安倍内閣による小泉内閣が進めた構造改革の推進ってことは、金持ちは益々金持ちになり、貧乏人は益々赤貧に向かうということですよ − 赤貧といっても、死なない程度にですよ。死んでしまったら低賃金労働者の数が減り、経済界(企業)が困っちゃいますから。 資本の論理でそうなります。企業経験のある方なら、そのぐらいはお分かりでしょう。 本当に構造改革が必要なのは霞ヶ関の無責任極まりない官僚機構でじゃないですか! 東大の学者もマスコミも、多分、気兼ねや気後れでプロパガンダできなんでしょうね… 再チャレンジは重要な精神です。国家試験でも毎年再チャレンジできますから。でも、自民党の加藤さんは再チャレンジどころか、潰されちゃいましたね。 七転び八起きの人生を送って来られた方々もいらっしゃいます。TV等で紹介されたりもします。立派です。 しかし、無体な政策で蹴落とされた後で、再チャレンジしろと言われましても…どうなんでしょうかねえ? ライオンが我が子を谷に落として鍛えるような、そんな愛情表現だとでも言いたいんでしょうか!? でも、国家とか社会の目的や形態は、再チャレンジが可能であれば社会的に烙印を押されるような勝ち負けがあっても良い、ということはないんでしょう? そんなのは、今はやりの、"国家や社会の民営化"みたいなものじゃないですか。 分かり易く極論すれば、負けて死んじゃうこともあるでしょう。ありませんか? ここ五・六年間、今まで何回も人身事故で、中央線などの通勤電車が停まりましたね。その中には、いわゆる負け組の人たち結構いらしたんじゃないんですか。 それでも、再チャレンジ可能です、って骸(むくろ)に向かって言うんですか!? 勝ち組vs負け組というマスコミが好きな、コントラストが際だつ表現自体に、私はムッとするんです。 何故って、勝つ者がいるから負ける者がいるんでしょう。そりゃ、いつも同じ相手と戦うわけじゃありませんが、誰かを負かさなければ勝てないわけですよ。 私も子供の頃から一対一の勝負は好きでしたから、勝つのは好きですよ。でも、子供時代のケンカ(勝負)とはまるで違って、大人の世界のケンカは複雑(狡猾)です。 そこのテーブルの上には、お茶と皿に饅頭(毒入りではない)が3個あります。お腹を空かした大人三人がテーブルの椅子に座っています。一人は、3個あるから一人1個だなと無防備に構え、三人分のお茶を入れています。もう一人は、一応一人1個だが、誰か横取りしようとするかもな、と警戒してます。最後の一人は、こんな奴らに食わせるのはもったいない、おれが全部せしめてやると虎視眈々です。 三人にお茶が配られました。 さて、どうなると思われますか?頓智(とんち)問題ではないですよ。 間違いなく、虎視眈々と狙っていた奴が3個か2個取ります。2個の場合、もう1個は警戒心を持っていた奴が確保します。お人好しは、1個も食べれません。 それが大人の世界で行われているケンカ(勝負)の現実です。 それ自体が良いとか悪いとかいう問題は、別次元のお話しです。 それが自由主義経済活動のシステムなのです。 経済活動には、義理人情などという感情が入ってはならないんです。 「なるほど、分かったような気がする。ところで、三人とも虎視眈々と狙っていた場合はどうなるんだ?」 「現実により近づくけど、基本は一緒だね。表現がチョット込み入ってくるだけだよ」 「前置きはイイから、どんなふうになるんだ?」 「つまりだね、ケンカ慣れしている奴が勝つよ」 「なんだあ、それ? 子供のケンカと一緒じゃないか」 「いや、表現がわるかった。言い直せば、戦術に長けた奴になるね」 「腕力とか敏捷性とか、運動神経には関係ないのか?」 「多少はあるだろうね。だから、それに劣っている場合は戦術を練る必要があるわけだ」 「戦術って、たとえばどんな?」 「例えば、相手の二人に何かチョット考えさせることを言えば、その二人は一瞬、饅頭に手を出すのが遅れる可能性が高いだろう。あるいは、相手の二人が互いに牽制し合うように仕向けるとか…漁夫の利ってとこかな… 小泉さんが総理になった時みたいにね」 「なるほどな。しかし、そんなふうな戦術で絶対に勝てるのかよ?策に溺れるってこともあるだろ」 「ある科学者が言ってたけど、科学の世界では"絶対"という言葉を使っちゃいけないそうだ。でも、絶対温度ってのもあるので、おれには良く分からんが… 絶対というな!ってところは好きだね。だって、そうだろう。この世の中、絶対って言葉で表現できることが一杯あったら、面白くないんじゃない? おまえは絶対に敗者だ!とかさ、ハハハ」 「アホいってんじゃないよ! おまえだって使ってるじゃないか」 「まあね。信じていることを伝えたい時に、"絶対"という言葉は便利だからね。だけど、それは絶対じゃなくて、信じているだけなんだよね」 「しかし、おまえ、ホント横道に逸れるのが好きだねえ。疲れるよォ。 それで、その戦術とやらに長けた奴が勝つようになってるのか?」 「そうだよ、極論すればね。でも実際は、そうでもない。 公正な競争では、不確定要素が多すぎて分析しきれないんだよ。間違った戦術を立てて墓穴を掘ってしまうこともある。つまり、今のところ完璧な戦術なんて無いってことだ」 「あ〜あ、それじゃ一体だれが饅頭をせしめるっていうんだよ!」 「でもやっぱり、基本的に戦術に長けた奴が勝つよ。目的意識の強い奴がね。集中力ともいうけど」 「腕力に訴えるのは戦術じゃないのか?」 「もちろん、それも戦術だよ。でも、それじゃ勝てない。一人を殴っている間に、もう一人に取られちゃうから漁夫の利になってしまう。現実の世の中は漁夫の利も多そうだけどね」 「とにかく、絶対に勝てる方法はないってことだな」 「それが公正に行われる競争ならね… 」 社会の中で競争に勝ち続けるためには、不確定要素/要因を出来るだけ少なくすることが必須条件なんですね。 もちろん、天才的な方々は不確定要素/要因を排除する方法に長けておられるんでしょうが、大多数である天才ではない人々はそうはいきません。しかし、勝ち続けたいわけです。 例えば、偏差値が高いといわれる学校の入学試験に合格するためには、その学校の出題傾向を知る必要があります。それを市販されている本で知ろうとしたり、また、その方面で有名な塾や実績のある家庭教師を利用したりします。そうすると、そうしなかった競争相手よりも有利になりますよね… 私のような庶民にとっては負担できそうもない大変な出費になりますけど、金持ちにとってはチョット子供にお小遣いを、ってな感じのレベルなんでしょうねぇ。 そりゃあ、金持ちの方が有利ですよ。 いくら金持ちの子供だからといってもバカはバカだろう、っておっしゃりたいんですか? バカはバカだってことに、今は反論するつもりはありませんが… 一般的にビラミッド型といわれる社会構造とは違って、"資質"という点から人間を見た場合はピラミッド型の分布ではなく、極端に腹の部分をふくらませた樽型のようですよ。つまり、本当に優秀な人も少ないですが、本当にバカってのも少ないってことですね。 ですから、一番はげしい競争に晒されていますのは、こういう言い方は好きではないんですが、優秀でもなくバカでもない大多数の普通の人達なんです。そういうわけで、厳しい競争下にある普通の人々の中では、不確定要素の排除に関するチョットした有利性でも好結果に結びつくことが多いんですね。 つまり、似たような資質をもった人達の中での競争では、金持ちの環境に生まれた人々の方が手段的に有利で、かつ社会的勝者になる確率が高いといえます。当たり前といったら、それまでです… 念のために申し上げますが、私は、その社会的勝者になることが良いことだと決めつけているわけではありませんよ。 まだ反論したそうですねえ。たとえば、没落した金持ちや金持ちの家族の中のオチこぼれとか、貧乏人の家庭に育っても金持ちになったり社会の偉人になったりした人達がいるとか、じゃありませんか? そりゃあ、私だって、 「目的を持って一生懸命努力し続ければ見てる人(神様?)は見てるので、いずれ報われる時が来るよ。金持ちでも遊んでばかりいると、あんなふうに落ちぶれてしまうからね。あの人をご覧、お家が貧乏だったけど努力したお陰で、あんなに立派な人物になったじゃないか」 と子供たちには言いたいですよォ。それも嘘ではありませんものね… そんなことまで否定するつもりはありません。 でも、それでもって金持ちの一般的な有利性を否定できるんでしょうかねぇ? 経済活動における競争は、スポーツの世界の競争/勝負とは異なり、平家物語のように勝つ者もいつかは負ける/引退するというものではありません。もちろん例外はありますが、ある程度のレベルまで勝ち上がった勝者は、一般的にはそのまま勝ち続けます。勝者は、金に糸目を付けず、あらゆる手段を講じて永久に勝ち続けることだけを考えています。 継続的な勝者は強いですよう〜、本当に。 情報収集力が凄いです。給料を高く払えますので、より有能な人材を確保できます。従って、企画力も上がります。外部で優れた技術が開発された場合、それを買ってしまうことも可能です。 ある大手の自動車塗料メーカーの部長が面白いことを言っていました。彼らは大手自動車メーカーに対して非常に立場が弱いんです。 「御社と、もう一社の二社だけで自動車塗料の80%以上を供給なさっているんでしょう。 それなのになんで大手自動車メーカーに対して、そんなに弱腰なんですか?」 「我々が強気に出ると、彼ら(大手自動車メーカー)は自分たちで自動車塗料をつくってしまうからだよ。特に、最大手はそうだなあ」 「自動車塗料の開発には相当の技術力が必要ですよね。彼らには、その技術力があるんですか?」 「ないよ… 」 「ないって!? それじゃ〜、つくれんでしょう」 「いや、つくれるよ。 彼らは、我が社や、もう一社の優秀な技術者達を高給で引き抜くだろう。塗料の製造は、中堅の塗料メーカーを手直ししてやればイイだけだから、彼らにとっては難しくないだろう」 「杞憂じゃありませんか?彼らも、そこまではやらんでしょう」 「いや、我々の対応次第ではやる、と最大手は言ってるよ」 「単なる脅し文句じゃなく!?」 「脅し文句じゃなくだ…」 要するに、金持ちは更に金持ちになってゆくわけです。これが資本の論理というやつですよね。 現代政治の目的って何なんですかね? 政治家の皆さんや有識者の方々は分かっておられるのかなあ、と思うことが度々です。 エッ!? お前は分かっているのかってお訊きになるんですか? そりゃあ、私には分かりませんよ、専門家でもないですし… 専門書などでは、「政治の目的は政策の選択とその運営」とかなんとか書かれている場合がありますが、何か「手段」と勘違いをしているようにも思われます。 ところで、政治って何なんですかね。政治とは?が判ってないと目的云々しても始まりませんよね。 専門書によりますと、政治とは「国内や国どうしでの権力の配分や権力の行使のされ方」とか「社会に対する価値の権威的配分」などと定義されているようですが、 要は、政治とは「社会(国際社会も含め)において利害対立の調停(調整)をすること」になるようです。 何のためにそんな調停をするかと言いますと、社会の安定を保つためでしょうねぇ。安定した社会が良いとは、勿論、一概には言えません。安定した社会が、ある特定の人々にだけ有利な状態になっているということは珍しくありません。歴史上、そのようなケースが殆どのようですね。 しかし、極度の対立関係を残したままの表面的な社会の安定は、その安定を謳歌している特定の人々にとってさえ、決して満足のゆくものではない筈です。だってそうでしょう、絶えず攻撃される不安を感じながら、その安定を守ってゆくことになるわけですから… 資本の論理による特定の人々のための安定ではなく、社会における利害対立の調停(調整)が大多数の人々に支持された安定が望まれるわけです。これが全体主義ではない民主主義に基づく「現代政治」の目的なんではないでしょうか。 「競争」とは、元来、生存競争のことだったんではないですかねぇ。生命を維持し種族を保存するための環境には限りがあり、そのために種族内や他の種族との生存競争が繰り広げられて来たんではないんですか? それは生きるための競争であり、より生命力の強い個を残し種族の保存をより強固なものにするための競争です。それ以上の競争は、生物にとって本来必要なかった筈でなんです… それなのに何故、人間社会だけは、それ以上の競争を助長してきたのでしょうか? 勝ち残り続けてゆく人間達が、人間がオールマイティーとして想像した「神」により近づくためなのでしょうか? 競争あるが故に人間社会の進歩発展があるとか言われます… (共産主義社会に対して資本主義社会を正当化するために良く利用された言葉でもあります)… 進歩発展の究極は何なんでしょうね?それは、つまるところ、社会の勝者達が健康な体で限りなく長生きすることなのでしょうか? いずれ技術の進歩が、古いHDDから新しいHDDにデータを移し替えるように、古い人間の脳にストックされている全てのデータを、そのクローンの新しい脳に移転させることも可能にするでしょう。そうなると、勝者達は永遠の生命を得ることも可能になりそうです。それが社会の進歩発展の究極なのでしょうか!? 世の中には様々な人々がおります。競争で打ち勝ってポルシェを乗り回したいと思っている人々やコンパクトカーや軽自動車で満足し、能力云々は関係なく、それ以上の競争は望まないという人々もおります。金額的に高い競争を望まない人々は、社会において、それなりに価値の低い存在なのでしょうか? 人類が生きる術(すべ)以上の知恵を持つ(持った)が故に、本来の目的とは掛け離れた、自分はあの人達よりは勝るという不遜な意識を持つことによってだけ生き甲斐を感じるようにさせてしまう、そんな競争が蔓延るようになったのでしょうか… 社会全体のパイ(価値)の大きさには限りがあり、一部の人々のパイの取り分が大きくなればなる程、他の人々の取り分がそれだけ少なくなるわけです。競争の勝者がパイを敗者よりは多く取るということは自明の理としましょう。 しかし、程度問題があります。国力(?)を反映した最低限の文化的生活を保障できないぐらい残りのパイが小さくなってしまう程に勝者達を優遇してしまったとしたら、それは政治上の大きな問題ではないんでしょうか!! |