総本山 京都市東山七条 智積院
もと 別格本山 高幡山 金剛寺の末寺

 真照寺の開基は弘意僧都で、長元9年(1036)3月3日入寂と記録されており、現在より約千年前、藤原氏全盛時代の長和年間(1012〜1016)か、それ以前が草創と考察されます。
 最近の落川地区の遺跡発掘により、この地域に奈良時代から平安時代にかけて一大集落があったことが確認されております。現在の百草園付近にあったとされる「幻の真慈悲寺」(鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記載される源氏ゆかりの中世の大寺院)との関係も考察されます。
 その後、天正年間、安土・桃山時代、法印善意を中興の法流の祖としており、現住博雅で中興法流16代目になっております。
 大正10年(中興14世 野村宥慶住職の時)5月24日大雨の夜、不慮の火災により山門とご本尊様を残して堂宇(九間・七間)、仏像、古文書などすべて焼失してしまいました。その時焼失を免れたご本尊大日如来は、元禄9年(1696)三条松木某の作で、嘉永3年(1850)隆峰(中興10世)の時に大仏師中藤新田の新田幸吉が彩色したことが、仏像内部に記録されております。後に、昭和42年(1967)仏師梶川啓雲により大修復が行われました。
 同じく焼失を免れた山門(薬医門)は、古刹をしのぶ唯一の瀟洒な姿を残していましたが、昭和48年(1972)復元のため解体したところ、建立は元禄15年(1702)10月27日、中興5世 良清住職の時で、大工は四谷村、市川金兵衛と真柱の
(ほぞ)に記録されていました。昭和49年(1974)翠雲堂によって再建され、古を偲ばせています。

真照寺 縁起