦無得 以無所得故(むちやくむとく いむしよとくこ)

知もなければ得もない もってそれゆえにもともとない

菩提薩た 依般若波羅蜜多故(ぼだいさつた えはんにやはらみつたこ)

すべての人は よるがゆえにほんとうの知恵の実践行の

心無けい礙(しんむけいげ)

心にさまたげがない

無けい礙故 無有恐怖(むけいげこ むうくふ)

さまたげがないゆえに 恐怖がない

遠離一切てん倒夢想 究竟涅槃(おんりいつさいてんどうむそう くきようねはん)

遠くはなれているすべての誤った考えから 永遠の静かな境地に到達する

三世諸仏 依般若波羅蜜多故(さんぜしよぶつ えはんにやはらみつたこ)

過去、現在、未来の仏は 知恵の実践行に従ってるがゆえに

得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみやくさんぼだい)

このうえない最高の悟りを得た

故知般若波羅蜜多(こちはんにやはらみつた)

知るがゆえに知恵の実践行を

是大神呪 是大明呪(ぜだいじんしゆ ぜだいみようしゆ)

これこそ偉大なる真実の言葉 これこそ悟りのための真言

是無上呪 是無等等呪(ぜむじようしゆ ぜむとうどうしゆ)

最高の真言 これこそ比べるもののない真言

能除一切苦 真実不虚(のうじよいつさいく しんじつふこ)

苦しみは全て取り除かれる 真実でありうそではない

故説般若波羅蜜多呪(こせつはんにやはらみつたしゆ)

ゆえに知恵の実践行とは

即説呪曰(そくせつしゆわつ)

すなわち説いていわく

羯帝 羯帝(ぎやてい ぎやてい)

往き 往きて

波羅羯帝(はらぎやてい)

彼岸に往きて

波羅僧羯帝(はらそうぎやてい)

完全に到着したく

菩提僧莎訶(ぼうじそわか)

悟りそのものである

めでたし

般若心経(はんにやしんぎよう)

知恵の実践のお経


■二階(上田篤)

私が子供のころ育った家は、彦根の商家であった。それは、当時すでに、100年以上もたった古いものであった。そこの二階は、町家のつねで、天井もはられていない、低くて暗いものである。祖母はこれを「つし」または「つし二階」とよんでいた。つしは辻とおなじ意味で、もともとは、たんに高所の意であったろうといわれている。つまりそれは、天井をはったような居室としての二階をさすのではないのだ。むかしの家の「二階」というのは、みなそういうものだった。明治維新のころまで、日本の庶民の住宅には、本二階はなかなかつくられなかった。

それでは、武士階級は二階をもっていたか、というと、じつはそうではない。たとえば、ふつうのお城の天守閣は、三層、五層と立派だが、そのなかの階段は傾斜が急で、常時あがりおりできるしろものではない。私は、和服で自宅の階段をあがりおりするとき、いつもきものの裾を踏まないように苦労するが、和服は平面での移動はともかく、立体的移動にはむいていない。階段の昇降には、裾がひらいてしまってどうにもぐあいが悪いのだ。武士といえども、袴のほかに、裾をひきずる殿中着もあったのだから、そういうぐあいの悪い事情は、あまりかわりがなかったはずである。

ところで、むかしの天守閣のなかの階段をみると、上下の両脇が、床に金具でしっかり取りつけられているが、しかしつくりつけにはなっていず、いざとなればいつでも、金具をはずして切って落とせるものが多い。もともと天守閣というものは、常時、そこで人が居住するような「高城」というよりも、緊急なばあいに逃げこむ「逃げ城」であった。だから各層間の階段は仮設的なもので、いつでも切って落として、敵を防御できるような構造になっているのである。武士たちが一般に居住し、執務するところは、天守閣とはべつの下のほうにある、平家だての各種の建物であることが多い。

お寺でもそうだ。中国では寺院の堂塔の上層は、一種の展望台として眺望をうる、という要素がつよかったが、日本では、ただ下からみあげるためだけのものであった。そのいちばん象徴的なものは、法隆寺の金堂である。これは日本ではもっとも古い建築物であるが、見かけは二層の堂屋になっているのに、じっさいには二階の床板がないのである。これでは二階だてといっても、ただ外から眺めるためだけのものである。お寺の各種の塔にいたっては、これは完全にモニュメント、一種の視覚芸術品であって、とうてい上からの眺望をたのしんだりするしろものではない。比較的しっかりした階段がついている興福寺の五重の塔でも、内部はいわば階段室だけで居室はなく、薬師寺の東塔にいたっては、上にあがる階段すらない。

とすると、住宅にかぎらず、日本建築には、のちにのべる二、三の例外をのぞいて、住むにあたいする「二階」というものがなかったのである。極言すれば、日本建築は、その発生から明治のころまで、大部分、平家だての建築構造に終始してきたといっていい。これは、いまでも多くの世界の観光客をあつめる、すぐれた建築文化遺産をもった国としては、まことに不思議な現象である、といえる。

では、日本以外の世界ではどうだろうか。いまからおよそ三、四千年まえ、世界最古の法律であるバビロニアの『ハムラビ法典』では、二階がこわれて人が落ち、あるいはその下敷きとなって手足を折ったときには、その家を建てた大工の手足を折り、運悪くその人が死んだときには、その大工を処刑する、という規定がある。というところからみると、この時代にはすでに一般に二階があり、しかもその二階はたいへん危険なものであったことがわかる。また、ローマ時代にも、ときの政府が、安普請の高層アパートの建築の禁令をしばしばだしているところをみると、高層化はそのころにもかなりすすんでいたが、しかし、立体化・高層化は、建築技術が発達しないむかしは、危険このうえないものであったのだろう。そうすると、地盤の悪い、そして地震の多いわが国では、それはもっとも危険な行為であったにちがいない。わが国に二階が発達しなかったのも、多分そういう事情が大きかったであろう。

しかし、そうまでしても、なお高層化に人びとが執着するのは、いったいなぜだろうか。それはふつう、都市化が原因とかんがえられる。バビロンやローマのように、異常に人口が膨張した都市では、人は立体的に住まざるをえなかったにちがいない。しかしそこには、もうひとつ、べつの理由もあるようだ。それは「平家」主義を伝統とする日本建築の流れのなかでも、例外的に二階があらわれてくるそのあらわれかたのなかにみいだされる。

明治以前の時代に、居室としての二階があらわれてくる数少ないいくつかのケースのまず第一に、足利時代に貴族がたてた楼閣建築といわれる住居がある。金閣寺や銀閣寺は、のちに寺になったが、その代表的なものだ。しかしこれらは住居といっても厳密には別荘であり、とくに庭を眺めるための望楼としてしつらえたものであって、かならずしも日常起居するすまいではなかった。つづく安土・桃山時代に信長、秀吉がきづいた城郭は、絢爛豪華な多層の宮殿であったが、その最初のものである岐阜城をみると、二階は夫人の休憩室、三階は茶席、四階は望楼となっている。つまりこれは、当時はやった「大名茶」のための一大茶室宮殿としてつくられたものである。つぎに江戸時代にはいると、庶民あいての遊女を置く揚屋や、客を泊める旅籠が発達した。ここでは客を二階にあげるが、それらは遊里宿場などという、特別な場所にかぎってみとめられたものである。あそびの世界では、身分秩序に拘泥せず、二階がゆるされたというのはおもしろいことである。旅籠や飯盛女が、階段の昇降に便利なように、きものの裾をからげて、その下のみじかい赤襦袢をちらつかせながら、お膳をもって階段をトントンとあがっていったものだ。さて最後のものは、やはり江戸時代の商家である。大きな町家などでは、二階というより、屋根裏を物置につかったり、奉公人の寝とまりするへやに使用していたりする。しかしそれはあくまでも二階というより、屋根裏、西洋風にいうと、アチックすなわち屋階に相当するものなのである。ところが大きな商家には例外もあった。それは居蔵といわれるもので、町家のいちばん奥の蔵の一階または二階を座敷にしたものである。そこでは分限者となった町人たちが、書画骨董などを所蔵していて、数寄者のなかまをあつめて悦にいる世界である。ときには三階蔵をもつ分限者のあったことが、西鶴の『日本永代蔵』にみえている。

以上のケースをながめてみると、日本の古い時代に存在した数少ない二階というのは、別荘といい、宮殿といい、遊里や宿場といい、数寄の世界というように、いずれの場合にも日常起居する生活空間ではなく、たまさかの遊興の世界であったことがわかる。つまりそこはケ(日常)の世界ではなく、ハレの世界なのだ。二階という、地面から足のはなれた世界があそびの世界であったことは、あそびという行為の本質をついているようにおもわれる。あそびは大なり小なり幻想にひたる行為であるからだ。と同時にそれは、日常、大地にはいつくばってあくせく働いているところからはなれたいという、精神的欲求にもつながるものであったろう。

しかし、あそびの空間として二階がつかわれたのは、そういう精神的なものだけではなさそうだ。そこにはやはり、それなりの物質的理由があるのである。そのひとつはいうまでもなく、人びとに幻想性をよびおこさせるような高層空間からの眺望のよさであろう。いまでもホテルでは、最上階へゆくほど値段がたかい。つぎに、風とおしのよいことで、湿気の多い日本では、風とおしは重要な環境の条件である。居蔵の二階に書画骨董を収納するのも、大事な芸術品や湿気や虫くいからまもろうとする、生活の知恵であったにちがいない。そして第三に、二階は陽あたりのよいことをあげねばなるまい。


■同情します(長岡鉄男)

前から疑問に思っていたが、人は自分と同じような人間には共感を持てないのではないかということ。抽象的でピンとこないかもしれないが、たとえば、貧乏人は概して他の貧乏人に対して冷淡である。これは僕が30年以上も貧乏人をやっていたことからの実感でもある。また、病人は概して他の病人に対して冷淡である。これも僕自身の実感だ。自分よりはるかに貧乏な人に対しては同情するが、同程度の貧乏人に対しては「ムダ金の使いすぎだよ、オレを見ろ」と言いたくなってしまう。金持の息子が社会主義者になり、ボランティアになる。自分よりはるかに重症の病人に対しては同情するが、同程度の病人に対しては「なんだ、その程度のことでギャーギャー騒ぐな」とたしなめたくなってしまう。僕自身、ぜんそくで、息ができなくなって、これはおしまいかなと思ったことがあるくらいなので、その程度の病人にはあまり同情しない。逆に、もっとひどい、呼吸が止まって意識不明が3日も続いたが奇跡的に生き返ったというぜんそく患者から「あんたなんか軽い方だ」とたしなめられたことがある。同情してくれるのは常に健康な人たちだった。

そこで基本原理が見えてきた。金持ちは貧乏人に同情するが、貧乏人は貧乏人には同情しない。健康な人は病人に同情するが、病人は病人には同情しない。頭のよい人間は頭の悪い人間に同情する。おとなは子供や老人に同情するが、子供は老人に同情しないし、老人は子供に同情しない。これは子供と老人は対等だからだろう。もちろん、老人は老人に同情しない。「70歳ぐらいで老人気取りするな」などと厳しい。男は女に同情するが、女は女に同情しない。もっとも最近は逆で、女が男に同情するようになってきたかな。男女平等が実現すれば、お互いに同情することはなくなるわけだが。

美人はブスに同情するがブスはブスに同情しない。この原理からすると、美男とブス、美女とブオトコのカップルも理解できる。似た者同士はうまくいかないのだ。自分と同じ人間とは友達にはなれない。親子兄弟は仲が悪い。同じ民族を東西や南北に分けると最も仲の悪い二国関係ができ上がる。日本人が東洋人に冷たいのもそっくりさんだからだろう。それではアメリカの白人と黒人はなぜ仲が悪い?これは、白人と黒人は建国の同志であり、一種の同族だからという説を見たことがある。東洋人はアメリカ人にとって他人なのだ。

かつての貧乏国日本に同情したのは世界一の金持国アメリカだった。先進国は途上国に同情する。飽食の民族は飢餓民族に同情する。しかし、救援物資も、同じく餓えているゲリラの手で爆破され、焼き捨てられて灰になる。飢餓民族同士では同情がないのではないか。同情というのは裏返せば差別なのだ。差別がなくなれば同情がなくなる。日本は国内に関する限り同情のない国になりつつある。差別がなくなるというのは本当にいいことなのだろうか。

同情するのはやさしいことだし、楽しいことでもある。しかし同情されるのはどうか。同情されて喜ぶ人もいるが、逆に腹を立てる人も多い。同情とは優越感の裏返しであり、誰にでも同情でき、誰からも同情されないというのが理想かもしれない。でもそんな人も、その逆の人もいないようだ。


■貴族趣味(長岡鉄男)

一億総中流階級いうのも結構なことだが、よく考えて見れば一億総上流階級、あるいは一億総下層階級と言い換えてみても内容はまったく同じことだ。要するに階級がないというのが真相で、そこが欧米とも共産圏とも違うところだ。欧米にも共産圏にも貴族階級、またはそれに準ずる階級が存在している。日本も明治から昭和20年までは貴族(華族)がいた。明治以前は公卿というのがいた。殿様もいた。貴族は人民を搾取してぜいたくに遊び暮していた悪い奴だったのか。こちとら生まれながらの人民で、貴族とは縁がないから貴族の生活なんてわからないが、貴族にもいい面はあったと思う。

途上国(なんで未開国といってはいけないのだ)の王侯貴族には悪いのがいる。それこそ人民を搾取してぜいたくの限りをつくし、ハレムを作り、女をもて遊び、男を無造作に殺す。今でもそれに近い王侯貴族がいることは事実だ。しかし、先進国の貴族にはエリートの名にふさわしい人間も多かった。貴族とはひまと金を持て余しているIQの高い、教養の豊かな人種のことである。単なる土地成金を貴族とは呼ばないのである。酔生夢死の貴族もいたかもしれないが、多くの貴族はエリートとしての自覚があった。ひまと金をどう使うか。芸術家のパトロンになる。というのが一般的だが、学者、政治家、建築家、宗教家のパトロンになったのもいる。壮大な建築物や庭園を残した貴族も多い。貴族のいいところは自分の金を自由に使えることだ。だから庶民とは無縁のすばらしい芸術品を残せる。もし、その金を庶民に平等に分けてしまったらどうなるか。まちがいなく、何も残らないだろう。

戦後の日本には貴族がいない。世界一の累進課税相続税が貴族の存在を許さない。日本の金持は芸術家のパトロンにならない。そんなことをしていたら子孫がコジキになってしまう。金持はマンションやアパートを建てて、子孫に借金を残す。これが一番有利なやり方だからだ。20世紀に入って芸術は死んだ。特に日本では全滅した。

貴族の存在を許さないというのは、人類平等の基本を貫く上では正しいことだが、貴族つぶしは高額の税金吸い上げという形で行われている。吸い上げられた税金が文化的な方面に使われているかというとノーである。税金は公務員の給与や、農漁業、不況産業の補助金に使われているだけだ。はっきりいってムダ使いである。とにかく国でやることはすべてムダ使い、同じ仕事をやっても、民間でやると半額になる。貴族のような個人がやるともっと安くなる。文化、芸術を育てようと思ったら、税金を減らして、貴族に金を持たせることだ。バッハもモーツァルトもベートーベンもワーグナーも、王侯貴族富豪のバックアップがなかったら、後世に残るような仕事はできなかったはずだ。

貴族文化、貴族芸術を否定して、大衆文化、ポップアートを打出したのは革新派、進歩的の知識人である。貴族趣味の音楽を作ったショスタコービチやカバレフスキーは激しく非難され、自己批判をせざるをえなかった。ポップアートは一夜で作られ、一夜でブームになり、一夜で消え失せる。所詮使い捨て芸術である。後世に残るものなど皆無である。それで何の不都合もないのだが、将来、20世紀を振返った時、芸術的には不毛の時代だった、と片付けられるのは目に見えている。


■刑吏の社会史(阿部謹也)

人には生得の苗字がある。その苗字は本人が定めたものでなく、いつとは知れぬ古い昔から血縁その他の絆のなかで今に伝えられている。人は苗字という遠い歴史の絆につなぎとめられているのである。日本の苗字の多くはかつての具体的な意味を失い、単なる記号に近い感じを与えるまでに退化してしまっている。

ヨーロッパでも事情は似たようなものであるが、ヨーロッパの苗字の多くが職業名であるところから単なる記号として割り切ることのできない苗字も多くのこっている。マックス・ヴェーバーの苗字が織匠という意味であるといっても、エーリッヒ・シュミットのそれが鍛冶屋という意味であるといっても、その職業の歴史はその苗字の遠い歴史の薄明の彼方に消えてゆき、織匠としてのヴェーバー、鍛冶屋としてのシュミットを考える人はいない。

しかし「死刑執行人」「刑吏」という苗字をもって生まれたとしたらどうだろうか。これも過去においては社会的に重要な職業の名であるから恥じる必要は全くない。たとえ刑吏が過去において賤民であって、刑吏に触れた者も賤民の地位におちてしまうほど、蔑視され怖れられた存在であったとしても、十九世紀には賤民としての地位は消滅し、刑吏も市民権を獲得している。近代民主主義思想は人は生まれながらにして平等である、という原則を貫き、刑吏という苗字をもっていたとしても現在では公的にも私的にもヨーロッパでは何ら障害(差別)はないのである。

だが分別もさだかでない子どもの頃にはどうだったろうか。幼少の頃にこの苗字のために遊び友達からからかわれ、はやしたてられ、口惜しい思いをしなかっただろうか。幼いときには全く自分のあずかりしらぬ何かのために苦しまなければならないことがしばしばある。それは私たちの一日をよぎってゆく歴史の影なのである。

エルゼ・アングストマンが自分の苗字の研究から出発して刑吏という名前の歴史的・地理的分布を調べ、民衆が刑吏をどのような目で眺めてきたのかを明らかにしようとしたとき、幼少時の理不尽で口惜しい体験が奥深いところで彼女の研究を支えていたのではないかと、私はつい想像してしまう。

何故ならアングストマンとは死刑執行人という意味だからである。

しかしアングストマンは単に自分の幼少期への感傷からこのような研究を始めたのではない。彼女が幼少期にうけた心の傷は彼女一人のものではなく、多くの同種の苗字をもつ人々の体験でもあったに違いない。一連の研究を終えたとき、アングストマンの目の前に開かれた世界はどのようなものだったろうか。そもそも人が人を裁き、殺すということは現代においても万人が承認しているわけではない。死刑を廃止した国も少なくない。しかし中世後期から十九世紀にいたるまでヨーロッパでは死刑執行人が大活躍をし、刑吏は恐ろしい身の毛もよだつ職業の人間という印象がぬぐえなかった。

今日においてもある種の影をひきずっている刑吏という職業とその苗字の歴史を辿ってゆくとき、私たちは中世後期から近代初頭にかけて都市や農村における民衆の生活のなかで処刑がどのようなものとしてうけとめられていたのかを知ることができる。それは同時に中世後期から近代にかけてヨーロッパ社会のなかでの、人間と人間の関係のあり方を一方の極において観察することになる。何故なら人間と人間の関係の一方の極に愛があり、仲睦まじく暮す共同生活のあり方がある反面、他方の極には人が人を裁き、殺すという関係もあるからであり、この両極の間でその時代における人間と人間の関係の絆が結ばれているからである。

かつて「処刑」は違法行為によって社会が受けた傷を住民が全員で癒すための儀式であって供犠あるいは呪術としての性格をもっていた。それが十二、三世紀変貌し賤民たる刑吏によって「処刑」が行われるようになった。加えて犯罪についての根本的な考え方もこの間に変化した。

かつては犯罪の行為が問題であり、犯罪者の動機などは問題ではなかったのだが、新しい都市法においては犯罪の行為よりも犯罪者の方に注目が向けられたのである。つまり犯罪の責任は個人にあるとみられ、犯罪者は倫理的に評価されることになった。人間は新しい都市空間のなかで互いの絆を合理的に結成してゆき、かつての呪術的・神話的世界から解放され、犯罪に対しても呪術による社会の傷の治癒から個人の責任の糾明へと進んでいったのである。共同体の秩序に背く行為を犯した者は今や倫理的律則によって個人として「罰せられる」ようになった。この経過は同時に人間が共同体の中で個性を自覚せずに暮していた段階から個性を自覚するにいたる自我の覚醒の過程でもあった。人間ははじめて法の前で個人として登場したのである。

その点でかつての「刑罰」のない世界から、「刑罰」が生まれる十二、三世紀という時代はヨーロッパ社会史と思想史、文化史のなかで大きな画期であった。かつて人と人を結ぶ関係の絆は神聖な法であり、犯しがたい権威をもっていた。しかしながら、キリスト教の浸透と都市の擡頭、市民生活の合理化のなかで人間の理性は新しい倫理を生むにいたった。権威よりも理性に基づく議論が重んじられるようになった。人間は善を求めて努力すべき存在とされ、その限りで自分が行った行為に対しても責任を持つべき存在とされたのである。

このような傾向のなかで法は十二世紀には民事法と刑法とに分かれてゆく。十二世紀にはじまる「刑法の誕生」は近代社会の萌芽を告げる動きの一端であり、人間の自我、個性の自覚の一つの表現でもあった。人間が主体的存在であることが理解されたとき、当然人間は責任ある主体としてとらえられることになるからである。

たしかに犯罪が共同責任として意識されていた時代には連座制のように犯人の違法行為の結果が家族全員に及ぶという不合理な面があった。犯人を主体的人間としてとらえ、個人に犯行の責任をとらせるという近代的刑法はこのような悪弊に対して画期的な一歩をふみだしたのである。

しかしながら多くの犯罪は社会的な行為であって、他の人間や時代環境とは全く無関係な、その個人だけの責任としての犯罪というのも考えにくい。犯罪とは犯人がその時代や社会環境のなかで他の人々や諸制度とかかわって生きてきた過程で蓄積されていった不平や不満から生ずるものなのだろう。犯罪の原因はその時代の人と人との関係とそれを媒介する諸制度のなかで育まれるのであって、その限りで犯罪を時代を越えた普遍的な尺度で計ることはできない。時代や体制によって犯罪の種類や範囲は異なり、ある国や集団において犯罪とされる行為が他の国や集団においては犯罪に入らないという例はしばしばみられる。

犯罪が社会的責任の問題であるということは、ひとつの犯罪が生じたとき、その犯罪に対してその社会の構成員は多かれ少なかれ何らかの責任を負っているということに他ならない。ところが十二、三世紀以降における刑法の展開は犯罪の責任を個人の動機と行為に求め、行為者を断罪して処理する道を開いた。

それはたしかに合理的な審判への道を開くものであったが、それ以降たとえひとつの社会全体の歪を一身に背負ったような犯罪者が生じたときでも、その犯罪は本人の動機と行為によって裁かれ、その社会全体を構成する人々は遠くからその裁判を遠望するのみで、自らかかわることは稀となった。ひとつの社会の歪の表現としての犯罪の犯人はいわばその社会の歪の犠牲者なのだが、彼は一人でその社会の歪の全体を背負い、断罪され、刑場の露と消えてしまう。他の人々はこのような報道を目にしても自分とはかかわりない出来事としてよみ、その日の仕事に埋没してゆく。おそらく潜在意識の底では中世都市の市民も犯罪が自分と無関係ではないことを知っていた故に、全体を代表して犯人を処刑する刑吏に対しておそれをいだき、そのおそれが蔑視へと澱んでいったのであろう。


■大胆予言!オーディオ&アナログレコードは100%復活する(やぴぴの兄)

昨今は時代の変化の激しい日々が続いている。時代の変化は、今までもたえずあったとしても、これほどの激しい変化は滅多になかったことではないのか。事実自分が生きてきた36年間。こんなに時代の変化を日々肌で感じることはなかったと断言できる。時代の変化は、IT、バイオ、ナノテクのような新産業を次々と生み出す。かと思いきや、時代の変化に取り残され、風前の灯火のように消え去るかと思われた産業が突然復活することもある。新日鉄、千代田化工、コマツ。かつて高度成長時代の終焉と共に忘れ去られていた企業の株価が上昇している。中国の高度経済成長で公共事業(道路、ダム、空港、ビル)が活発化しているからだ。まさに時代の変化が《時代の変化に取り残されたものを復活させた》代表的な例である。

他にもある。例えばトラックのスピードリミッター規制。90キロ以上の速度制限装置をトラックに義務付けたこの法律が施行されてから2ヶ月。物流の世界は劇的に変わった。今まで時代の波に取り残されていた船舶輸送、JR貨物が復活の兆しを見せ始めたのだ。JRとトラックには、実は深い因縁がある。JRがまだ国鉄だった頃。労組は激しいストを繰り返していた。そして全国規模で国鉄のストをやれば日本の物流は麻痺状態になり、労組の要求はたやすく通るだろうと思われた。だが時代は変わっていた。労組は時代の変化に気付いていなかった。物流はすでに貨物列車からトラックの時代に移っていたのだ。そして労組は負けた。時代の変化を象徴的に物語る事件だが、それが今度は「トラックからJR貨物へ」といった時代の流れができつつあるのだから皮肉な話である。

また、これまた時代の波に取り残されていたと思われていた「牛乳の宅配」。これが現在復活しつつある。理由は高齢化社会、健康志向の高まりといった世の流れである。牛乳の宅配の利用料は、このデフレ社会の中でむちゃくちゃ高い。なんと店頭で買う値段の2.5倍もするのだ。それでも需要が高まっているというから不思議である。高齢者はお金を持っている、あるいは自分の健康に対してお金を惜しまないということもあるのだろう。

そこで本題のオーディオである。オーディオもかつては高度成長時代の花形産業のひとつだった。それが時代の変化に取り残され、今やマニアの間で細々と生きつづけているだけだ。もうオーディオに未来はないのだろうか?オーディオ・マニアには悲観論者が多いので、たださえも暗い未来がますます暗くなる。しかしこの激しい時代変化において、オーディオに光明となるものもいくつか散見される。

そのひとつが「スローフード」のブームである。これは何を意味するかと言うと、日々時間に追われ、せかせかした生活を送っている日本人の「時間をぜいたくに使いたい」という欲求の表れであると見てよい。また雑誌「Pen」「男の隠れ家」などに見られるように、自分の空間をスタイリッシュに、そしてよりぜいたくに演出したいという欲求も高まっている。《時間と空間をぜいたくに使いたい》。一種の貴族趣味だが、これが年々その傾向に拍車がかかっている。そしてその時間と空間を極限にまでぜいたくに使う趣味「オーディオ」が新たな市民権を得て復活すると考えられる。特にアナログレコードを中心としたピュア・オーディオはそうだ。

今までの日本人のぜいたくは、高い物を買う。あるいは物をたくさん買うというものだった。いわゆる成金趣味である。ブランド品を買う、ベンツを買う。数十年前は電気製品は夢の商品としてあがめ奉られたこともある。しかしながら前述したように、日本人の趣味は成金趣味から貴族趣味へとじょじょに変わりつつある。だからオーディオも今までのような高価なハードを買い、ソフトをバカバカ集めるといったものからより高い次元にシフトするものと思われる。

だが世を広く見渡しても、オーディオが復調してきたなんて話はとんと聞かれないのも事実。これはオーディオに使う時間と空間の問題、そしてそれらにかかる多額のお金がオーディオ復活のさまたげになっているものと考えられる。ただこれらの問題の中で、空間とお金に関してはさしてハードルは高くない。

実際政府発表によると2006年あたりから日本の人口は減り始めるという。日本の人口が減るということは、一人あたりの居住空間が増えるということであり、多くのスペースを要求されるオーディオにとっては追い風である。また国土交通省が計画している大深度地下交通網などで、さらに国民一人頭の使えるスペースがリッチになるものと考えられる。

お金の問題は、今デフレ不況下で苦しいが、朝鮮特需ならぬ中国特需で日本は好景気に転換しそうだ。事実中国は、2008年北京オリンピック、2010年上海万博に向かって高度経済成長まっしぐら。60年代日本と状況が似てきた。しかも需要は10億人もある。この流れに乗らぬ手はあるまい。この流れに乗りさえすれば、日本経済は2010年頃までは安泰だ。

よってオーディオの復活をさまたげる最大の要因は《時間》となった。日本人はこと時間に関して貧しいと言われている。それは日本の文化に深く起因していると思われる。

例を挙げる。あるゲーム会社の話だ。そのゲーム会社には二種類の社員がいる。朝早く出社して、本来仕事が始まる時間までに、二時間余分に働く社員。そして本来の仕事が終わったあと、二時間余分に残業する社員。同じ時間分働いて会社に貢献はしているが、はたして会社で評価される社員はどっちか?疑いもなく後者の方である。なぜか?それは同じ二時間余分に働く社員でも、スマートに要領よく働かれるのは好まれないからである。夜の蛍光灯がこうこうと照りつける中で、汗水たらして、またある時には泥にまみれて働く姿が日本人には好まれるのである。だから仕事の成果以上に、「ああっ頑張っているなあ」と思わせることが肝心なのである。これは日本の文化である。卒業式で歌われる「蛍の光、窓の雪」。というのもそうだ。甲子園で、暑い日差しの中で汗まみれになり、雨が降れば泥まみれになる球児たち。誰も甲子園をドーム球場にしようと言わない。あんな暑いところじゃあ北国の球児たちは不利だろう。不平等じゃないか。平等をかがげている教育理念に違反しているんじゃないかと。そんな正論を吐いても、なお甲子園をドーム球場にしない。それはとりもなおさず、汗まみれ、泥まみれの球児たちが見たい。それを見たら感動するからである。そこに日本の文化の、そして汗まみれ、泥まみれで培った農耕民族の美意識がある。だからこそ今流行りのサービス残業、長時間労働たるものは、ここからきていると思われる。単に仕事が多いからだとか、人件費削減だけでサービス残業、長時間労働が行われるわけではないのである。日本人が時間に貧しい原因は、日本古来の農耕民族文化にあると言ってよい。

というわけで、この時間についての問題は結構根深いものがあり、難しいものであるが、これをクリアすればオーディオの復活は100%あるといって良いだろう。


■奇祭「大祭礼」(やぴぴの兄)

昨日NHK教育で、72年に一度しか行われない茨城県の奇祭「大祭礼」の特集をやっていた。番組の中でなぜ72年に一度なのかということが議論になっていた。諸説あるのだが、面白いのは、これは海人(かいじん)が持ち込んだ儀式なのではないかという説である。

海人とは何か?古代の海人とは漁民のことではなく、陸上で言うならちょうど遊牧民みたいなものにあたる。船上で主に生活をし、陸上にも上がってくる。漁業だけでなく農業、林業、手工業なども営む。海で生活する人間がなぜ林業なのか?それは船を作るときに木材が必要だからである。

海人は古くから航海術に長けていた。方角を知るためには、星の動きを良く観察しなければならない。天文学である。昼は太陽があるが、太陽の動きひとつだけでは方角は良く分からない。星座のような座標がいくつもあってこそ方角がわかるのである。だから航行というのは夜を中心に行われていた。

その星座であるが、実は年が経過するにつれて、少しづつ角度がずれる。地球の自転のぶれが、そのまま星座の角度のずれに反映される。それが72年に360分の1度づつずれるのだそうだ。

で、祭りの72年に1度というのが、ここからきているのではないかというわけ。真偽の程はわからないが、なかなか面白い話ですね。


■江夏の21球(やぴぴの兄)

昨日NHKで「江夏の21球」という番組をやっていた。今から20数年ぐらい前の番組である。「江夏の21球」はプロ野球史上でも屈指の名場面と言われるほど有名なもの。番組ではそのときの選手や監督の心理状況、機知機略、神業ともいえるような職人芸を事細かに紹介していた。この番組は放映当時、野球の奥深さを伝えた名ドキュメンタリーとして大変な反響を呼び、観るものに新鮮なショックを与えた。が今改めてやぴ兄の視点でこの番組を見ると別の意味でショックを受ける。それは、まず野球が古いということである。

たとえば高めに浮く江夏の変化球。あれは今のバッターならホームランにできているはずである。画面に登場する江夏に対する近鉄のバッターは誰も彼も非力なバッターばかり。だから点を取ろうと思ったら小細工をせざるを得ない。盗塁、バント、見せ掛けのサイン。これらは今でも行われていることであるが、多分今なら長打力を駆使して一発逆転を狙いにくるはずである。

これを見てわかるのは、名監督による細かい作戦、長年にわたって訓練されてきた職人芸というのは、バッターの長打力のなさによって支えられてきたことがわかる。

今のプロ野球と昔のプロ野球、何が変わったか。それはバットが変わり、球が良く飛ぶようになり、ドーム球場によって風の影響を受けなくなった。また筋力トレーニングで中クラスの選手でもホームランが打てるようになり、バッティングマシンで速い球にも対応できるようになった。現代野球はこのようにハイテク化が進み、職人たちが技や頭脳を競い合うドラマが完全に消滅した。相手に勝とうと思ったら、技や頭脳を磨かずに、長打力のある選手を並べれば良いからである。

これは現代の戦争にもいえる。昔、戦争には騎士道というものがあった。そして戦場にはドラマがありそれは、武勇伝、英雄談として後世に語り継がれた。しかし大砲が登場して以来、騎士道というのは無意味になった。戦場では、破壊力があり遠くへ飛ばす大砲をいくつ並べるかが、勝敗を決する重要な要素になっていった。そういう話を描いた「英雄時代」というアニメもある。

現代の戦争にも野球にも勝つという結果のみが求められる。そこには合理性はあっても、ロマンドラマの入る余地がない。それが現在(いま)をつまらなくしている大きな理由だ。しかしながらどんなに状況がハイテク化しようとも、人間はローテクのままである。だからいずれ人間はローテクに回帰するであろう。なぜなら人が人として心揺り動かされることには変わりがないからである。


■「革命児」土居まさる(芦沢務)

土居まさるがこの世を去ってはや3年半。単に若者に人気抜群のタレントとしてだけでなく、ラジオ・トークの話法を根底から変えた革命児としての彼の名は永遠に記憶されるだろう。

「皆さん、お元気ですか」が「ヤア皆、元気かい」に変わり、オマエ、こいつ、バカヤローが親しみをこめて連発された。彼は受験生にとっては友達であり、先輩であり兄貴であり、ハガキによるコミュニケーションが両者を固く結びつけて、仲間だけの独立したコミュニティーを成立させた。

多くのパーソナリティが後に続き、当時の若者のほとんどすべてが「深夜放送」の洗礼を受けることになる。背景にあったのは携帯ラジオの普及、受験戦争の激化、勉強部屋の個室化、といった世の流れであり、その意味でも土居は正に時代の申し子だった。そして今やラジオもテレビも大人向けの番組でさえ、同じ目の高さ語るタメ口が標準になった。土居が文化放送の局アナとしてデビューしたのは1964年。直後から始まったこのラジオ話法の変革が団塊の世代以降の日本人の精神や心理に意外に大きい影響を与えたのではないかと筆者は推測する。

押しが強いようでいて弱気、自立しているようで群れたがる、慇懃と無礼の同居、そんな世代を当時のラジオが育ててしまったとしたら・・・?69年に始まった公開バラエティー番組「土居まさるのハローパーティー」を担当して、彼に会うのを楽しみに毎日ワクワクしながらスタジオに入っていったことを思い出す。

あの人柄の良さと早過ぎる死に世の無常を思わずにはいられない。


■障子(上田篤)

日本人は、どんな物でも、縮小化してしまうことの天才だ。

戦後、トランジスタラジオが、日本の代名詞のようにいわれるようになったが、トランジスタラジオだけにかぎらない。電気洗濯機でも、冷蔵庫でも、日本の物はみな小さい。テレビでも、小型、薄型とりまぜていろいろあるし、計算機にいたっては、たばこほどの大きさのものまであらわれた。そのほか、カメラ、自動車、汽車などから、洗濯ばさみ、クリップ、押しピンといった身のまわりの品物にいたるまで、日本の物は一様に小型にできている。

日本のすまいでは、とくに、この小型化、縮小化ということが顕著にみられる。たとえば、坪庭といわれるものは、まさにその字のとおり、一坪そこそこの小さなものに、山海の風景をみごとの凝縮しているし、また室内建築には、茶室などという小さな空間もある。茶室は、室町時代に茶人の紹おうが、四畳半という小さなへやを一般化したのにはじまり、その弟子の利休の代にいたって、それからさらに、三畳台目、三畳、二畳台目、二畳、一畳台目と、ギリギリ極限のスペースにまで、空間を圧縮していった。もちろん、そこに「土地問題」や「住宅問題」などがあったわけではない。最小限にきりつめられたせまい空間に、「わび」の世界があるとかんがえられたからである。結局、この茶室建築から、数奇屋づくりがあらわれ、それがいまも、日本の住宅をつらぬく根本的なデザイン思想となっているのであるから、現代住宅が、なにかにつけて、せまさをかこつのもむりはないのかもしれない。

さて、この「縮小化」と関連して、もうひとつ、日本の物質文化の構造的特色とかんがえられるものに、「軽量化」がある。軽量化は縮小化とならんで、ときにはそれ以上に、私たちの生活を大きく規定している要素である。このことを私たちがつよく実感するのは、外国へいったとき、あるいは外国製品に接したときだ。外国の銀貨や銅貨、ドアの鍵や把手、コーヒー茶碗、椅子、ベットからバスタオルにいたるまで、いずれもむこうの物を手にすると、ズシリと重い感触がつたわってきて、いささかとまどう。しかしそれは、かんがえようによっては、日本の物がすべて軽すぎるということである。その典型は箸だ。ナイフやフォークのもつ金属の重量感とちがって、日本の箸は、みな軽い。

さて、食事における軽さの象徴が箸なら、住居におけるそれは、さしずめ障子である。杉の桟に、美濃紙をはった障子が、よく手いれのゆきとどいた敷居の、深さ2、3ミリぐらいの溝の上を、指一本でスーッとあく、などという光景は、これまた外人の目をみはるところである。

日本の和風住宅の室内は、たいていこの障子や襖でしきられていて、それらを全部とっぱらうと、家じゅうが「ひとへや」のごとき状態になる、というのが、ひとつの大きな特色である。むかし、ところによってはいまでも、田の字型をした農家では、冠婚葬祭のときに、障子や襖をみなとりさって、招宴の場としていた。そういうことをかんがえあわせると、日本の住宅は、基本的には「一室住居」だということが理解される。一室住居の室内を、障子や襖という一種の「目かくし」により、いくつかのコーナーにしきって、家族が生活しているのだ。それは日本の住まいの空間分割の大きな特徴である。

どこの国でも、すまいの最初は「一室」であった。それが現在みるように、複雑で大きな空間になったのは、一室が増殖もしくは拡大してゆく、それなりの連結や分割のシステムをみつけていったからである。石やレンガの壁でできているヨーロッパの住宅では、一室の大きさには、構造的限界がある。そこで、生活の要求から、もっとひろい空間が必要になってきたときには、新しい部屋をつぎつぎにつくって、これにつぎたしてゆくしかない。そのばあいのもっとも原始的な連結の方法は、古代オリエントや、エーゲ海のトロヤ、クレタ島などの都市遺跡にみられる「迷路型住居」のように、へやがつぎつぎにくっついていって、その間に通路もなにもなく、各へやが同時に「通路」をかねる、というシステムのものだ。18世紀に西欧にできたベルサイユ宮殿のような大規模な宮殿建築も、原理的には、それと軌を一にしている。それがローマ時代になると、ホールすなわち広間を通路中心とし、各へやはそのまわりにくっつくという形が支配的となる。さらに今でも南欧にゆくとホールがパテオという中庭にかわり、各へやが、その中庭をかこむように配置されるコート・ヤード・ハウスといわれる形式が多くみられる。中国の住宅も基本的には、この中庭式だが、各へやが、一室で一戸の家となり、小家族単位にわかれて住んでいるのが特色といえる。

ところが、日本の住宅は、さきにもふれたように、それらとは、ぜんぜん異なる発展のしかたをした。それは、一室がかぎりなく大きくなってゆくというものだ。そういう姿をとった建築様式は、鎌倉時代にあらわれた田の字型の平面をもつ「武家づくり」がさいしょではなかったかといわれ、それを建築様式的に完成させてゆく室町時代の「書院づくり」になると、はっきりその形が成立する。

それまでの支配層の住居は、平安時代に成立した「寝殿づくり」で、これは、中国の宮殿建築を模倣したものといわれ、寝殿とよばれる正殿のほかに、東、西あるいは北に対屋という別棟の建物をもうけて、それらを渡殿という廊下で連結した、いわば連鎖状の形のものである。そのばあい、個々のへやにあたる寝殿や対屋は、母屋を中心に、そのまわりをとりまく庇という「縁側」からなる同心円的平面構造をもち、母屋と庇とのあいだにしきりはなく、しきりがあるのは、庇と外部とのあいだの蔀戸や妻戸(開戸)などである。そうすると、これらは一室一棟の建物、すなわち「一室住居」ということになる。そこでこの建物を大きくしようとおもっても、「同心円構造」という空間の性格から、かぎりがでてくるのだ。要するに、寝殿づくりというのは、日本古来の一室一棟の建物であるミヤ=神社建築を、中国風に、庭をとりまくように左右対称にはりめぐらした、とかんがえることのできるものであるから、個々の神社建築がそれ以上に大きくなりえないのと同様に、寝殿づくりのそれぞれの寝殿や対屋も、あまり大きくすることはできないのだ。

ところが、鎌倉や室町時代にあらわれた武士の住居は、このような左右対称の建築配置、同心円の室内構造という、唐制もしくは日本の古制の伝統を墨守する貴族の旧弊を、ぶちやぶってしまった。それをささえた建築技術は、角柱の登場と、紙貼障子の発達にある、と私はかんがえる。

角柱の登場というと、いささか大仰であるが、それまでの柱は、丸柱が原則であった。ひとつには、建築工具の未発達の理由により、もうひとつは、「天円地方」、つまり天はまるく、地は四角である、という中国思想とにもとづいていた。柱は天につながるものとして、丸柱でなければならなかったのである。しかし、ふとい丸柱は高価についてなかなか手にはいりにくい。そこで木をこまかく割った角柱が量産されてくる。

さて、丸柱のときには、母屋と庇のあいだの柱列には、しきりとして几帳、屏風などがおかれるのが一般的であったが、角柱となると、これに鴨居と敷居をとりつければ、角柱を戸枠として、そこにかんたんに障子をとりつけることができる。それが引違いであれば、あけしめするのにたいへんべんりだ。ここで問題はその引違いである。たんなる引戸だけなら、ほかの国にもないではないが、戸を二枚ないし、四枚ならべて引違いにする。というしきりの形式は、まったく日本的なものといってよい。この引違いの障子を、日本で普及、発達させたのは、じつは「紙」の力があずかって大きかったのである。

障子そのものは、奈良時代になく、平安時代の寝殿づくりになってはじめて登場する。さいしょは舞良戸といわれる板をはった障子、ついでに唐紙障子、つまりである。これに和紙をはったあかり障子、今日いう障子が発明されるにおよんで、日本の室内空間が、かぎりなく膨張する物質的基礎があたえられた。すなわち、襖や障子は、その軽さによって室内の空気をみだすことなく、スムーズにあけしめすることができると同時に、いちおうの室内のしきりともなり、さらに襖の上にとりつけられた欄間や障子の和紙は、室内の奥ふかくまで、戸外光線、すなわちあかりをおくりとどけることができるのだ。

西洋人は、日本の家が木と紙でできている、ときくと、どんなにチャチなものかと想像するが、しかしその紙によって、何十畳敷、何百畳敷という大広間を、つぎつぎつないでゆく書院建築のような巨大な「一室空間」に接すると、おどろきの声をあげるだろう。桂離宮などは、その日本の「一室空間」文化の最高傑作のひとつである。モンスーン地帯にぞくする雨の国でありながら、紙一枚をもって「壁」にかえる、という曲芸的な発想を生みだしたところに、日本建築のおもしろさがある、といってよい。


■退化こそ進化の証明(長岡鉄男)

近頃の若い人は箸が正しく使えないという。正式には2本の箸を4本の指で持つのだが、ほとんどの人が2本か、せいぜい3本の指で持って、いかにも不自由そうに扱っている。だからどうしたというんだ?昔の人にできて、今の人にできないことは数え切れない程ある。昔の人は裸足で野山を駆け回り、どんな木にでもするするとよじ登った。食べられる植物、食べられない植物をひと目で見分けた。深夜、1キロ先のライオンの動きを見つけ、地べたに耳をつけてネズミの足音まで聞きとり、手製の弓矢で鳥やけものや魚をしとめ、木をこすり合わせて火を起し、石でナイフを作り、骨で釣針を作った。そんなことは今の人にはできっこない。視力、聴力、嗅覚は昔の人の方がはるかに優れていた。そうでなければ生き残れなかったからだ。しかし、よく考えると、そういう能力は動物の方が上なのである。

戦前の人でも結構いろいろな力を持っていた。アゴが丈夫で、ものをかむ力が強かった。脚が丈夫で10キロ20キロ歩くのは平気、何時間立ち続けても、今の人のようにばたばた倒れたりしなかった。むやみにころばなかったし、ころんでもすぐ骨が折れたりしなかった。10ワットの電球1個で楽に新聞が読めた。指先が器用で、刃物を巧みに使いこなし、リンゴの皮もむければ、エンピツもきれいに削り、筆で字を書くこともできた。骨つきの煮魚をきれいに食べることもできた。ノコギリで木をまっすぐに切り、クギをまっすぐに打ち込むことができたり、水を口に含んで霧を吹くことができたし、バケツの水を広い範囲にむらなく撒くこともできた。耳かきで耳を掃除することさえできたのだ。

20年前の人もかなりのものだった。タオルを絞ることができたし、ひもを結ぶこともできた。結んだひもをとくこともできた。万年筆で字を書くこともできたし、漢字も書けた。なんとハンダ付けさえできたのだ。

今の人はこういったことは何ひとつできない。ではダメ人間なのかというと、実は逆である。昔の人ができたことができなくなる。それを進化というのである。動物が持っていた能力を失って、別の能力を獲得したのが人類である。昔の人が持っていた能力を失って、別の能力を獲得したのが現代人、新人類である。能力とは生きのびるために必要な力。これからの人は箸が使えなくても、エンピツが削れなくても、ひもが結べなくても、クギが打てなくてもなんら差支えはないのである。必要なのはパソコン、ワープロ、シンセサイザー、各種ロボット、磁気カード、カー、ビデオ、ファッション、財テク、外国語への対応、テロ対策、知的犯罪に対する防衛能力、等々である。こういったものに対応する能力のない旧人は滅びる。

これからの人類にとって、旧人の持っていた原始的、肉体的能力は必要ない、というより捨てなければならない。旧人の能力も、現代人の能力も、未来人の能力も、すべて身につけられればいうことなしだが、人間の能力には限界(容量)があるので、新しい能力を詰めこむには古い能力は捨てなければならないのである。あれもこれもと欲張ってもダメなのだ。

退化が進化の証明というのは新しい考え方ではない。ダーウィンの進化論は実は退化論だともいわれる。サルの体毛が退化し、尻尾が退化し、後脚の指が退化したのが人間である。退化の兆候を見つけたら喜ぶべきである。


■死刑を廃止し、仇討ちを復活せよ(呉智英)

死刑は廃止すべきである。なぜならば、死刑は人間性に反する不道徳な制度だからである。

それは、近代における国家の制度としての戦争が、ほとんどの場合、きわめて不道徳なものであることとよく似ている。徴兵という強制手段か、貧しさから抜け出す就職口という半強制的手段によって戦闘員を狩り集め、憎しみもない者同士を殺させる。この陰惨さ。私はカマトトぶって血を流すことが陰惨だと言っているのではない。革命だって抵抗運動だって、流血の惨事である。むろん、無血革命や非暴力主義運動もあるが、そうばかりでないことは歴史が証明している。私が陰惨だと言うのは流血そのもののことではない。人間の意志や感情を超えた近代国家という怪獣が、全く無表情に人間を圧殺するのが陰惨だ、と言うのである。

そうであるから、私の死刑廃止論は、世のほとんどの死刑廃止論者の主張と180度正反対である。せいぜい一致するのは、誤審の可能性の指摘ぐらいだろう。誤審で刑務所にぶち込まれるのもたまったものではないが、後に名誉回復や賠償請求ができる。しかし、死刑にはそれが無意味だ。だからよくない。こういうものだ。誤審による死刑が、誤審による懲役より、何十倍も何百倍も悪いことは当然である。そのためにも、死刑は廃止されてしかるべきだろう。だが、この点については誰にも異論などありはしない。死刑論議で本当に問題になるのは、誤審が絶対にありえないほど明々白々な凶悪事件の場合である。証拠も証人も動機も明らかな残虐な殺人事件で、被害者の遺族が悲しみと怒りに体をふるわせているのに、死刑廃止が言えるのか、ということだ。

私は言う。それでも、死刑を廃止すべきである。いや、それだからこそ、死刑を廃止すべきである、と。死刑を廃止して復讐を認めるべきだ、と。

先に私は、死刑という制度は陰惨であると言った。死刑に関するルポルタージュ類を読む時、胸をふさがれる思いがするのが、この陰惨さである。復讐を提唱する以上、くりかえすまでもないが、凶悪な犯罪者が殺されることを陰惨と言っているのではない。圧制者や侵略者が殺されるのを、私は陰惨だと思わないのと同じである。胸をふさがれるほど陰惨な気になるのは、死刑を執行する刑務官の心中を思うからなのである。

刑務官にとって、どこだかの県で何年だか前に起きた殺人事件が、許しがたいと感じられるようなものであるはずがない。彼にとっては、新聞やテレビで知った抽象的な事件にすぎない。しかも、過去のことなのだ。自分にとっては何の関わりもないとさえ言っていいだろう。しかし、彼は職務の名において、さして憎しみも、まして殺意も抱かずに、一人の人間を殺さなければならない。銃殺刑を採用している国では、処刑に使う数丁の銃のうち一丁だけは空砲であるというし、絞首刑の場合でも、踏み板を落とすスイッチは同時に複数押され、そのうちの一つは踏み板に連動してないという。理由は贅言を要しない。

その一方で被害者の遺族は、たとえ何年たっても、犯人へのたぎるような怒りと憎しみの感情を抱いている。八つ裂きにしてやりたいという気持ちだ。八つ裂きにして被害者の生命が返って来るものか、という質問は愚問である。返って来ないことなど分かりきっているからだ。こういう愚問を発する人には、こう反問したい。復讐は被害者を生き返らすためにするものかね、と。そんな復讐は、人類史上ただの一度もありはしなかったのだ。

今、私は、人類史上と言った。こういう本がある。穂積陳重『復讐と法律』である。明治始め日本で最初の法学博士となった穂積が法律思想の普及のために講演したものを、その死後、1931(昭和6)年にまとめたものだ。近年、岩波文庫でも手軽に読めるようになった。

この本は、人類の歴史の中で、法律制度が整備され進化してきたことを説いている。穂積は言う。動物ですら、通りがかりにいつもいじめている犬がすきを見て噛みつくことがあるように、必ず復讐をする。人間も同じように、自分や親族・知人に対する攻撃に対して反撃する。これは、報復であり、警告であり、防衛である。「この現象は人類の一般的現象である」と。ただ、殺したら殺し返すでは社会が治まらなくなる。そこで、文明が進歩するにつれ、当事者同士が金銭などで結着をつける制度が生まれる。しかし、それも公平でなかったり、さまざまな不都合がある。近代国家が成立する文明の最終段階では、私的な復讐は一切廃され、公的な法律がそれに取って代わるのだ。概略、このように説かれている。

反面から言えば、つまりは、人間が自然状態においては持っていた復讐権を近代国家が奪ったのである。人権主義者は、しばしば「国家VS人権」という図式を立てたがる。そうだとすれば、まさに人間の基本的人権の一つである復讐権が国家権力によって強奪されたのが死刑制度の本質なのである。

復讐権が近代国家によって抑圧されている今、凶悪な殺人者を被害者の遺族が射殺したとしよう。この遺族はどうなるか。刑務所行きである。仮定の話ではない。現に、何年か前、西ドイツでそういう事件があった。幼い娘を強姦殺害された母親が、法廷で犯人をピストル狙撃したのだ。この強姦殺人犯人が冤罪であるおそれはまずない。証拠も証人もあり、犯罪事実の認定では争う余地はなかった。だが、むろん、この犯人は死刑にはならない。西ドイツは死刑廃止国だからである。幼い娘の敵を討とうとして復讐権を行使した母親は、かくて犯罪者となった。

近代国家は、何故この憐れな母親を有罪としたのか。たとえ殺人者の生命であっても、かけがえのない生命だから、国家が全力をあげてそれを守るべきだ、と考えでもしたのだろうか。

否。

国家の人権への優越性を犯す者を処罰したのだ。悪魔のようにやさしい近代国家に疑いを抱くためにも、死刑廃止、そして復讐を復権すべし。


■オンライン・ショッピングの不振は支払いの安全性か?(枝川公一)

日本にかぎらず、オンライン・ショッピングは、芳しくない。なぜ芳しくないか、その理由として、かならずあげられるのは、オンライン上の支払いの安全性である。クレジット・カードのナンバーが盗難に遭って悪用される心配も、しばしば指摘されている。

ほんとうに、それが原因なのか、という疑問が提出されている。オンライン・マーケティング企業「ヌア・インターナショナル」が発行するオンライン・マガジンの最近号によると、7月15日からはじまる一週間で、アメリカのネット売上総額は14億ドルだったが、そのうちの約50パーセントにあたる7億100万ドルが旅行関連であったという。これは、航空券のネット販売が大半を占めていると考えられる。

夏の旅行シーズンにあたっていることもあるが、年間を通じても、旅行商品は、他のどの分野をも圧倒しているのが現状である。そこで、「ヌア」のメール・マガジンは、次ぎのように述べている。「CDとか書籍よりも、航空券のほうがずっと高額のはずだ。もし支払いの安全に不安があるなら、一冊10ドルの本はオンラインで買っても、300ドルのチケットを買うのは控えるであろう。それが逆になっているのは、おかしい」

たしかに、そうである。支払い手続きが完遂するかどうかに不安があったら、大きな買い物はしない。普通のショッピングでも、高いものほど、信頼のおける相手から買い求めようとするであろう。

そこで、「ヌア」は、人々のショッピング習慣のなかで、インスタント・サティスファクション(瞬間的満足)が、大きな要素を占めていることに注目している。これはつまり、買い物の瞬間に、満足感を得られるということである。衝動買いはもちろんのこと、ふつうに商品やサービスを手に入れる場合でも、お金を払い、自分のものになったときに、すぐに手を触れられたり、使えたりすることが、大きな喜びとなる。

店頭での買い物は、そこがショッピング・センターであろうと、個人商店であろうと、あるいは現金で支払おうとカードにしようと、支払いと交換に、満足という素晴らしい感情の高ぶりがある。買えてうれしいのである。これがショッピングの醍醐味であろう。

ネット・ショッピングには、これがない。アマゾンで本を注文しても、送料が無料なのはたしかにうれしいけれど、3日ぐらいしないと、本が届かない。待たされる「インスタント」に満足できない。そこで、買い物をする楽しみが半減してしまうにちがいない。だから、なかなかネットで買う気が起こらない。

それではなぜ、航空券はよく売れるのか。ペラペラの紙切れだからである。なんの飾りもない。とくに上質の紙を使っているのでもない。手触りがよいということもない。座席を確保したことを確認するだけのことである。満足は、このチケットを持って、空港へ行き、どこかへ向かう飛行機で、自分の席に座ったときに、やっとじわじわとやってくるものであろう。買った瞬間にうれしくなる人もいるだろうが、何度も旅をしているうちに、そういうことはなくなる。

だったらネットで十分である。とくにオンラインで買えば割引があったりする。ホテルの予約も安くなる。プラスの要素がたくさんあるではないか。買い物には、瞬間的な満足が伴うものが大半で、そうでないものは少ない。これが、オンライン・ショッピングを足踏みさせている理由だと、「ヌア」は分析している。テクノロジーの進化によって、こうした満足を少しでもヴァーチャルに得られるようになるかどうか。このあたりにも、ネットで買い物の将来がかかっていると言えようか。


■分かちがたい「もの」と「こころ」(河合隼雄)

日本人は、「もの」「こころ」を、それほど区別しなかった民族、国民である。ご来光を拝む人に「あの太陽は神か」と聞くと、「いや、太陽が何かはちゃんと知っている」と答えるはずだ。「では、なぜ拝むのか」とさらに問われれば、返答に困るだろう。日本人は太陽を拝みながら、「こころ」の中に生じてくる何とも言えない感じを大切にしてきたとも言える。

これを端的に示すのが「もったいない」という言葉だ。ご飯粒一つ落としても「もったいないから拾って食べなさい」。それは、その一粒の中に、「こころ」がこもっていると思っているからであって、ご飯粒を大事にしているのか、「こころ」を大事にしているのか、もう分からない、分かちがたい部分がある。「もったいない」と言っているのは、経済の問題ではなく、「こころ」の問題、あるいは宗教の問題なのだ。

このように、日常何気なくやっていることの中に、宗教的、道徳的なものが入っているのが日本人の特徴だが、我々自身、このことにあまり気付いてない。私もそれを意識し始めたのは、外国で向こうの人と宗教について話し合うようになってからだった。逆に、日本にやって来て初めて理解できたという人もいる。

例えば、大都会でも落し物、忘れ物がちゃんと出てくるなんていうのは世界でどこにもない。私の友達は「神様を敬い、教会にも行っている私たちより、何もやらない日本人の方がはるかに道徳心が高い」と驚いていた。この、どこか不思議な宗教心、公徳心は、日常生活と結びついた中で、親から子にずっと伝わってきていることがわかったとも言っていた。

そう聞くとうれしくなるのは確かだが、「近ごろは、公徳心が薄れてきているのではないか」と嘆く人も多い。しかし、今の子供に、例えば「もったいない」を教えるのは非常に難しい。「ご飯粒がもったいない」なんていうと、子供は「いっぱいあるのに」と言うだろう。昔風の教え方はできなくなっている。

私の例を挙げれば、父親との間で「父と息子との対話」などしたことはなかった。父親としての務めは、婚礼で祈り詰めが出てくると、ちょっとはしをつけて持って帰ること、これだけ。我々子供たちは、父親の帰りを待ち構えていて、中にようかんが入っていれば、母親が兄弟6人に切り分けてくれた。その薄い一切れを食べながら、「お父さんは偉い」と思っていたわけだ。

間単に言えば、「もの」がない環境は、大変教育がしやすかったということだろう。「もの」を通じて「こころ」が全部伝わるから、父親が「おい、対話しよう」という必要はない。折り詰めを持って帰ったら、もう終わり。あとは「エヘン」とせき払いをしていたら、教育ができていた。

日本人の家庭教育体系というものは、「もの」がないということが前提になってきた。寒い時には一つのこたつに皆が集まってくる。全員が入るためには、譲り合いをしなければ仕方がないし、皆が集まったら、ちょっと面白い話をする。

「お互いに察し合って」とか「ものを分け合って」とか、そういうことが全部できていたのは、「もの」が少ないからだった。貧しい中で、「もの」と「こころ」を一緒にしながら生きていく生き方というのは、日本人は大変上手だったのだが、急に豊かになった時にどう生きたらいいのかが見えにくくなってしまったんじゃないかと思う。


■「共感覚者の驚くべき日常」評(池田清彦)

共感覚(シネスシージア)と言われても、ほとんどの人は何のことかわからないに違いない。味に形を感じたり、音に色や形を感じたりすることだ。そう言われても、やっぱり何のことかわからないかもしれない。具体的に言おう。たとえば、あなたがスパゲッティを食べたとする。スパゲッティに特有な味と同時に、手のひらにつるつるの球をつかんでいるような感覚がしたとしたらどうだろう。突然、そんな経験をしたら、脳がおかしくなったか、体がへんになったと思うだろう。

生まれつき共感覚をもっている人がいると聞いても、にわかには信じられないだろう。感覚は主観的なもので他人には観察できないからだ。科学は主観的なことには立ち入らない約束になっているので、共感覚の問題は長い間無視されてきた。本書の著者はこの問題に科学的にアプローチしたほとんど最初の人で、本書はその記録である。

まだかけ出しの神経科医だった著者が、ひとりの共感覚者に出合う所から話ははじまる。多くの共感覚者は、自分が共感覚者であることを語りたがらないという。誰にも理解されないからだ。はじめて理解してくれる人を見つけたこの共感覚者は著者と友人になる。信じられないことにまもなく2人目の共感覚者が見つかる。最初の人は味に形を感じるが、2番目の人は高い音やにおいに色を感じるという。

2人の共感覚者に出合った著者は、謎を解明するために実験を開始する。共感覚は、同じ刺激にほぼ同じ感覚が生じるという。意志では回避できない不随意なものらしい。最近のはやりのコトバを使えばクオリアである。そしてついに、大脳新皮質がほとんど活動を停止し、辺縁系のみが働いている時に、共感覚が起こっていることをつきとめる。原著は1993年とやや古いが、話題はまだ旬である。


■パブリック・ドメインとしての「海のトリトン」(やぴぴの兄)

多分ここに来られるほとんどの方は、「トリトン」を幼少時代の大切な思い出とか、宝物のように思っておられる方が大半だと思います。ですが私の場合リアルタイムでの記憶がほとんど無い(見てはいるのだがほとんど覚えて無い)私にとって「トリトン」は社会的な文化遺産だと思っていますので、やはり作品論、作家論、技術論、系統立て、歴史的位置付け、メディア論と言った様々な角度からの「トリトン」の意義付けは必要だと思ってます。

なぜこう言った作業が必要かと言うと。

例えば「トリトン」のDVDの発売・・・。現在発売されたとしても、リアルタイムで見た世代がまだ生き残っている・・・つまりある程度売上げが見込めるので、商品として(しばらくの間は)成立するとは思います。しかしそれよりも下の世代となると「トリトン」の存在すら知らない世代が中心となるわけですから、売上げと言うか商品価値と言うのは、「トリトン」の場合先細るのは目に見えていると思います。アニメに限らずマンガ、映画、、美術、音楽、小説なんでもそうですが、商品価値だけが市場性、公共性を持つわけではありません。やはりそこには普遍的価値と言うものもあるわけです。クラシック音楽や明治文学、あるいは無声映画と言った、およそ商品価値がほとんど認められない(要するににほとんど売れない)ものでも市場に出てくるのは、その普遍的価値が認められているからこそだと思います。

だから好きな作品を好きと言う場合には理屈や理論は確かに不要ですが、公的な共有財産の是非と言う点においては理論付けは絶対必要。ましてや私のような素人などには「トリトン」を論ずるには様々な面で限界があるので、プロの評論家の存在は絶対不可欠と言えると思います。理想を言えば国の研究機関やNHKの様な公共放送などで、日本のTVアニメ論をやってもらうのが一番。民間でやるとどうしても売ることが目的となるので、科学的な揚げ足取り(例:空想科学読本)や、美少女ヒロイン図鑑のようなオタク的な瑣末的研究に陥り勝ちです。

【そこで結論】

1、トリトンはファン個々の想い出であると同時に公共の共有財産(要するにみんなのもの)でもあること。

2、後世に伝える、普遍性の有無については理論付けが必要。特に公的機関(NHKなど)での作業が最も望ましい。

トリトンもテレビ放送がされてから30年経ちますが、そろそろこの様な一歩ひいた見方と言うのも必要なのではないか?と思った次第です・・・いかがなものでしょうか?


■TVアニメ「海のトリトン」評(やぴぴの兄)

今回改めて海のトリトンを全話見直してみました。トリトンを全話通して見るのはこれが4度目かな・・・およそ10年ぶりです。

改めて見直していろいろなことに気付かされるのですが、最も驚いたのは、企画書にある「最もアニメーションらしく、スペクタクル・ファンタジーの世界を成立させながらも、海への情熱を背景として、人生に旅立ちをして行く一人の青年の冒険譚を描く」というコンセプトとは、まるで違う印象を持ったと言う点ですね。このアニメはオリハルコンの短剣を狂言回しに善なる破壊行為とそれに伴う悲劇を描いたものだろうと思います。ラストのどんでん返しは以前見た時などは、随分唐突な印象を受けましたが、劇中他の人間や魚達にやたらと悪人、悪魔扱いされているところや、最後の悲劇性を盛り上げるために、後半トリトンと交流する人間や生物がやたらとバタバタと死ぬところなど、どんでん返しの伏線になるようなプロットが散見されます。

物語全体がかなり悲壮感を漂わせているのも特色。最近のゲーム感覚の戦闘アニメとはえらい違い。以前うみかほるさんが指摘した特撮映画の影響ですが、巨人タロスやレハールの罠に出てくる骸骨などは、明かに「アルゴ探検隊の冒険」ですね。後巨大な白鯨が出てくる回はエイハブ船長で有名な「白鯨」。海の牢獄は「バクダッドの盗賊」、巨大イカは「海底二万マイル」か?吸血鬼、セイレーン、幽霊船をミックスさせた話もあります。原作のキャラクターが結構出ているのも目に付く。バキューラは原作のゴーブですね・・・海綿と言う設定まで同じ。

物語前半の人間に育てられたトリトンと海洋生物に育てられたピピ(あるいはトリトン族)とを比較したストーリー構成も面白い。応用力の高い知的生物ぶりやオリハルコンの剣を武器として使用するなど、トリトンを通して生物学的な人間の特色(攻撃性の高さ、破壊本能によって知的進化や文明を築き上げてきたことなど)が良く表現されている。特に第6話のトリトンが火をつけてピピが怖がるシーンが出色。

技術的な稚拙さや勧善懲悪的なストーリー展開に見えてしまうことが、災いして依然一般的な評価(ファンの評価は別にして)低いのだが、見た目以上に洞察力が高く重層的な内容を孕んだアニメだと言えると思う。


■高度な頭脳活動と攻撃性(香原志勢)

個人の心こそ人類文化維持の主体であろう。文化についての定義は数々あるが、人類の生活様式といちおう考えることができる。そして文明とは都市に発生して、今日の文化を彩るものと考えられる。一つの考えとして、文化は精神的なもので、文明は物質的なものとするが、これは物質を不当に軽視する見方である。いずれにしても、現代文明の支え手の主役も心であるが、人類の心、すなわち精神の特徴は何であろうか。すぐれた知性、意志、情緒こそ人類の所産であるが、他個体、環境に対する関心、そしてコミュニケーションも人類の属性であろう。抽象的な思考は人類のみに許された精神活動であり、これがため数量的な把握が可能になる。霊長類における視覚の発達も事物の構造的認識を発展させたといえよう。人類の精神活動は究極的には芸術、科学、そして呪術もしくは宗教にまでいたる。そして、このことによって、他の動物と完全に一線を画するのである。

人類は高度な精神――頭脳活動を有するがため発展をとげ、今日の文明に到達した。しかし、いまいえるのは、人類は高度な精神を有するがため滅亡の危険性があることである。それは、よりよいものを求め、つきるところがない。あらゆる欲望は精神につながる。そのなかでも、すべての動物になんらかの形で存在する攻撃性について注意を払うべきであろう。

動物が動き、環境に対してなんらかのはたらきをするということ自身、攻撃性の胚芽とみることができよう。攻撃性は動物の進化とともに発展し、高等動物である哺乳類や鳥類では種々の形で観察されている。なかでも、同種のものに対する攻撃性はいちじるしく、メスを獲得するためのオス同士の攻撃性については報告事例が多い。同種間の攻撃性は人類においてもっとも顕著であり、戦争、紛争が最大の事例として引きあいに出される。宗教、政治の争いも同様に厳しく、その例として異教徒に対するより異端者に対する報復の方がより厳しいことは万人の認めるところである。肉親の間では犯罪はおこりにくいが、ひとたびおこると、それは残忍をきわめる。

攻撃性は抽象的思考と結ぶつくといっそう過激になり、名誉心、征服欲、金銭欲、物欲など限りなく発展する。具体的なものと結びつくと敵愾心となる。歴史にみられる英雄談はそれらの話の集積である。一方、人類にもっとも近縁な動物は類人猿であって、それより近縁のものは絶滅し、今日存在しない。このことは、身近なものに対してより強く働く攻撃性の結果だと解釈される。


■直立姿勢と精神性(香原志勢)

大部分の霊長類は群居を本筋とする。そこには個体間の意志の伝達が必要になってくるが、身ぶり、表情、音声によって相互に連絡する。ニホンザルでは短い尾が、心の起伏の指標となっているが、類人猿では顔面筋の分化もいっそう細かになるため、尾がなくとも顔で表現する。人類では、身ぶり語、音声言語によって個体間のコミュニケーションを存分に伸展させた。身ぶり語は手や上肢の巧妙な動きがなければとうてい実現しなかったであろう。一方、人類が言語を語るためには、すぐれた中枢神経が必須であるが、音声器官として、唇や頬の完成も必要であった。これらは社会性の発達とも密接に結びついて、やがて高度なコミュニケーションを可能ならしめた。

人類は個体の体構造、機能の両面について卓越しているが、さらに多数の個体が相互に関連することによって、きわめて高度な能力を発揮してきた。そのように個体を結合したものが精神であり、その発現としてのコミュニケーションが頻繁となる。その根拠となるものをたずねていくと、やはり直立姿勢の採用にさかのぼる。

さらに、直立姿勢攻撃性とは密接な関係にあるようである。多くの動物において、もっとも攻撃的な姿勢は直立姿勢に似る。意気軒昂たる動物の脊柱は背側方に反り、尾はぴんと上がる。人間も胸をはり、肩をそびやかす。意気消沈の動物は脊柱を腹側方に曲げ、うずくまり、尾を股の間にはさむ。人間は肩を落とし、うつむく。そのため、腰を曲げる日本式のお辞儀は無理解な外国人により敗北、隷属の姿だと誤解される。直立姿勢は多くの動物においてもっとも攻撃的な姿勢である。それは前方から見るものには大きく見える姿である。著者は人類をもっとも攻撃的な動物と考えているため、人類の攻撃性直立姿勢採用との間の関連に納得できる証明を欲しいと考えている。

人類の諸行動のうちで、特異なものとして性交時の姿勢があげられる。いわゆる正常位、すなわち対面位は人類以外ではあまり記憶されず、ただ飼育された類人猿でしばしば観察されている。対面位は直立姿勢をとらねば無理な姿勢であり、その前提である抱擁もしかりといえる。これらの姿勢は単に性的欲望の結果でなく、相手の心の理解にふさわしい構えとみるべきであろう。

このように、直立姿勢は単なる身体上の問題でなく、かなり精神的要素が加わるものであろう。もっとも完成された直立姿勢といわれるものが、旧陸軍の不動の姿勢であろう。「気をつけ」の号令とともに瞬間的に強いられたこの姿勢は、いまなお著者には不快な記憶をよびおこす。しかし、不動の姿勢は、本人に最大の緊張を求めるものであり、また、ただちにつぎの行動にうつれる姿勢でもある。この事実を見ぬき、「気をつけ」を兵にくりかえさせて、絶対服従と規律とを守らせた軍人たちは、おそるべき有能なエソロジストだったといえよう。

もちろん明るい面もある。直立姿勢は、体のもっとも無防備部分である腹部を正面におしだす姿勢である。腹をわって話すというが、おたがいに弱所である腹を向けあって話すこと自体、たがいに隔意ないところを示すものだろう。心なしか、直立姿勢は共同生活、とくに精神的な共同生活をいとなむのに適しているともいえる。もし、人類が四足動物のままでいたとすれば、精神的理解だけの面でも今日のような社会は築けなかったであろう。


■視覚距離(坂根巌夫)

私たち目の見える者(晴眼者)が、目の見えない人とどうやってイメージを交換し合うことができるかというのは、人間同士のコミュニケーション大事なテーマのひとつだが、ふだんはつい忘れられがちになっている。現代の情報環境は、もっぱら晴眼者のための視覚的情報で溢れているため、ついついそれに流され、溺れてしまって、そこまでは意識がまわらないのである。それどころか、私たちの視覚によるコミュニケーションでさえ、じつはいくつもの盲点があることを忘れがちで、視覚だけが万能なような錯覚に陥っている。たまたま、この視覚の盲点を反省させてくれるのは、頼りにしていたはずの視覚が、なにかの折に、見事にだまされてしまうときである。最近、芸術から遊びの世界にまで、この種のだまし絵、かくし絵がふえてきて、私たちの視覚の驕りに気づかせてくれる機会が多くなったのも、もしかすると、人間のこんなアンバランスな知覚の発達を、調整しようとする自然の補償作用の一つなのかもしれない。芸術の世界に現れて来たスーパー・リアリズムというのも、そんな人間の盲点を気づかせてくれる格好の反面教師である。

■視点距離を利用したかくし絵

はじめにそんなかくし絵の一例をお見せしよう。最近のかくし絵、だまし絵は、次第に手がこんできて、高度の技巧をこらしたものがふえて来ている。十七、八世紀のヨーロッパには、図と地が、見方によって入れ換わる反転効果を利用して、木の枝の間に人の顔をかくす「かくし絵」が流行したが、最近では、人間の非常に微妙な視覚の識別能力に訴えかけ、最初ちょっとみただけでは全く意味のないように見えるパターンのなかからも、見える距離(視覚距離)を変えて見るとイメージが浮き出してくる、凝った作品まで現れて来ている。これも以前、私たちの「遊びの博物館」展に出品された作品のひとつだが、英国ダンディ大学の心理学者、ニコラス・ウェイドが作ったものである。


近くで見ると、整然と並んだ玉の連続模様にしか過ぎず、そこに秘密のイメージが隠されているとは思えないが、少し後ろに下がって全体を眺め直すと、画面の中央に、女性の顔がはっきりと浮かびあがってくる。写真のアミ点印刷とほぼ同様な原理によっていることは容易に想像がつくが、画素のレベルでの濃淡の変化は、普通のアミ点印刷の場合よりはるかに微妙で、普通の視力では、近くからでは、まず点の大きさの違いを見抜けない。私たちの認知のしくみは、かなり高度のメカニズムを持っているらしいが、ここでは、部分の微妙な変化が全体で積分されて、全体像を見る時、初めて認知できる閾値に達するような働きをしているようである。

■だまし絵の成立条件

これとやや認知の原理は異なるかもしれないが、数年前、アメリカを中心に流行したスーパー・リアリズムというのも、一種の視覚のだまし絵性にみちみちた作品であった。これは、写真のイメージをカンバスの上に拡大して、エアブラシで描いた絵画で、遠くから見ると一見巨大に拡大した写真としか思えないが、じつは手で描いた絵なのである。数年前、上野の美術館にやってきたスーパー・リアリズムの作品を見に出かけて、目の前に、一瞬自分の目を疑わせるほど真に迫る出来栄えで、巨大なチューインガムの、銀色の包み紙の絵が飛び込んで来たときのことを忘れない。それは、遠くから見ると、まるで本物そっくりに、キラキラと金属のように光って見えるが、幅が1メートルもあって、決して実物の臨場感があるわけではない。にもかかわらず、展覧会場のなかでは、人の目を引きつけるには十分以上で、思わずドキリとさせるのであった。人々はこの種のスーパー・リアリズムの絵の前で、まず遠くから眺め、それから画面すれすれにまで近づいて、それが決して本物の金属などでなく、かといって写真でもなく、ちゃんと色絵の具で描かれた作品であることを確かめて、安心するのであった。つまり、この種の視覚ゲーム性を持った作品の前では、人々は無意識のうちに視覚距離を遠近さまざまに変えてみて、それがだまし絵に過ぎないことを、再確認しようとする。適切な視覚距離に達したところで、その絵の持つ意味の二重性が発見できるわけで、その「だまし絵」の手口を、作者と共犯関係に立って初めて楽しめるところに、この種の作品の醍醐味があるといってもいいだろう。

■だまし絵感覚にあふれた彫刻

これもさきごろ、東京・伊勢丹美術館にやってきたアメリカのドゥエン・ハンソンの彫刻は、それにもましてリアルな、人物の生き写し彫刻であった。そこには、いまにも息遣いが聞こえてきそうなフットボール選手が腰を下ろしていたり、アメリカの街角ならどこででも出会えそうな太った主婦が、買い物袋を抱えて立っている。

人体から直接に石膏やシリコン樹脂で型どりをし、髪の毛や眉毛まで一本一本植え込み、毛穴やシミまで忠実に再現するその凝った仕上げは、見る人々を思わず感嘆させないではいない。フットボール選手の顔に光る汗のしずくまで、本物そっくりに出来ているのだが、それを確かめるために、人々は、スーパー・リアリズムの場合よりももっと近い、20センチくらいの視覚距離にまで近づいて、なお本物と嘘の区別がつかないのに満足するのであった。もちろんこれは、人間の視覚距離を基準にしたリアリズムであって、人間以外の動物には通用しないはずである。蜂やとんぼのような昆虫には、決して人間と同じに見えているわけではないし、動物の体温にだけ敏感なノミやダニが、プラスティックのオブジェを生き物と取り違えることはないだろう。いやいや、人間にとって忠実なペットの犬でさえ、その姿を目ざとく見つけて、遠くからしっぽを振って跳んできたりするわけがない。彼にとっては、嗅覚距離の方が第一で、主人の匂いのしない見掛けの物体を、ほんものと見誤るはずはないからである。

■盲人の認知の構造

スーパー・リアリズムの彫刻を見て、視覚の構造を考えていくとき、私たち晴眼者と盲人の認識世界との違いや共通性が、ますます気になってくる。盲人は、この種の絵画や彫刻を見る際には、視覚距離がゼロとなる。つまり、視覚によってはその存在のリアリティーを確かめようがないわけで、視覚の代わりに触覚だけが頼りとなる。しかし、手がこんな作品に触れた途端に、視覚のだまし絵性は消滅して、ゲームは終わりになる。触覚はたちまちその嘘を見破って、スーパー・リアリズムはどこかへ霧散してしまうのである。その代わり、ただの形あてゲームなら、盲人にはかなわない。電気を消して、真っ暗ななかで、こんな彫刻を触知して、それがどれほど人体にうまく似ているかを言い当てるゲームなら、視覚人間はたちまち降参してしまうに違いない。一般的にいうと、盲人が触覚的に図像を判断する際には、空間的に距離のある図像の間に、意味ある関連性をみつけにくいといわれている。先天性の盲児の実験例では、二つの円を重ねた図形を触知させると、最初はたいてい、二つの三日月と、その間にはさまれた楕円形として認知してしまうといわれている。

しかし、盲児の図形認識や表現が、触知対象の間の距離に限定されているように見えるのは、先天的のものでなく、生後の学習体験の不足からくるものだとも最近ではいわれだしている。私の十数年来の知人であるトロントの心理学者、ジョン・ケネディは、ボールペンで自由に触知図形が描ける新材料レーズ・ライター(ペンの跡が盛り上がって、触覚でたどれる線図が描ける材料)を使って、盲人の大人やこどもに自由な表現を試みさせているが、その結果によると、盲児には従来考えられてきた以上に、驚くべき認知能力や、表現能力があることがわかってきた。ふつう、先天性の盲児には、遠近法的な表現ができず、視線から陰になって見えない部分を一緒に重ねて描いてしまったりするが、学習をさせると、上からみた円が視点の高さによって楕円になっていく過程や、重ねた指の前後関係などまでをちゃんと表現でき、理解できるようになるというのである。

いやそれだけでなく、こちらから教えなくても、彼ら自身の発想から、絵に抽象性や暗喩性まで付け加えるこどもたちが現れているという。たとえば、盲児が描いた止まっている車輪と走っている車輪の絵で、走っている方のスポークがカーブしているのは、スピード感を表すためだという。

また、走っている男性の絵だが、この男の足の下には、マンガの絵によく出てくるスピードのシンボルともいうべき砂煙状のマークがついている。

同様に、水泳のジャンプ台から飛び込む人物の後ろに、スピード感を表す流れ線をつけたり、円筒の曲面を表すのに、中央の出っ張り部分に一種の隆起部分を強調する、太目の横線をつけたりするこどももいるという。

この種のスピードの暗喩的表現である流れ線は、ふつうの晴眼者でも、文化の違う国によっては理解できない場合がある。もともとだれにも見えないイメージの表現だからで、ケネディによると、西欧より日本や中国の方が、こういう表現の文化の点では、歴史的に早いらしい。いずれにしても、目の見えないこどもたちでも、学習次第で暗喩的な視覚表現までできるとなれば、これから先、盲人と晴眼者の間の、イメージによるコミュニケーションを、さらに広げていける可能性が十分あることが想像できるだろう。

■「神話」と「科学」(河合隼雄)

人間がこの世に生きてゆくためには、いろいろなことをしなくてはならない。自分を取りまく環境のなかで、うまく生きてゆくためには、環境について多くのことを知り、その仕組みを知らねばならない。このために、自然科学の知が大きい役割を果たす。自然科学の知を得るために、人間は自分を対象から切り離して、客体を観察し、そこに多くの知識を得た。太陽を観察して、それが灼熱の球体であり、われわれの住んでいる地球は自転しつつ、その周りをまわっていることを知った。このような知識により、われわれは太陽の運行を説明できる。

このような自然科学の知は、「自分」を環境から切り離して得たものであるから、誰に対しても普遍的に通用する点で、大きい強みをもっている。自然科学の知はどこでも通用する。しかし、ここでいったん切り離した自分を、全体のなかに入れ、自分という存在とのかかわりで考えてみるとどうなるか。なぜ、自分はこのような太陽の運行と関連する地球に住んでいるのか。自分は何のために生きているのか、などと考えはじめるとき、自然科学の知は役に立たない。それは、出発の最初から、自分を抜きにして得たものなのだから、太陽の動きや、はたらきは、自分と無関係に説明できる。しかし、ほかならぬ自分という存在と、太陽とは、どうかかわるか。

太陽と自分とのかかわりについて、確たる知を持って生きている人たちについて、ユングは彼の自伝の中で述べている(『ユング自伝』)。ユングが旅をしてプエブロ・インディアンを訪ねていったときのことである。インディアンたちは、彼らの宗教的儀式や祈りによって、太陽が天空を運行するのを助けていると言うのである。「われわれは世界の屋根に住んでいる人間なのだ。われわれは太陽の息子たち。そしてわれらの宗教によって、われわれは毎日、われらの父が天空を横切る手伝いをしている。それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ」とインディアンの一人は語った。彼らは全世界のため、太陽の息子としての勤めを果たしていると確信している。これに対して、ユングは次のように『自伝』のなかで述べている。

「そのとき、私は一人一人のインディアンに見られる、静かなたたずまいと『気品』のようなものが何に由来するのかが分かった。それは太陽の息子ということから生じてくる。彼の生活が宇宙論的意味を帯びているのは、彼が父なる太陽の、つまり生命全体の保護者の、日毎の出没を助けているからである。」

インディアンたちは、彼らの「神話の知」を生きることによって、ユングが羨望を禁じ得ない「気品」をもって生きている。これに対して、近代人は何とせかせかと生きていることか。近代人は豊かな科学の知と、きわめて貧困な精神とをもって生きている。ここで、インディアンたちが彼らの神話の知を、太陽の運行にかかわる「説明」として提出するとき、われわれはその幼稚さを笑いものにすることができる。しかし、それを、自分をも入れこんだ世界を、どうイメージするのかという、コスモロジーとして論じるとき、われわれは笑ってばかりは居られない。

自然科学の知があまりに有効なので、近代人は誤って、コスモロジーをさえ近代科学の知のみに頼ろうとする愚を犯してしまったのではなかろうか。自然科学の知をそのまま自分に「適用」してコスモロジーを作るなら、自分の卑小さ、と言うよりは存在価値の無さに気落ちさせられるであろう。自分がいったい何をしたのか「計量可能」なものによって測定してみる。相当なことをしたと思う人でも、宇宙の広さに比べると無に等しいことを知るだろう。特に、死のことを考えると、それはますます無意味さを増してくる。

このあたりのことにうすうす気づいてくると、自分の存在価値を見出すために、安易な「神話」でもつくり出すより仕方がなくなって、「若いときには」自分はどうした、こうした、というような安易な「神話」を語って、近所迷惑なことをする。あるいは、宗教家という人たちも、コスモロジーについて語るよりは、安易な道学者になってしまう。つまり、「よいこと」を、これほど沢山している、というくらいのことを誇りとしないと、自分の存在価値を示せないのである。

古来からある神話を、事象の「説明」であると考え、未開の時代の自然科学のように誤解したため、神話や昔話などの価値を近代人はまったく否定してしまった。確かに自然科学によって、自然をある程度支配できるようになったが、それと同じ方法で、自分と世界とのかかわりを見ようとしたため、近代人はユングも指摘するように、貧しい生き方、セカセカした生き方をせざるを得なくなったのである。

もちろん、だからといってわれわれはすぐに、プエブロ・インディアンのコスモロジーをそのままいただくことはできない。われわれはすでに多くのことを知りすぎている。われわれとしては、自分にふさわしいコスモロジーをつくりあげるべく各人が努力するより仕方がないのである。われわれは、エレンベルガーの表現を借りるなら、自分の無意識の神話生産機能に頼らねばならない。しかし、そのことをするための一助として、古来からある神話や昔話を「非科学的」「非合理的」ということで簡単に排斥するのではなく、その本来の目的に沿ったかたちで、その意義を見直してみることが必要であろう。


■マンガに「デッサン」は必要か?(竹熊健太郎)

■マンガ家のいうデッサンとは何だ?

「デッサン」とは、本来は西洋絵画の下絵を意味する言葉である。同時に、正確な物の形や質感の描写力といった意味にも使われており、「デッサン力」といえば基礎的な絵画技術力を指す。それにしても、マンガ家ほど何かにつけて「デッサン」を口にする人種もいないのではないか。新人・ベテランを問わず「デッサンが狂ってるから恥ずかしい」と謙遜するマンガ家はじつに多い。この言葉が出る頻度は、多分美術界より多いと思う。そもそも手塚治虫にしてからが、根強い「デッサン・コンプレックス」の持ち主だった。正式な絵画修行を一切しないでデビューした手塚は、『新宝島』発表直後の1947年、島田啓三や新関健之介といった当時の大御所にデッサン力のなさを指摘されて、しょげかえったこともある。

戦後のマンガ家は油絵や日本画などを「本画」と呼び、マンガの基本も本画にあるとされた。正式な絵画修行を経たことが彼らの誇りでもあったのだ。だからこそ、素人の自己流にすぎなかった手塚マンガの華々しい登場は、彼らのプライドを著しく刺激したのではないだろうか。「邪道」とまでいわれた手塚マンガだが、しかし現実にはこれが戦後マンガ界を席巻してしまった。手塚以降のマンガ家で、正式な絵画の訓練を受けた者がはたして何人いるというのか。それでも彼らがマンガを描くうえでなんの不都合もなかったし、表現としても立派に成り立ってきたのだ。ということは、こと戦後マンガに関する限り、マンガの絵とファイン・アート的なデッサン力の有無とはほとんど関係がないということになるのではないだろうか。なのに、現在に至るもマンガ家が呪文のように「デッサン」を口にするのはどういうわけだろう。彼らのいう「デッサン」とはいったいなんなのだろうか。

■マンガが描けないデッサンの天才

筆者の美術予備校時代の友人で、東京芸大進んだTという男がいる。彼は抜群のデッサン力をもっていて、成績はトップクラス。また彼はマンガも好きだったが、なぜか描いたことはなかった。筆者は、自作のマンガをTに見せ、「お前も描け」と勧めたことがある。Tは「よし」とばかりにその気になって描きはじめたが、どうにも普通の絵のようにはいかない。しばらく悪戦苦闘して、とうとう鉛筆を放り投げてしまった。描きかけのTのマンガを見て、我が目を疑った。日頃のデッサンとはほど遠い、恐ろしくたどたどしい絵だったからだである。印象に残っているのはTの次の言葉である。「マンガ家ってさ、何も見ないでよく描けるよなあ」。今にして思うとこの一言が、筆者がマンガと絵画の「デッサン」の違いについて考えるきっかけとなったように思う。

■マンガは「パターン」を描くものである!

Tの言う通り、マンガとは基本的に「何も見ないで」も描けるものである。もちろんはじめて描くものや実在人物の似顔絵、リアルな背景を描くときには写真などを参考にするだろうが、架空のキャラクターなどはソラで描けなければマンガ家とはいえない。資料をもとにした絵でも、何度も描くうちに、見なくても描けるようになるものである。なぜこれが可能かというと、マンガは「パターンを描く」ものだからだ。

洋画におけるデッサンは、これとは考え方がまったく異なる。石膏デッサンや人物デッサンを指導する教師は、初心者に必ず「対象物をよく見ろ」という。初心者は対象物ををろくに見ないで、ついパターンで描いてしまうからだ。これを戒める言葉なのである。あれは筆者が裸婦デッサンをしているときだったが、モデルの足元を描いていて、講師から「足の先が5本に割れてると思ってやがる」と嫌味をいわれたことがある。このときは何をいってるのかよくわからなかった。足の先は指が5本分かれているに決まっているではないか。しかし後になって考えると、この講師は、筆者が「目の前の足」ではなく、「パターンとしての足」を描いていたことを批判していたのである。目の前にある「足」は世界にふたつとない存在である。もちろん基本的な構造が違うわけはないが、足の大きさや太さ、微妙な指のつき具合(?)はその人だけのものである。こうした世界にふたつとないものを「あるがままに描く」ことが、基礎描写訓練としてのデッサンの目的である。つまり絵画におけるデッサンの本質とは「描く訓練」ではなく、「見る訓練」なのだ。見る訓練とはパターン化を排する訓練ということである。目の前にあるコップは、たとえ大量生産品であるとしても、厳密に観察すれば世界にふたつとないコップのはずである。しかも見ている瞬間の角度と光線の具合は後になったら二度と再現できない状態において観察し、正確に描写すること。それこそが近代西洋絵画の基本思想なのだ。マンガ家がいう「デッサン」とはなんと異質なものであろう。

マンガ家は無数の「形のパターン」の引出しをもっている。誰でもいいからマンガ家をひとりつかまえて、資料も何も与えず「車を描け」といったら、100人が100人「車に見えるもの」を描くだろう。意外かもしれないが、洋画のデッサン訓練をみっちり積んだ人間には逆に困難なのである。もちろん描ける人もいるだろうが、それは彼がデッサンの勉強をしたからではなく、多くのマンガ家と同じくそのパターン認識能力が優れているというべきだ。

■マンガは一種の書道である!?

有能なマンガ家は、対象物をいくつかの線でパターンとして抽象化し、美しいバランスに見えるよう紙面に定着させる。この線相互のバランスやコンポジションの美しさこそが、つまりはマンガ家のいう「デッサン」の正体なのだ。これは絵画というより、むしろ書道のそれに近い。

「僕は大体、もともと画が本職じゃないしね、デッサンなんかもやったことないし、まったくの自己流の画でしょ。だから、それは表現の手段としてね、たまたまお話をつくる道具として画らしきものは描いてますけど、僕にとってあれは画じゃないんじゃないかと、本当に最近思いだしたんです。じゃあ何かっていうとね、象形文字みたいなものじゃないかと思う。僕の画っていうのは、驚くと目がまるくなるし、怒ると必ずヒゲオヤジみたいに目のところにシワが寄るし、顔が飛び出すし。(笑)そう、パターンがあるのね。つまり、ひとつの記号なんだと思う。」(談/手塚治虫)

手塚のこの発言を「絵画コンプレックスの表れ」などと矮小化して解釈するのは適切でないと思う。手塚には確かに「本画コンプレックス」があったが、そのことが逆に自らの表現を深く考察する契機となり、ついにはマンガ表現の本質に気がついたというべきだろう。それがこの「マンガ=象形文字」説というわけだ。筆者はこの発言にであって目からウロコが落ちた気がした。手塚のいう通りマンガの絵を「文字」と考えると、マンガ表現にまつわるもやもやした諸問題が、すっきりと解決するからである。まず、画風の類似の問題。たとえば大友克洋ブームの際、無数に出現した亜流については記憶にあたらしいだろう。アニメ系のマンガ誌を開いても、興味のない者にとっては、誰が誰だか見分けがつかないほどよく似ている。パターンの明白な共有が見られるのだ。しかし、これを「文字」だと考えれば不思議でも何でもない。パターンの共有なくして文字は意味をなさないからである。パターン化というと「無個性」という言葉を思い浮かべる人がいるだろうが、そうではない。これも書道を考えてみればよい。「山」という文字の作りは一緒でも、100人書けば100通りの違う「山」ができるはずだからである。また手塚風・大友風・アニメ風といった画風の差異は、文字でいえば明朝やゴチックといった「書体」に相当するといえるだろうか。

■マンガの「絵」は絵画と記号の中間?

しかしマンガの「絵」を語るうえで厄介なのは、それが文字に近い記号表現と規定できるとしても、実際の文字・記号類と比べれば格段に具象性が高いというところである。特にマンガの「絵」は音喩(擬音など)や文字(セリフ)と組み合わされるため、実際にはほとんど「絵画」として認識される。その働きとして明らかに「文字・記号」の要素をもちつつも、印象としてはやはり「絵画」なのだ。このヌエのような独特の性質が、マンガ表現の解釈を複雑にしている。従来の絵画論的なアプローチや記号論的アプローチが、ともにしっくりこないのはそのためではないだろうか。本当は新語が欲しいところだが、いい言葉が見つからないので、本書ではマンガのビジュアルな部分を指して「絵」という表現を使っている。しかし「マンガの絵」はあくまで絵のように見えるだけで、本質は絵画と文字・記号の中間領域の表現だということに注意していただきたい。ある意味でマンガのビジュアルは、どこまでも「マンガ」という言葉でしか語りえないものなのかもしれない。


■メロディの喪失(長岡鉄男)

メロディ、リズム、ハーモニーが音楽の三要素といわれたのは十九世紀までだ。普通、音楽を口ずさむとか口笛で吹くというと、メロディだけである。そのメロディが種切れになってきた。どんなメロディを作っても盗作だといわれる。古典的な音楽システムでは新しいメロディは作れなくなった。そこで登場したのが無調であり、十二音であり、微分音である。さらに音色とかエネルギーといった要素を取りこむ努力も行われた。しかし、それも行き詰まってきた。こうなると破れかぶれである。メロディなしで音楽を作ろう。音楽とは音を楽しむことだ。とにかくどんな音でも出してみよう、ということでひとつのジャンルとして騒音音楽がうまれる。音の中でも特に重要なのは人の声だが、これも歌ではなく、騒音に対する騒声のような形で、とんでもない声を出す。叫ぶだけ、ぶつぶついってるだけの音楽もある。これを拡大していくと、エスニック・ポップス、現代曲、どの世界にもかなり古くからあったことがわかる。詩の朗読、短歌朗詠はもちろん音楽だが、演説も音楽であるし、説教、説法も音楽だ。読教、声明、聖書朗読も音楽である。西洋演劇、歌舞伎、ガマの油売りの口上、駅前やデパートの実演販売も音楽である。最近話題になったのはオウムの説法だが、これは言葉の魔術にミニマルをプラスしたもので、マインド・コントロールに威力を発揮する。

忘れてならないものにラップがある。これはメロディ、ハーモニーがなく、リズムだけの音楽とされているが、このリズムも消滅させてしまえば本物の次世代音楽になる。実際にそれに近いラップもある。手すりを叩いてもラップ、レコード盤を手で動かしてもラップだというが、こういったものは伴奏であって、ラップの主役はだろう。木魚を叩いて経を読むのと同じである。ナムアミダブツ、ナンミョーホーレンゲキョーの繰り返しもミニマル・ラップと見てよい。

ヴォーカルではヴォイス・パフォーマーが活躍している。歌でもない、ナレーションでもない何か。言葉の持つ多くの要素、アクセント、イントネーション、濁音、半濁音、促音、強弱、長短、緩急、トランジェント(スタッカートとレガート)、間、等々を重視して、一音、一音に意味を持たせ、これを組み合わせることで聴き手にイメージを喚起する。この手の音楽家のひとりとしてヒトラーがいる。彼の演説はわれわれが聴いても感銘するところがある。意味がわからなくても伝わってくるのである。この原理からいくと、言葉は日本語とか英語とか、決まったものでなくていいので、実際に何語でもない、意味のない創作の言葉で歌うパフォーマーもいる。

器楽にしろ、騒音音楽にしろ、ヴォイス・パフォーマンスにしろ、メロディ音楽とどこが違うかといえば、口笛で吹く気にならない音楽といえばいいだろう。


■マンガの言語学的・記号論的考察(呉智英)

マンガは、言語、音楽、映画などと同じように、人間の思考を記録し伝達する記号体系である。言語の場合、その記号体系の中にある秩序の規則が文法と呼ばれるものだが、マンガにも、言語における文法と同じようなものがあるはずだ。その「マンガの文法」について考えてみるのが本項の意図である。

前項で述べたマンガの定義について、マンガの文法の視点から、もう一度考えてみよう。マンガの定義は、「コマを構成単位とする物語進行のある絵」というものであった。これを、記号論の用語を使って言い換えるてみると、「現示性と線条性とが複合した一連の絵」とすることができる。

この用語について簡単な説明をしておこう。「現示性」とは、一般絵画や写真などの場合のように、そこに表現されたものが、一望で全体的につかめる性質である。むろん、巨大な壁画や群衆を写した写真などは、「全体的につかむ」のに眼も顔もそして頭も働かさなくてはならず、「一望で」が、物理的な一瞬を意味してはいない。しかし、鑑賞者の意識の中では、あくまでも一望なのである。これに対して「線条性」とは、鑑賞者が表現物の部分を辿りながらそれを集積することによって、全体を一つの流れとしてつかむことができる性質である。線条性を持つ記号体系の代表としては、まず言語が挙げられる。マンガは、コマの内部において現示性が観察され、コマのつながりにおいて線条性が観察される。

こういったちがいは、その分野を形成する本質的な要素なのだが、それでも分野ごとのこういった本質を表現の前に立ち塞がる壁だと感じ、壁を突破しようという試みは歴史的に幾人もの表現者によってなされてきた。線条性がきわめて強い言語表現という分野においても、文字を変えて視覚に訴える工夫が、漢字仮名まじり文を使用する日本語では頻繁に行われる。書道に至っては、線条性より現示性が強くほとんど一般絵画と同じになる。一般絵画の作者たちの間にも、線条性を獲得したいという願望はあり、今世紀初めの未来派の画家たちは歩く犬の足を何本も描き込んだりした。しかし、これは実験の域を出ず、その哀れな願望は現行のマンガの中に実現されることになる。

マンガとそれに隣接する絵物語やイラストレーションとの比較は、次のようになるだろう。絵物語はマンガに比して、絵と文章の分離が大きく、絵は現示性のみを担っている。イラストレーションは、旧来の挿し絵は、一般絵画と変わらず、現示性が強いが、昨今のものは、一コママンガがその内在する線条性に従って分割可能なように、線条性を潜在させていることが多い。

アニメーションとの比較では、その現示性を担うものがコマであるかカットであるかというちがいを見ることができる。そして、マンガにおいては、コマは単に現示性を担うだけでなく、線条性も担い、それ故にさらに細かい分割が可能なように、アニメーションにおいても、カットは現示性も線条性も担い、分割も可能である。アニメーションの場合、一つのカット内の線条性は、当然、そのカットの時間、すなわち30秒なら30秒というある長さとして現われる。マンガの場合、カットに相当するコマは、常に単位としては一つである。それなのに、どうして分割可能なのであり、線条性を担うことができるのだろうか。

それを保証するのがフレームなのである。フレーム技術は、作家や作風によって一様ではないが、例えば大きなコマとか横長のコマでは、その中に物語進行すなわち線条性が大きく描かれる。また、二人の人物の会話が一コマに描かれることもある。この場合は、大きさでなく、二人の人物の配置を考えたフレームの工夫がなされる。こういうコマも、一コマの中に描かれる線条性は大きい。

また、少女マンガに独特のフレームが使われることはよく知られているが、それは、少女マンガがスタイル画に近い性向を有し、現示性が強いからである。少女マンガでは、独特のフレーム使用が、コマとコマとの線条的つながりを崩す作用をしている。

このように、フレームこそは、その大きさや形態を変えることによって、現示性も線条性も自由に表現しうるマンガ文法の統辞の役割を果たすきわめて重要なものなのである。

それだけではない。マンガがフレームという統辞装置を精緻に発達させたことと、他ならぬ日本がマンガ先進国になっていることの間には、強い関連性を見出すことができる。

日本語は、周知のように、言語の形態分類をすれば、アルタイ諸語を含む膠着語に属する。これは、印欧語に代表される屈折語が活用語尾変化によって単語がつながったり、支那語に代表される孤立語が語形変化がなく語順によって文章が成立したりするのと異なり、助詞、助動詞が単語を粘着させて文章を形作る。また、日本語は、漢字仮名まじり文という、現示性の強い表意文字・線条性の強い表音文字の混用システムでもある。この二つのことは、マンガの文法と強い類似性を持っている。


■映画は総合芸術か(やぴぴの兄)

映画は総合芸術である。すなわち美術的要素(映像)、文学的要素(ストーリー)、音楽的要素(映画音楽)の三大要素に加え演劇的要素、さらにはミュージカルともなると舞踏的要素も加わる。昔は映画をそのようにとらえ、そのように鑑賞してきた。しかし映画のメールマガジンを発行して以来、幅広いジャンルの映画作品に触れるようになってから考えが変わってきた。

映画が総合芸術であるかどうかを語る前に、まず映画がどのようにして誕生し、どのように発展してきたかを考えてみる必要がある。まず映画が誕生する以前の映画前史。ドイツ映画「フィルム・ビフォー・フィルム」では映画が誕生する源泉を「光」「動く絵」とに分け、映画技術のヒントとなった様々な視覚オブジェ(影絵、パズル絵、幻灯、のぞきからくり、驚き盤など)を紹介する。これらは人間の視覚の残像などを応用したトリックが映画を形成する上で極めて重要な要素であったことを示すものである。

また映画が誕生した1895年。リュミエール兄弟によって公開された人類史上初の映画は、従業員が工場から出る場面を撮影したもので、そこにはストーリーも音楽もなかった。映画はしばらく写真と同じ「映像の記録」としての役割を持ち、やがて大衆の見世物へと発展していく。その代表的なものは奇術師メリエスが様々な映像トリックを駆使して作った特撮映画や、大掛かりなセットを組んで撮影された史劇、見ているだけで分かる単純明快なドタバタ喜劇などである。

やがて無声映画黄金時代になると、この新興ジャンルの芸術《映画》に、新たな芸術の可能性を見出した他の分野の芸術家達が続々参入し始める。その多くは近代美術運動、すなわち、ダダイズム、ドイツ表現主義、シュールレアリズム、ロシア構成主義などで活躍した人たちである。これらの近代美術運動と映画を結びつける接点はやはり自然科学の発達、特に物理学だ。具体的にはバウハウスのモホリ・ナギが提唱した「光と運動」。これは映画の本質そのものであり、当時の最先端の芸術家達がその表現の場所を映画に求めたのもうなづける。

やがて映画はさらなる技術革新の時代に移り、映像に音が付くようになった。トーキーの誕生である。これによりミュージカルや音楽映画と言った新しいジャンルの映画が誕生するきっかけにはなったが、逆に映像の進歩を止めてしまう原因にもなった。1927年のトーキー化前後の映画を見比べると音の付く前の映画の方が、音の付いた後の映画より新しく見える。これは映像センスに敏感な人であればあるほどそう感じるはずだ。また多くの映画のプロがトーキーが遅れていれば映画はもっと進歩していただろうと口を揃えることも事実である。

このようにして見ていくと映画の歴史は映像表現の発達の歴史であり、映像表現そのものが映画の主役であることが分かるのである。したがって自身の映画を見る目もおのずと《映像》を中心に見るようになり、ストーリー、映画音楽、役者の演技は付け足しにすぎないと思うようになった。

現在、音を省いたり、色の数を減らしたりした先祖返りのような映画を作っている若手作家がいる。彼らは現在のようなスピーディーな編集、重低音をまきちらす音響、人件費を減らすために使われるCGなどに限界を感じているようだ。映画は映像表現である。その原点に立ち返ることによって、また新たな傑作が生まれそうだ。


■死にゆく過程の五段階説(エリザベス・キューブラ・ロス)

キューブラ・ロスは、その厖大な臨死患者のインタビュー体験にもとずき、自分の近い死を予期し、あるいは宣告された人は、次の五段階を順次たどって最終的に死の受容にいたると述べている。

●第一段階 否認

自分が致命的疾患に罹り、末期にあると言うことを知らされると、多くの人がまず示す反応は「そんなはずはない」という否認である。否認は予期しない衝撃的なニュースを聞かされたときの緩衝装置としてはたらき、その間に、別の自己防衛法をととのえていくことができる。その意味で健康な反応である。

●第二段階 怒り

事態が、もはや否定できないと知ると、次の反応は、怒り、羨やみ、怨み、などの感情が出てくる。「なぜ、よりによってこのわたしが、こんな目に・・・」と運命の不当をなじり、健康な人への羨望や怨みが表面化する。怒りは、近親者はもちろん医師・看護婦など医療スタッフにも向けられるが、尊敬され、理解され、世話をされて、自分が価値ある人間として遇されていることを知る患者は、やがて怒りを静めていく。

●第三段階 取り引き

神、あるいは運命と何らかの取り引きができれば、もしかすると、この事態を少し先へ延ばすことができるかもしれないと考える。「この運命を逃れることができるなら、もう二度と人を憎んだり拒絶したりしませんから」・・・つまり何らかの犠牲を払うこと、よい振る舞いをすることによって、せめてもう一度歩きたい、息子の婚礼に出席したい、などの望みを叶えたいと思う。

●第四段階 よく鬱

病状が深刻化し、衰弱も加わってくると、人はもはや病気の実態を、単なる徴候であるとか、一時的な悪化であるとかいった説明ではすまされなくなってくる。そして、深刻なよく鬱状態におちいる。よく鬱には、

@反応よく鬱

A世界との訣別を覚悟するために経験しなければならない準備的よく鬱

の二つがあり、両者はまったく異なる扱いが必要。とくに第二のタイプについては励ましよりも、むしろ悲しみそれ自体の表現を促進することが必要である。

●第五段階 受容

長い抗いの時期は終わり、最後に人は自分の運命を受け入れていく。自分をとりまく人びとや場所と永訣しなければならない悲しみの作業も、すでになしおえたいまま、ある程度静かな期待をもって、近づく終わりをみつめ待つことができる。嗜眠の時間がふえ、関心の幅はせばまっていく。なかには最後まで闘い、希望を持とうとあがき、この受容の段階に達することのできない人もいるが、こういう人たちも、やがては戦いをやめる日がくる。


■殺しのハイセンス(長岡鉄男)

人間は殺しが好きなのである。やめさせるのは容易なことではない。いろいろな人に一番根本的な質問をぶつけてみた。「殺しはなぜいけないのですか」。納得のいく答えをしてくれた人はいなかった。筆者にも答えられない。「法律が禁止しているから」では答えにもなんにもならない。「神様が禁じておられます」。これもナンセンスだ。神さまの数はどのくらいあるかわからない。インドのある宗教では神の数は何十兆だといっている。殺しを奨励している神さまも少なくない。その代表はカーリー教だ。

「自分が殺されるのはいやでしょう。だから人も殺してはいけないのです」という答えは最もナンセンスだ。「おれは自分が殺されるのもちっとも怖かない。」という殺人者がたくさんいる。また「自分が殺されるのはいやだが、人を殺すのは好きだ」という答えも論理的で反論の余地がない。「あなたは負けるのがいやでしょう。だから人を負かしてもいけません」「はあ、そうですか」といって十五日間黒星を続ける相撲取りがいるかね。

個人より上の存在として社会というものを考え、社会を守るために殺人が禁止されるのだ、という説もあるが、これは「なぜいけないのか」の答えにはなっていない。問答無用で禁止するというだけである。ということは社会が変わればどうなるかわからないということ。江戸時代には社会を守るためのに「間引き」という名の殺人や「うば捨て」という名の殺人が、ほとんど公認に近い形で黙認されていた。二十一世紀にはこのシステムが復活すると考えている未来学者は多い。

殺しはなぜいけないのか、という質問に対する答えは今のところない。では逆に考えて、人間はなぜ殺しが好きなのか、という質問。実はこれに対する答えは出ているのである。それは人類誕生の秘密に深く関わっているのだ。人類はどのようにして誕生したか、次に紹介するのは、実は長岡説である。とはいっても筆者の完全な独創ではない。九十パーセントは海外の人類学者の説である。筆者はそれを適当にアレンジして、ちょっぴり味付けしただけだ。なお、日本の人類学者にはこういう考え方をしている人はひとりもいない。みんなマジメなピューリタンなのだ。

長岡式人類進化論。約四百万年前に人類の祖先らしき生物が誕生した。進化は遅々として進まなかったが、約二百万年に、この生物は草食動物肉食動物に分かれた。草食系は餌をさがして食べるというだけの生活であったため、進化は停止、環境変化への対応も悪く、やがて絶滅、草食系の中で環境変化に適応(進化とは限らない)して残っていったものがサルになった。

肉食系のものは闘争本能、殺戮本能から、さらには殺人本能までが発達し、狩の必要上から知能も発達し、進化していく。それから百万年、つまり今から百万年前に、肉食系から、雑食系が枝分かれした。肉食系は小グループに分かれて生活し、闘争本能、殺戮本能のみが発達し、グループ間の殺人も多く、文化の発達も遅れ、人口も増加しなかった。雑食系は融通が効き、幅の広い生き方ができるので、知能が発達し、文化が生まれ、グループも大きくなる。本来持っていた闘争本能、殺戮本能、殺人本能の一部は昇華してゲームや芸術となる。五十万年頃までには純肉食系は滅びて、雑食系の人間が勢力をのばし始める。この中からまたいくつか分かれて最後に生き残ったのが現人類。したがって依然として闘争本能、殺戮本能、殺人本能は残っている。それも必要以上に強く残っている。これが他の猛獣やサルとは決定的に異なる点だ。ライオンは食用以外に動物を殺すことはない。ネコの中には食う気もないのにカエルや小鳥をつかまえて遊んでいるように見えるものがいるが、これは人間に飼われて食事に不自由しなくなったため、本能が歪められて出てきたものと考えられる。

人間は闘いと殺しのテクニック、それを防ぐテクニックを軸として進化し、文化を発達させてきた。世界はひとつ、人類はみな兄弟、というわけにはいかないのである。実の兄弟だって殺し合うのが人類の特長であり、戦争は永久になくならない。もともと戦争のたびに文明は飛躍的に進歩してきたものである。もし世界中からすべての戦争をなくしてしまおうと思ったら、どうしてもそれに代わる大規模な殺戮ゲーム、殺人ゲームが必要になるだろう。とにかく人間は殺しが好きなのだ。


■「刀と首取り」評(木下直之)

上野の山を賑わせている「日本国宝展」(東京国立博物館)の会場に足を運ぶと、絵や彫刻に混じって抜き身の刀が数振り展示されていることに気がつく。あるいは、人殺しの道具が美術品と片を並べていることに嫌悪感を抱く向きがあるかもしれない。

しかし、もともと刀には神聖視され、宝物として扱われてきた先史以来の長い歴史がある。いわばその現代風の扱いが博物館の展示にほかならない。

刀は単なる武器ではない。だからこそ、刀は同じ武器である槍や鉄砲よりはるかに多く残ったのだとする著者は、翻って、では刀とはどのような武器であったのかと問う。刀への付加価値が刀を日本の武器の代表のように見せかけてきたが、戦場での刀の実態は存外知られてないからだ。

戦場では、敵とできる限り離れて戦おうとする遠戦志向が働く。したがって、もっとも重要な武器は長く弓矢であり、次に鉄砲となった。それが今はミサイルに代わったと考えれば納得がいく。槍と刀で渡り合えば、ほぼ間違いなく槍が勝つ。実戦ではとうてい刀は主役になれそうにない。

それを裏付けるために、著者は戦国時代の軍忠状(戦功証明書)から戦死者、戦傷者がどんな疵を負ったかを調べ、矢疵、鉄砲疵、槍疵が八割に達するのに対し、刀疵、切り疵は一割にも満たないという数字を明らかにした。それにもかかわらず刀が必要とされたのは、敵の首を切り取らねばならなかったからだ。

こうした戦場の現実を忘れて、刀を別格の武器に祭り上げてしまうことを、著者は「チャンバラ幻想」と呼ぶ。軍記物語、軍談、講釈、近くはチャンバラ映画によって幻想は妄想へとふくらんだ。その最もたるものは、日本陸軍の将校が腰に日本刀をぶらさげていたことだろう。いうまでもなく戦争が遠ざかれば、戦争のリアリズムは失われる。本書は、半世紀前に終わった戦争を、われわれがあたかも見てきたかのごとく語ることへの警告の書ともなりえている。


■世紀の悪法!家電リサイクル法についてやぴぴの兄はこう考える(やぴぴの兄)

家電リサイクル法が2001年4月1日に施行される。冷蔵庫など4品目の電気製品について運搬費も含めたリサイクル費用を消費者に負担させると言うもの。自治体によってはその費用が1万円近くになるものもあるらしい。テレビや冷蔵庫などは小型のものを買えば1万円以下のものもあるので製品価格以上の費用を負担させられる可能性もあると言う。行政のやることはアホなことが多いとは言えこれほどひどい法律はないと言える。

まず第一に不法投棄が増えることは目に見えている。しかもそれが分かっていながらそれに対する対応策や罰則規定強化を何もしていないのだから恐れ入る。町中をゴミだらけにする気か!このアホ!

リサイクルに肯定的な人でもこれだけ高額な負担を強いられるとこれからの環境行政に大きな疑念を持つことになるだろう。環境は通信、バイオ、ロボットと共に21世紀の重大なキーワードのひとつなのだから大勢の人に好意的に受け止められるようにしなくてはならない。

この法律がうまく機能しないと断言できるのは人の善意に頼る点にあるからだ。だいたい人の善意を当てにしてうまくいったためしがないのだ!その証拠に献血を見よ!年々採血できる血液の量が減ってきている。人の善意が有効ならば年々増えなければおかしいではないか。これがもし200mlの血液の採取に2万円払うとなれば人は行列を作って献血に励むだろう。もちろんやぴぴの兄も喜んで参加するぞ。人は滅私奉公的な感覚ではなかなか動かないものなのである。

そこでやぴぴの兄の提言。リサイクルに出すと消費者が儲かるシステムを作ってはどうか?と言うこと。例えば今まで1万円で売ってたテレビに10万円と言う値段をつける。これを買って消費者がリサイクルに出せば8万円が返ってくると言うシステムを作る。1万円はメーカーのもうけ。もう1万円はリサイクル費用だ。そして不法投棄した輩は戻ってくるはずの8万円がリサイクルをさぼったために8万円を損をする仕組みになる。これで不法投棄が全く無くなるわけではないが大幅に減るのは間違いない。また不法投棄があったとしても浮いた8万円を使ってリサイクル処理すれば良い。

どうかな?なかなかのグッド・アイデアでしょう?素人でもこのぐらいのことは考えるのだから法律を考える人はもっと知恵を絞れと言いたいな!


■「芸術の逆説 近代美学の成立」評(黒崎政男)

今日呼ばれている「芸術」とか「アート」とはいったい何か。あるいは、「芸術家」「作品」「独創性」とは。私たちは漠然とこれらの概念は、時代や地域を超えて人類に共通のものだと思っている。しかし本書は「芸術」だという概念が、実は十八世紀ヨーロッパにおいて初めて成立したものであることを厳密に論証する。

私たちは気軽にギリシャ「芸術」とかルネサンス「芸術」と口にするが、これは近代に確立された概念を過去へと投影しているにすぎない。本書は従来の発想に大きな変容を迫る「芸術」の概念史であり、この主張の衝撃は、美やアートに関わる人にとってすこぶる大きいものだ。

「自由な技術(リベラルアーツ)」(自由学芸)と「機械的技術(メカニカルアーツ)」という伝統的二項に、十八世紀中葉に、新たに「美しい技術(ボーザール)」が割り込んでいくことで、技術(アーツ)の世界の再編成が起こる。そこで初めて音楽、詩、絵画、彫刻、舞踊からなる領域、つまり「芸術」という新たな領域が成立した。この再編で生じた三分野が、今日の人文系学問、科学技術、芸術となっていくわけだ。

芸術家は「創造する」主体であり、創造性こそが芸術家の本質だと私たちは考えるが、十八世紀までのキリスト教的伝統にあっては、「創造する」のはただ神のみで「人間は創造する力をもたない」。独創性(オリジナリティー)にせよ、オリジナルとは元々「起源・源泉」の事であり、独創的という意味ではなかった。それは芸術家の営みに先立って在る規範を指しており、これも十八世紀を境に、芸術家自身の内部に帰納されていく。

あとがきによると、本書のために十年の歳月を費やしたとある。あわただしい現代にあって、このような地道な研究の営みが、かくも豊かで有益な思索を生み出していることは大きな喜びである。


■「曖昧な世間と私」を直視せよ(阿部謹也)

意外と知られてない事実ですが、明治以前の日本絵画には、自画像の歴史がありませんでした。東京美術学校(現在の東京芸大)の卒業制作に課せられたのが、はじまりなのです。それは長く日本人が、「自分」を他人と区別して直視する必要がなかったからではないか。周囲からどう見られるか、だけが重要だったのです。

実際、「個人」という言葉も、明治17年まで存在しなかった。私はこの日本人独特の、集団と個人の関係を表すのが、「世間」という言葉だと考えています。

今の日本のあらゆる問題にも、「世間」が顔をのぞかせている。たとえば福岡地検の次席検事が、容疑者の夫である判事に捜査情報を漏らした事件。司法に携わる彼らは同じ「世間」を生きているから、罪悪感がなかった。「世間」とは、利害関係を共有する集団なのです。

また外交機密費事件でも、恐らく外務省の職員はほとんどが、松尾元室長の行為に気がついていたはずです。しかし、同じ「世間」に属する自分に火の粉がふりかかるのを恐れ、見て見ぬふりをした。一連の警察不祥事とそのもみ消しにもまったく同じことが言えます。

だがこうした事件を報じるマスコミは、「モラル欠如」「国民への背信」といった、近代市民社会の言葉で断罪するだけで、「世間」の存在を素通りする。それはインテリもまた、「世間」の一員だからです。

実は「世間」の一番厄介なところは、属する人間にも、それが自覚されない点です。日本人は誰もが、近代化された西欧的「社会」と、義理人情に象徴される伝統的「世間」ダブルスタンダードを知らず生きている。

その典型が政治家です。東京(国会)では近代社会の言葉を使うが、地元の選挙区ではいきなり「世間」の言葉に戻る。失言とは、「世間」の言葉が、社会的な場でポロリと出てしまうのを指す。要するに、森首相は正直過ぎるのです。失言により人間性をあからさまにし、かえって人気を得た政治家もいた。森首相の人気のないのは、失言で彼の人格が見えてしまい、失望するからです。

森首相は、「政治を混乱させた」責任をとって辞めることになるようですが、その責任とは、国民全体に対してではなく、あくまで自民党という「世間」に向けたものなのです。だから、外からはまったく理解不能になる。銀行が潰れても責任者が処罰されない一方で、末端の社員が起こした個人的不祥事で「世間を騒がせた」からと、企業のトップが謝罪する。横並びの「世間」の中で、一人一人の個人の位置が明確に示されてないからです。にもかかわらず、文部科学省などが個性を重視した教育を行うと言っているのは矛盾も甚だしい、空論に過ぎません。

ヨーロッパでは、キリスト教会を頂点とする中世社会から、市民革命を経て、「個人」の共同体である近代社会が確立するまで、六百年かかった。日本では、革命が起きたことは一度たりとてない。大化の改新、明治維新、敗戦後の変革、すべて「外圧」により起きている。

しかし、ここで強調したいのは、私は「だから日本人はダメなんだ」と言うつもりはけっしてないことです。むしろ従来歴史学者たちが、日本を西欧社会と比較し、「遅れて」いるかのように扱ってきた害悪はきわめて大きい考えています。結果として日本人の無自覚な「世間」と、「社会」のダブルスタンダードを温存してしまったからです。そもそも学者こそ、「世間」(学会)の住人であることにさえ気がついていません。

では、行き詰まった日本の「世間」を、どう打破したらいいか?一筋縄ではいかない。だが第一歩は、われわれ一人一人の中におる「世間」と冷静に向き合い、相対化するしかないと思います。「世間」をすぐに変えることはできなくても、「世間」と折り合いをつけ、さらに乗り越えることはできるはずです。

日本人が真の自画像を描けるようにならない限り、二十一世紀の夜明けは訪れない。