指示待ち人間

「窮すれば鈍す」とはよくいったものだ。 切迫感に襲われて、プレッシャーというものは、こういうものなんだと再認識させられてしまう。 すべてが袋小路に押し込められたかのようだ。

分からせるために、感じさせるために文章でもって表現する。勿論、それはベストの方法とは言えない。この場合は「目は口ほどにものを言い」は当たらないが、「百聞は一見にしかず」とは本当に当を得たものだ。
言葉・文章で表現するよりは、イラスト・写真や音で表現する方が、相手に細部にわたってイメージを与えることが可能だ。
レーシングカー

現代人の多くは「速さ」を欲している

現代の人々の多くは、意識せずとも「速さ」を欲している。それは乗り物だけではなく、理解する速度もだ。時間を掛けて理解するようなことは、やりたくないと思っている。時間の掛かりそうなことは、取りあえず脇に置いてしまう。
まるで、自分で考える時間・余裕を持ってしまうこと自体に不安を感じてしまうかのようだ。

プロ野球の野村監督がよく言っていた「指示待ち人間」という言葉には含蓄がある。
彼は、今の若い人達は「指示待ち人間だ」、こちらから指示しなければ、自分で積極的に何かをやろうとはしない、という。実際に、当を得た表現だと思ってしまう。

若い人達だけだろうか? 年配者たちを含め、広範囲にわたる多くの人達が「指示待ち人間」のような気がする。正に、パソコンが出す結果のごとく… インプットすれば、その後の過程が分からなくとも、プログラムされたソフトは結果を出してくれる
ものごとの仕組みが複雑になりすぎて、みんなが考え理解することに辟易してしまっているかのようだ。
可愛い男の子の打者右打者が監督に、流し打ちが出来ないんですが?? 答えは二つの可能性をもつ。一つは、それじゃあ、おまえに二番は無理だから… もう一つは、こうすれば打てるようになる。極端な言い方をすれば、彼は、なぜ二番はダメなのかには興味はなく、また、何故こうすれば流し打ちが出来るのかにも興味がない。彼が関心を示すのは、二番はダメで何番なら良いのかということと、本当にこうすれば流し打ちが出来るのか、ということだけだ。

ものごとの途中・過程が抜け落ちているのだ。自分のことさえ伝えれば、過程はパソコンがやってくれるように、黙って待っていれば結果がでてくる。自分は、その結果に反応しさえすればイイ… 二番がダメなら何番だったらイイんでしょうか? とか、分かりました、この方法でやってみます、とか。

急いでいる時に、地元の人に近道を訊く。それならね、そこを右に曲がって真っ直ぐ行くとコンビニがあるから、そこの交差点を右に曲がって… どうして二度も続けて右に曲がるのか一瞬疑問に思っても、礼を言って走り出す。地元の人だから信用できる筈だという思いがある。

経過ではなく、結果が早く知りたい

日常生活の中で、みんなが急いでいるようだ。経過はいい、結果を早く知りたい、と。
修理サービス店で修理の説明を受ける。で、直るの直らないの、どっちなの! 修理の過程などに関心はない。出せる結果を早く知りたい。
実験中の化学者
アインシュタインに物理学あるいは真理探求の将来を憂慮させた、不確定性原理をキーコンセプト(?)とする量子力学の学者が言ったという、「我々の理論が正しいことは、ロケットが月に到着したことで証明された」と。何なんだ!? サッパリ分からん。


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