切札〜ある「代走屋」のプロ根性
世界の盗塁王・福本が伝授した盗塁の極意とは?
ある日、青木は意を決して阪急ブレーブスの福本豊を訪ねた。福本はその頃、前人未到の900盗塁を狙う勢いにあった。走り屋稼業に生きる人間にとっては、雲の上の、そのまた上に仰ぎ見る神様的な存在である。100メートル、11秒台の足を持つものの、いざスチールの段になると、ためらいが生じ、足が縮んでしまう。暗中模索の海をさまよっていた青木は、ワラをも掴む気持ちで福本の元を訪ねた。そして、こう切り出した。「福本さん、盗塁で一番大切な物は何でしょう?」緊張のあまり、棒を飲んだように直立不動の姿勢の青木を見て、福本は考えた。<この男は生真面目な性格らしいから、一点だけ教えることにしよう。いくつも教えたら頭の中が混乱して、余計に走れんようになるかもしれん・・・>福本はいかにも、余裕のなさそうな青木の目をみつめ、スパッと一点だけ指摘した。「目やね。目が一番大切や。ウソかと思うたら何分でもピッチャーをジーと見つめとったらええ。必ず牽制する時とホームに投げる時のフォームが違うとるはずや。そのかわり、きっちり見とかんとわからんぞ」それは青木にとって神の啓示だった。その日から、青木のピッチャー観察が始まった。青木はベンチにいる時も、穴が空くほど神経を集中させてピッチャーをにらみつけた。すると、どうだろう。いままで何気なく見逃していたピッチャーのクセが、手にとるようにわかるではないか。たとえば、このように。「当時、中日の牛島は牽制にくる時、たいていアゴが下がるんですよ。逆にアゴが上がっている時にはだいたい、ホームに向けて投げる。しかし、向こうもさすがプロ。“クセに気がついたな”と、わかると逆にそのクセを利用してくる。アゴをわざと上げて牽制してみたりね。こうなるともう騙し合いですよ。こっちが次ぎから次ぎへとクセを発見すると、向こうは次ぎから次ぎへとクセを克服していく。もう毎日が戦いでしたね」また青木は早く走ることにも心血を注いだ。その手始めにスパイクを通常の製品より60グラム軽い特注の品に切り替え、ダッシュが少しでも効くようにと金具を1センチも前方にずらした。リードは、逆をつかれても帰塁できるギリギリの4歩半、この距離感を自分の“体感”として刻み込むため、来る日も来る日もヘッドスライディングによる帰塁練習を繰り返した。ここまでくれば、次ぎの塁に1秒でも速く到達するための「格闘」である。まるで何かに取り付かれたかのような青木の練習ぶりは、チームメイト内でも話題となった。