日本に二大政党制は合わない!?

1940年米ニューヨーク生まれのコロンビア大学政治学教授で日本の政治研究の第一人者と言われるジェラルド・カーティス氏が日経ビジネスに寄稿した内容に対する私の常識的なコメントです。常識は必ずしも正しからずではありますが、マックスウエーバー的発想が全く感じられない点に大いなる不満があります。コメントは、下記の寄稿本文の中に青字で挿入します。

私のコメント

日本には二大政党制は合わない?   日経ビジネスオンンライン 2009年9月15日(火)
ジェラルド・カーティス氏が読み解く“自民党政治”の崩壊

 私が子供の頃、アメリカの大都市では、たいてい同じ民族がまとまって暮らしていた。イタリア系、アイルランド系、アフリカ系のアメリカ人が独自のコミュニティーと教会をつくる。東欧系のユダヤ人も、同質的な社会に住み、シナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)で祈りを捧げていた。移民一世を中心に形成された都市部のコミュニティーは、日本の農村と同じような共同体意識の強い社会だったのである。
(歴史の長さと深さからして、似たような共同体意識と断じるには無理がありそうです)

 政治家の行動もよく似ていた。日本には選挙応援に奔走した運動員に「足代」を払う習慣がある。これを日本独特の習慣だと考える日本人は多いが、アメリカにも「walking around money(歩き回る金)」という似たような表現がある。意味は「足代」とまったく同じだ。
(独特だと言うよりは、目的を達成するための手段は、どの国でも収斂するのではないでしょうか)

1960年代半ばに崩壊したアメリカのマシーン政治

 当時の民主党議員は、住居や就職の世話など、何かにつけて有権者の面倒をみた。私が若い頃、ニューヨークのブルックリンにあった民主党本部は、佐藤文生氏の別府の後援会事務所とほとんど同じようなサービスを有権者に提供していた。
(議員は利益代表者ですから法律に抵触しない限りは当然な行為とされます)

 しかし、アメリカ経済が発展し、価値観が変わるにつれ、地元を離れる人や、外部からの人口流入が増え、共同体としてのコミュニティーのまとまりは薄れていった。有権者は民主党のマシーン政治に恩義を感じなくなり、地元の政治ボスは次第に票を集められなくなった。ボス政治への批判も高まり、民主党内部の改革が進んだ結果、1960年代半ばにはマシーン政治は事実上崩壊した。

 半世紀後の日本でも似たようなことが起きている。村落の共同体は、急速に弱くなった。子供は大きくなると、村を出て行く。テレビの地震報道を見ていつも衝撃を受けるのは、農村部で倒壊した家屋に住んでいるのが、ほとんどが高齢者だという現実だ。
(半世紀後に日本でも似たよなことが起きたというのは彼の勘違いですね。地方から都会への若者の流出による地方の空洞化は50年以上前から始まっており、それが逆に、若者による意識改革もなく旧態依然とした村落共同体の意識を強化したとも言えます。要するに、当時の政権与党の自民党にとって基礎票が固めやすくなったわけです)

遠のいた有権者と地元議員の距離

 40年前、私が大分にいた頃には残っていた日本の大家族制度は、もう消滅したと言ってよい。昔の政治家が農村部で行っていたようなサービスは、もう誰も望んでおらず、必要とされてもいない。そして、必要とされるサービスが提供されていないのである。今のような社会では、地方議員や利益団体の幹部が地元の票をまとめようとしても、自民党の最盛期のようにはいかない。
(日本で核家族化は1920年には既に55%と言われ、1975年に64%に到達してから逆に下がってきているようです。Uターン現象がありましたよね。ですから、大家族がなくなったから自民党の集票メカニズムが機能しなくなったとすると間違いになります。自民党は地方が本当に必要とするサービスを提供しなかったという点は正しいです。その理由は単純明快だと思うのですが…)

 数年前、私はあの地方議員と田舎道を歩いた村を久しぶりに訪れた。議員はすっかり年をとり、村は高齢者の村と化していた。かつてあれほど活気があった村の組織は見る影もなく、村民同士が集まって過ごす時間が減り、家でテレビを見て過ごす時間が増えた。

 住民から要望のあった道路はすべて整備されたが、道路ができた結果、都会に出て仕事を探しやすくなった。「平成の大合併」と呼ばれる明治期以来の大規模な市町村合併は、効率化と行政コストの削減につながるだろうが、多くの町村議会が廃止されたことで、地元選出の議員が減り、代議士候補の票をまとめる地方議員も減った。そして、有権者と地元議員の距離も遠のいた。
(道路が出来た結果、都会で仕事が探しやすくなったというのはこじつけに過ぎません。地方が疲弊し続け、仕事を都会に求めざるを得なくなったのです。住民数が減り、相対的に保守的な老人だらけになったのですから、自民党は票集めに苦労しなかった筈です)

たしかに日本の町村議会は多すぎるのかもしれないが、日本の草の根民主主義は、そうした町議会や村議会が中心になって支えていた。現在議論が盛り上がっている道州制もそうだが、行政の効率化ばかりに目を奪われていると、草の根民主主義の衰退を招くことにならないか、考えてみる必要がある。
(日本の草の根民主主義の意義は、硬直化し腐敗し続ける既存(55年)体制の中で市民の権利を守ることにあったのです。それが、一段高い目標である政治革新へと昇華されてきたと考えられます。ですから、民主主義の意識が草の根から国民全体のレベルまで向上したと考える方が妥当でしょう)

 地方の有権者の声は、『代議士の誕生』の執筆当時から様変わりした。今、地方の有権者が不安に思っているのは「近くに病院がない」「農業の跡継ぎがいない」「政策が全国一律で地元の事情が反映されない」「自民党が地方経済の活性化に有効な対策を打ち出せない」といった問題だ。
(全くその通りですね)

 都市部ではかなり前から民主党の支持が高まっていたが、自民党が見逃したのは、もしくは対応を怠ったのは、地方が自民党のアキレス腱になったという現実だ。2007年の参院選と2009年の衆院選では、長年自民党を支持してきた地方の有権者が反乱を起こし、自民党敗北の大きな原因となった。

 したがって、佐藤文生氏が衆院選に初当選した1967年当時のような選挙戦略は、今の日本で使うのはあまりにも時代遅れである。地元の名望家に強く依存する「固定票」のとりまとめは、集票効果が落ちている。原因は、社会の変化だけではない。選挙制度改革も選挙運動の枠組みを大きく変えた。
(地方の疲弊と選挙運動の方法は全く関係しない事柄です。彼は、いわゆる、どぶ板戦術は時代遅れで通用しないと言いたいのかもしれませんが、それと草の根民主主義や地方の反乱がどのように関係するのか不明です…というよりは、ヤッツケ仕事でよく見られますが、論理に不連続性があるのです。
昨日も、岡田外相がODA問題で言っていました。それは、現在生活に苦労している地方の人々の意識には、自分達を放っといて外国を助けるとは何事だという不満がありますが、実際に地方の人々と接して、世界で悲惨な状況にある人々の話をし、先進国としての責任を丁寧に説明すると理解を得られるということでした。
この発想は、空中戦と言われる選挙カーやTV出演から訴える戦術とは異なるもので、どぶ板戦術に通じるものです)


自民党の「後れ」を象徴した麻生総理の行動

 中選挙区時代の自民党候補は、同じ選挙区から立候補する他の自民党候補と戦わねばならなかった。佐藤氏のような新人は、自民党の公認を受け、十分な選挙資金を確保するため、自分の選挙区にまだ候補を出していない派閥の領袖に助けを求める必要があった。その上で、地方政治家など票をまとめられる地元の有力者を味方につけ、現職議員から票を奪い取ったのである。

 1994年、中選挙区制に代わって小選挙区比例代表制度が導入されると、こうした党内競争は姿を消した。ところが、社会が変化し、選挙制度も変わったのに、今の選挙運動は多くの点で40年前から変わっていない。
(選挙戦術を間違えたので自民党が負けたかのような印象を与えていますが、全く違いますよね)

 1つには、過去の成功体験にとらわれ、昔ながらの選挙を漫然と続ける自民党のベテラン代議士の存在がある。選挙組織は今もおおむね個人後援会を軸に組み立てられており、依然として利益団体や地方議員の票まとめを当てにしている。

 麻生総理が衆院解散後にまずしたことは、一般有権者への演説ではなく、支持団体幹部への挨拶回りだった。自民党がいかに社会から離れてしまったかを象徴する行動だと思った。自民党の黄金期には、日本医師会をはじめ、全国規模で影響力を持つ強大な支持団体が、地方支部を通じて自民党の公認候補を応援し、票をまとめてくれた。それが各候補の勝敗を左右したのである。今、組織票の力は確実に衰えている。政治家は以前よりも格段に露出を高め、有権者に直接支持を訴えなければならない状況にある。
(自民党と麻生首相がやった選挙運動は間違っていなかったんです。でも、時すでに遅しで、かつての自民党支持団体、特に地方の多くは自民党政治を見限っていたのです。自民党を支持するマスメディアにも助けられて、麻生首相を始めとする自民党議員たちの露出度は民主党議員たちの比ではありませんでした。それでも負けたんです)

 しかし、当時と全く変わっていないことがある。選挙規制である。
公職選挙法は、海外では考えられない非民主的な選挙運動規制を定めている。文書図画の頒布制限、候補者による有料広告の全面禁止、事前運動の禁止、戸別訪問の禁止に加え、さらに公示の日からインターネットを使った選挙運動まで禁じている。現代民主主義で許されるはずの有権者と候補者の交流、候補者に関する情報の入手が制限されているのである。

公職選挙法が改正されないのは言語道断

 こうした法律が改正されないのは言語道断で、成熟した民主主義国という日本のイメージに大きな傷がつく。公職選挙法による選挙規制は事実上、憲法で保障された言論の自由を否定している。
 選挙規制の多くは、旧自治省(現総務省)が、日本人は政治的に未熟で封建的な風習が残っているという理由で導入したものだ。戸別訪問など、非民主主義的な価値観に訴える選挙運動を規制しようとしたのである。

 しかし、もともとの動機がどうであれ、そうした規制が温存されているのは、新人から名前や顔を売る機会を奪えば選挙で有利になると考える現職議員と、今だに保護者のような立場で「未熟な」有権者を見下し、過剰規制が生む特権にしがみついている総務省の役人が、手を組んで規制を守っているからである。

 選挙規制は、運動資金に上限を設け、資金の流れを透明にすることと、票の買収など本当の不正行為を禁じることに限定すべきだ。21世紀にインターネットによる選挙運動を禁止するのは世界に恥じることである。公職選挙法による選挙運動の規制の抜本的改革を必要とする時代になったと思う。
(公職選挙法の改正には賛成ですね。運動資金に上限を設け、資金の流れを透明にするという点は特に重要ですよね)

小選挙区制が生んだ新たな問題

 佐藤文生氏は、自民党の現職2人と社会党の現職1人が立候補していた3人区で当選した。基本的には自民党候補3人の争いで、中選挙区制が生む党内競争の典型的なケースだった。1993年の政権交代で誕生した細川連立政権は、中選挙区制の見直しを強く訴えた。政権は短命に終わったが、数少ない成果の1つが小選挙区を軸とする選挙制度の導入だった。

 小選挙区制の採用で小政党は予想通り衰退し、日本の政治は2大政党制の方向に向かった。ただ、この制度は新たな問題も引き起こした。
(日本において何故、二大政党制が必要性なのかを彼は全く理解していないとしか言いようがありません)

 まず、党内競争には良い面もあった。佐藤氏の場合もそうだが、中選挙区制の下では、自民党の新人が自民党の現職を破ることが少なくなかった。自民党は1955年から93年まで一度も政権を失うことはなかったが、新人と現職の入れ替わりは比較的激しかった。
そうした党内競争があったから、自民党候補は高い緊張感を持っていた。自民党は勝っても自分は落ちるかもしれないという不安があったためだ。実力のない二世議員が議席を守るのも、今よりずっと難しかった。

 二世候補は、父親の知名度や後援会の力で1度や2度は当選できたかもしれないが、実力がなければ、同じ選挙区に候補を出していない派閥が、勢力拡大のチャンスとみて、新人候補を擁立し、世襲議員の議席を狙ったのである。

親の意思で政界に入った二世が多過ぎる日本

 小選挙区制の導入で党内競争がなくなると、実力だけでなく、政治家としての志さえないことも多い二世議員が議席を守るようになった。アメリカをはじめ、ほかの国にも世襲議員はいるが、日本が特殊なのは、自分の意思ではなく、親の意思で政界に入った二世があまりにも多いことだ。日本は政治に情熱のない政治家が多すぎる。

 党内競争がなくなると、自民党代議士に気の緩みが目立つようになった。知名度も組織力も資金力もない民主党候補を見て、自分は負けるはずはないと高をくくるようになったのだ。中選挙区制の廃止で党内競争がなくなり、緊張感も薄れた。2009年、自民党は緊張感のないままパニックになったのである。
(自民党が政党として機能しなくなったことと、選挙区制の問題とは関係ありません。政・官・業・マスメディアの癒着の構造が、最終的に自民党を自己崩壊させてしまったのです。正に、歴史的運命とも言えますでしょう)

 加えて、二大政党中心の政治は実現したが、選挙制度改革の支持者が予想したような政策本位の選挙は実現していない。小選挙区制の導入を訴えていた政治家やマスコミは、二大政党制になれば国内外の重要問題をめぐって両党が異なる政策を掲げるため、政策の違いが鮮明になり、政策本位の選挙が実現するという一種信仰に近い確信を持っていた。各政党が「マニフェスト(政権公約)」を示し、有権者がその優劣を判断する選挙を想定していたのである。
(自公政権が続いていたら政策本位の選挙が実現していたのでしょうか!?
あれだけ国民の支持を受けた小泉元首相ですら公約に関する意識は希薄なものでした。民主党は公約としてのマニフェストを掲げ、自公との対立軸を明確にしていたではありませんか!
自公は官僚が選挙直前に作成したマニフェストを掲げただけですが、何れにせよ、民主党の一つ以上の公約に賛同した有権者が多かったということです。
自公政権のままでは政策本位の選挙など、まったく望むべくもなかったことでしょう。それから、日本は未だ二大政党制にはなっていません。今回は、それに向けた大きな一歩を踏み出しただけです)


政策に違いがないため選挙が人気投票になる

 しかし、他の多くの民主主義国と違い、今の日本には社会の分断や、人種・民族・宗教・地域・言語の対立が事実上存在しない。自民党候補と民主党候補が、基本的に同じ多数派層に支持を訴える選挙区では、かなり似通った政策を掲げることになる。政策をめぐって世論が二分されない限り、政策の対立もない。政策や基本理念にこれといった違いがないため、選挙を党首の人気投票に変えようとする圧力が働く。
(二大政党制のまま年数を経てゆくと人気投票になり、各政党は国民に媚びてゆき、まともな政治判断・決断ができなくなるという不安要素はあります。
しかし、それ以上に大きな問題点は、国民全体に媚びるのではなく、一部の大きな利益団体(業界)に媚びてしまうという―正に、米国の実態のようになることが懸念されます。
誰も二大政党制が究極の選択などと思っていません。また、政党制も選挙区制と同様に、特定の目的を達成するための手段でしかないのです。
日本で二大政党制を経ることには大きな意義があります。それは、長期に亘った自民党政権が形成した腐敗しきった政・官・業・マスメディアの癒着体制を打破し、革新的な政治体制を創設することです。それは、他の先進国と同じものである必要はないのです。出来れば、世界に誇れる日本固有のものであって欲しいのです)


 中選挙区制が自民党の党内競争の「原因」になったという見方は多いが、問題はそれほど単純ではない。党内競争の「原因」は同一選挙区に複数の候補を出せるほど自民党の支持が厚かったことにある。
 自民党の支持率が低下すれば、公認候補の削減が必要になり、それに伴って党内競争が減ることになる。中選挙区制の廃止直前には、4人区と5人区が一般的だった都市部の選挙区で、自民党が複数の候補を立てることはほとんどなくなっていた。この数十年の価値観の変化や社会組織の変化を考えると、中選挙区制が続いていれば、緩やかな多党制に移行していた可能性が十分にあり、そのほうが今の体制よりも日本の社会に合っていたのではないかと考えている。
(著名な政治学者であるジェラルド・カーティス氏が書いたものではなく、代筆者がと邪推してしまいそうな内容です。自民党サイドの観点からのみ捉えてますが、選挙区制の問題であれば、民主党を始めとする他の野党にも同様の悪影響があった筈です。
要するに、何の選挙制度にも原因があるのではなく、国民の意識の向上とともに、自民党自体が自己崩壊させられてしまったのです。
勿論、将来、日本は多党制に戻るかもしれません。しかし、その移行も目的を持たなければなりません。何故、多党制に戻るのかという理由です。彼が多党制が日本社会に合っていると言うことは、日本社会は1955年以降、何ら変わっていないということなんでしょうか?
しかし、彼は変わったと言ってますから、他に理由があるとすれば、その方が米国にとってコントロールし易いということなのでしょうか!?)


 『代議士の誕生』で分析した選挙組織の基本的な特徴は、今もまだ見受けられるものが少なくない。一方で、この本の記述から大きく変わった面もある。したがって、今の現状と、昔の佐藤文生氏の選挙運動を比べることで、日本の政治がどう変わったか、何が政治を変えたのか、など様々なことが見えてくると思う。


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