当山の観音様は武相三十三観音、第8番の霊場にあたり、平安時代から霊験あらたかで名高く、とくに江戸時代には、子安観音として世に広く信仰されていたことが、寺庭に残る寛政6年(1794)建立の石柱からも窺われます。宝暦9年(1759卯年)以来、12年毎の卯年に開扉されております。
 明治30年代までは、山門の左手山腹に二間・三間の観音堂が建っておりましたが、当時近在に悪疫が流行した際、病棟として使用したため、焼却処分となりました。その後観音様も大正10年の火事で焼失、現在の千手観音像は大正11年(1922)4月に開眼したものです。
 このように、近在の人々の疫病対策に貢献した経緯から、当山観音堂の再建は寺及び檀信徒の悲願であり、弘法大師千百五十年ご遠忌記念事業として、昭和61年(1986)5月、客殿(蓮華殿)とともに建立されました。
 江戸時代末期には当寺は寺子屋として近隣の地域の教育を担っており、明治9年(1876)より寺の境内に昭景小学校がおかれ、落川、百草、一ノ宮方面までの子弟が学んでいました。明治42年(1909)に潤徳小学校の落川分校となり、昭和41年(1966)3月廃校になるまで、落川、百草地区の小学校初期教育の中心となりました。その場所に、現在当山観音の本誓である、子育と、寺子屋分教場教育の流れを受け継いで、日野わかくさ幼稚園が昭和43年(1968)4月より開園され、地域の幼児教育の一翼を担っております。
 尚、当山の裏山には、環境省の絶滅危惧種に指定されております貴重な植物の「多摩の寒葵」が自生しており、寺庭でも数株移植されたものを見ることができます。