ジンクスとゲンかつぎ
夏の甲子園優勝投手


沖縄水産高校の大野選手は、甲子園で”殉職”した。A

 決勝戦の朝は、自分の激痛のうめき声で目を覚ました。窓の外を見ると、雨が降っていた。「このまま降り続いてくれ」大野は悲痛な面持ちで、空に願いをかけた。しかし、無情にも宿舎を出る頃は、雨は上がった。
 同校の裁弘義監督は報道陣を前に、こう気炎を上げた。「大野には死ぬつもりでやってもらいます。かわいそうだが、野球生活が終わるつもりで。やる時にはやらにゃあ・・・」沖縄に優勝旗がこんうちは、戦争は終わらん。ことあるごとにそう言い続けてきた裁弘義にとって、甲子園での”殉職”は至上の美学だったに違いない。
 しかし、それは「教育」に名を借りた全体主義的色彩の濃い「暴力」以外の何物でもない。さらにいえば、若者の犠牲の上に成り立つ勝利にはいかほどの価値もない。
 無念さを押し殺すような口ぶりで大野は語った。「雨で1日休みがあったからといって、勝てたかどうかはわかりません。しかし、あれよりは(16被安打13失点)まともなピッチングができたと思う。せめて腕が上がる状態で、決勝戦を戦いたかった。」
 その年の秋、大野は沖縄の病院で右ヒジの手術を受けた。右ヒジの剥離骨折だった。驚くことに大野は骨折したままの状態で773球を投げ抜いたことになる。「春の時点で実は疲労骨折していた。そこへもってきて甲子園で無理をしたため、骨片がヒジの関節のなかに入り、剥離骨折を引き起こしてしまった。もし、手術を受けなかったら、野球はいうに及ばず、日常生活も満足に営めなくなっていたでしょう。残念ながらピッチャー生命はすでに断念せざるをえない状態でした。それにしても、甲子園とは若い人の体を蝕むためにあるものなのでしょうか・・・」(沖縄県立南部病院・医師)
 大野の右ヒジには今もくっきりと手術の傷跡が残っている。「高校野球時代のクセで、今でも頭は左手で洗ってしまうんです。そのたびに、辛かったことや苦しかったことが頭に浮かんでくるんです。後遺症なんでしょうねぇ」右ヒジの傷跡は、同時に心に刻まれた傷跡でもある。