山梨・儀丹の滝訪問記


10月25日(土)くもり。
思っていることや書きたいことを、文章で伝えることは、なかなか難しい。 話し言葉では、ああだった、こうだったと、割合簡単にいえるのだが。
いつも、おまえの文章はかたくていかん、もっとやわらかくして、冗談くらいいれろと言われてしまう。 しかし、いざ出来あがった文章を読むと、自分でも、かたい、つまらない文章だと思う。
文から、人に伝えたいこと、訴えたいことを、素直に表現するっていうことはなんと難しいんだろう。
うん、この人の文章は面白い、引き込まれてしまう、というような本は、山の本では佐瀬稔、推理小説では赤川次郎があると思う。 今回の旅の中、見聞きした中には、いくつか、これはと思うことがあったので、その辺も書いてみたい。
昨日の県道横での出来事。
吹き付けコンクリート壁と金網との間で上から落ちた2匹の鹿がいた。 一匹の雌は死んでいるらしく動かない。 もう一匹の雄はあばれ、もがいていた。

助けるには、丈夫な金網を切るしかなく、不可能。 雌が落ち、それを見た雄も落ちてきて助けようとしたのか、さだかでない。 これも自然の定めか、と思いながら通り過ぎた。
道の駅”とよとみ”に泊まり、夜中に目が覚め、それからはうつらうつらしていた。
4時少し前に、いつものようにラジオのスイッチを入れた。 今日は、懐かしの歌のない歌謡曲をやっていた、これはこれでまたいい。
4時からの、ラジオ深夜便の話しは非常に面白かった。 群馬県倉渕村(昔、権田村)にある、小栗上野之介菩提寺住職の話し。
上野之介が日米通商条約の遣米使としてアメリカに行き、そのとき見聞きしたことの話しで、その後、上野之介が何を思い、どう行動したかの話しである。 上野之介がした三つのことがあるという。
一つは、パナマで鉄道に乗り、鉄道の建設費とその運営(大金持ちが、寄り合い、木戸銭を取って運営している)はどのようにしているかということ を聞いた(現在の株式会社である)。
日本に帰り、堺の港を大商人に運営させようとした(スタートはしたが明治維新で頓挫)。
二つ目はニューヨークで泊まったホテルに感激、鉄の柵があり、水洗のトイレまであったこと。
帰ってから、先代の清水組に、水洗トイレ付きのホテルを、江戸に建設してしまった(見物人が大勢押し寄せ、見物料までとったとのこと、江戸の大火で焼失)。

三つ目はワシントンで見た造船所の話し(鉄をハンマーでたたき、くぎや錨から、船に必要なあらゆる物を作っていた)。
帰国後、幕閣の反対を押し切り、横須賀に総合の造船所を作ってしまった(現在の米軍横須賀基地)。
ここを利用することにより、その後日本が、日露戦争に勝つことが出来たこと。
現在も稼動出来るハンマーが、基地内に保存されているということである(重さ3トン)。
これらからして、いかに上野之介が、非凡な考えと行動をしたということが考えられる。
明治維新後、群馬県、権田村に移り、隠居生活を送ろうとしていたところ、政府の役人に捕われ、殺されてしまった。
その後、生き残った婦女子は、追ってを逃れ、権田村から六合村を抜け、新潟県秋山郷から、新潟、会津へ渡ったという。
群馬県から新潟県までは権田村の農民が保護し、会津では会津藩でだいじにされたという。
その後、会津戦争があり、会津藩の人の手で、静岡に逃れたという。
彼ら、農民や会津藩藩士の報酬は何だったのか、それは”義の精神”だという。 報酬はなく、これだけは何が何でも、やらなければならない事、ということだったらしい。
おりしも総選挙が近い、こういう考えを持ってやれる人は、どれほどいるのか。 後世に、語りつづけられる人物が出てほしいものだ。

トイレの前のベンチで寝ている若者を見て。
昔はあたり前のように沢山いた、現在の若者は楽な方を選ぶのが多い。 自分の昔はどうだったのだろう。
二十歳のころ、国道とつぎはぎだらけの高速をつなぎ、夜通し車で走って北海道へ行ったことがある。 高校3年の時、夜中に望遠鏡をしょい、バイクで峠まで”カノープス”を見に行った時、途中、警官に職務質問をされ、峠途中では雪で上がれなくなって 困っていた時、たまたま通りかかったタクシーとお客が、心配して峠まで乗せていってくれたこと。
雲間に見た、”ベネット彗星”、夜明け前に輝く”ウエスト彗星”、毎朝通ってそのまま寝不足で会社に行った”ヘール・ボッブ彗星”と天体観望に夢があった。
今では、あまり夜は出かけなくなったが、道の駅”しもべ”で見た満天の星空を見て、昔のことを思い出した。 来年5月に見られる予定の2大彗星ランデブーも楽しみである。
ファミリーマートで熱いカップヌードルを食べ、明るくなりかけた空の中を、増穂町に向けて走り出す。
明けかけた、平林(たいらばやしかひらりんか、一八十のもーくもく、さてどれが正解か)地区では、のどかな段々畑の山村越しに 秀麗な富士山が顔を見せている。
いい風景だ、このあたりは高下地区と並んで、富士山を見る場所としては有名だそうだ。 しばらく、富士山の写真を撮り続ける。

氷室神社の駐車場に車を止め、石の階段を登っていく。 本殿の横に案内があり、櫛形山登山道経由儀丹の滝と書いてある。
杉林の登山道を登って行くと、沢音が近づき、とい状に流れる沢が下に見えてくる。 だんだん沢に近づき、この沢が利根川だと思っていたら、手前の小沢だった。
沢を渡り、斜面を巻きながら南方面に出ると、櫛形山登山道と儀丹の滝との分岐になる。 儀丹の滝経由櫛形山登山道は、がけ崩れのため、通行禁止と書いてあった。
しばらくは、水平歩道のような歩きやすい道が続く。 やがて鎖場が出てきたところで、下に滝が見えてきた。
これが儀丹の滝かと思ったら、違っていたらしく、鎖の道は急激に登っていく。 この辺から少し荒れており、鎖を頼りにしながら、慎重に登って行くと、目の前に儀丹の滝の下段が出てきた。
上段と全体像を見るには、少し離れた対岸に登る必要がある。 滝横のがけ崩れは激しく、ロープや鎖が埋もれかけていた。
50M上には櫛形山林道が見えるので、上から降りてくるという手もある。 荒れてはいるが、おそらく櫛形山登山道へは、一旦林道を横切るのだろう。
高見に登ると紅葉の木々に囲まれた、儀丹の滝の全体像が見られた。 かなり高さのある滝だ、40Mくらいあるだろう、立派な滝だ。
最初に見えた滝も見ていこうと、そのまま沢沿いを下る。 儀丹の滝の下にある5Mの滑滝を下ると、その下に滝が見えるが、ちょっと下るラインを考えた。
右岸に古いトラロープあるのを、発見したので、それを利用して降りると、さらに古いロープが木にかかっていた。 土に埋もれていたので、自分のロープを出し、滝下に降りる。
小さな滝を連ね、最下段は6Mくらいの滝をかけていた。 あまり大きな滝ではなかったが、滝らしい滝ということで一応満足。
横のガレを直登し、鎖のある登山道に出た。 また、登山道を下り、ゆっくりと神社の階段を下っていく。
駐車場からは往復2時間程度の時間だった。 駐車場から、朝、頭の見えなかった富士山が、形良く見えている。 時間は早かったが、帰りが込むことを考え、あまり無理をしないで、ここで滝見をやめ、みやげに信玄餅を買い、帰途についた。

神社駐車場―分岐―儀丹の滝――駐車場

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