ピッチャー〜技術論と経験値
ピッチングの奥義を会得している現役投手
現役のピッチャーの中で、ピッチングを奥義を知り尽くしている者は誰か?ひとりあげろといわれれば、私は真っ先に工藤公康(巨人)の名前をあげる。これまで455試合に出場し、175勝97敗3セーブ、防御率3.20.タイトルはMVP2回、最優秀防御率4回、最高勝率3回、三振奪取王2回、ベストナイン3回、日本一も西武、ダイエー、巨人で合計10度輝いている。
工藤公康の名前が一躍、全国区になったのは82年夏の甲子園である。愛知の名門・名古屋電気のエースとして甲子園にやってきた彼は初戦の長崎西高校戦で、いきなりノーヒットノーランを達成した。奪った三振、実に16。怪物の出現である。振り返って彼は語ったものだ。「真っ直ぐを真ん中高めに投げ、同じコースからカーブを投げておけば、まず打たれることはなかった。ピッチングとはそういうものだと思っていました。」
82年、一度は社会人野球の熊谷組入社を表明したが、西武のドラフト6位氏名を受けプロ入り。同期には槙原寛己(巨人)、源五郎丸洋(阪神)、金城拓夫(南海)と3人のドラフト1位指名選手がいたが、彼らは右腕ゆえに一年目からマウンドに上がることはなかった。一方、工藤は左のリリーフ投手として1年目、早くも27試合に登板した。1勝1敗、防御率3.41。28回投げて29奪三振と、1イニングでひとつの三振を奪った。サウスポーの強みが、そこには、はっきりと表れていた。入団した年のオープン戦で、早くも工藤は一軍からお呼びがかかった。喜び勇んで一軍に行くと、口の悪い先輩連中から「オマエ、何しにきた?」とからかわれた。あるコーチには「1週間もしたら下に行くんだろうから、せいぜい楽しんでいけよ」と肩を叩かれた。眼中にない、とはこのことである。
なぜ、実績もテクニックもないスポーツ刈りの坊主に声がかかったのか。理由はひとつしかない。彼がサウスポーだったからである。当時のパ・リーグには門田博光、レオン・リーを筆頭に名だたる強打者が揃っていた。サウスポーの工藤は、彼らを封じるための貴重なコマと見なされたのだ。「坊やは左を一人アウトにとってくれれば、それでいいんだよ」当時の監督である広岡達郎はまるでリトルリーグの少年でも見るような柔和な視線を向けて、そう言った。「もし右利きだったら、こんなに早く一軍のマウンドには上がれていなかったでしょう。いや、プロに入れていたかどうかさえ分からない」工藤はそう語った。リリーフで腕を磨いた工藤は85年から先発ローテーションに加わった。その年、8勝3敗、防御率2.76という好成績で最優秀防御率投手に輝いた。86年は11勝5敗、87年には15勝4敗、防御率2.41で再び最優秀防御率投手に輝いた。87年4月17日の近鉄戦では球団新の15奪三振をマークした。
日本シリーズでも工藤は大車輪の活躍を演じた。87年には2勝1敗をあげ、86年に続き連続MVPに輝いた。150キロ近い高めのストレートとドロップと表現したくなるタテに鋭く落ちるカーブが彼のピッチングの生命線だった。「若い時にしかできないピッチングでしたね」工藤は苦笑を浮かべて当時を振り返った。