韓武舘から錬武会の時代


日本空手道錬武舘は「首里手中興の祖と云われる」糸洲安恒先生の高弟、遠山寛賢先生が東京に「修道舘」を開設し、その高弟の尹曦炳、金城裕両先生が中心となって戦後間もない昭和20年9月に東京千代田区九段下に錬武舘の前身である「韓武舘」を開設いたしました。

韓武舘では素面、素手の空手道組手より一歩進めて防具付空手道を標榜いたしました。
昭和21年3月から剣道の防具を使用して防具付空手道を開始しております。

昭和23年に道場を世田谷の三宿に移転して活動して参りましたが指導されていた尹曦炳先生が昭和24年に韓国に帰国されて、すぐ朝鮮動乱が勃発したため道場は閉鎖してしまいました。

昭和26年に現在の名誉舘長中村典夫が韓武舘を継承し内外タイムス社長であった蔡長庚先生のご助力により渋谷区神南の温故学会内に道場を開設し錬武舘に改称し本拠地として活動して参りました。

そして昭和29年5月、防具付ルールによる「関東空手道選手権大会」が埼玉県春日部市立春日部中学校体育館に於て開催され、同年12月には錬武舘主催による「第1回全国空手道大会」が東京神田の共立講堂に於て盛大に開催されました。本大会は日本国内最初の全国大会でありテレビで放映され、全国に防具付空手道競技の安全性、実践性、判定の明確性等を立証いたしました。

昭和30年共立講堂に於て「第2回全国空手道選手権大会」を開催、昭和31年には蔡長庚先生の所有する西新宿西勢ビル5階に道場を移転し、以来半世紀に亘り錬武舘本部道場として多くの門下生たちが汗を流して稽古に励んで参りました。

昭和31年11月「第3回錬武舘全国選手権大会」を渋谷公会堂に於て開催、昭和33年、6月「第4回錬武舘全国選手権大会」を日比谷音楽堂に於て開催する。

昭和33年4月4日、名誉会長の蔡長庚先生を会長に舘長の中村典夫を理事長として全日本空手道連盟が結成され、昭和34年、錬武舘を全日本空手道連盟に改称したことから、大会名を「第1回全国日本空手道連盟選手権大会」として開催しました。

以後、連盟主催による「全日本空手道連盟選手権大会」に切り替え、「第4回大会」を最後に錬武舘主催による全国大会は中断されることになってしまいました。

昭和39年3月、初のアジア大会が東京と宇都宮で開催され、6年間に亘って日本、韓国、フィリッピンに於て2回づつ開催しております。東京オリンピックが開催された昭和39年に空手界の大同団結の機運が高まり「(財)全日本空手道連盟」が結成されました。

この時、錬武舘は昭和32年に創立した全日本空手道連盟の看板を日本空手界の為に譲り、昭和39年10月に全日本空手道錬武会と改称、「(財)全日本空手道連盟」の発足当初、空手界統一の為に各流派、会派の全国大会は行わないという取り決めがあり、そのため錬武会は昭和39年から全国大会の開催を中止して来ました。


各流派が次々と全国大会を開催する中でこの取り決めを忠実に守り丸7年間、全国大会の開催を実施しなかった為、錬武会の発展に大きな妨げとなってしまいました。

昭和46年、錬武会は方針を変更し「第10回全日本防具付空手道選手権大会」を開催いたしました。この昭和46年からの「全日本防具付空手道選手権大会」の再開により、錬武会は再び活性化し着実な第一歩をスタートいたしました。