A 1940年代の戦中・戦後の窮乏時代を経て1950年頃(昭和30年頃)は全国の洋裁学校の生徒数は29万人と云われ、空前のブームとなりました。洋裁校は全国に
連鎖校が開設され、その影響は今日も継続して居り、文化・ドレメの連鎖校は150校を超える数を擁しております。
B 特記すべきは各洋裁校で教育される製図方法はイギリスで始まったミッチェル式と云う方式です。背丈・バスト・ウエスト寸法から各部位の寸法を
『割り出し方式』で計算して原型を描画する方式です。これは学校によって様々に工夫され、色々なバリエーションがありますが平面上に『体型の形』を
描いて原型とし、それを展開して色々なパタンを作成する方式では共通しています。
C 戦後に既製服業界が再出発した時代、これ等の洋裁学校の卒業生が企業でデザイン・パタン作成を行い、それを商品化する為の工業用パタンに再生
して商品を製造しました。パタンは個人体型の注文服を目的に作られたパタンをその儘、多量生産の商業用に転用したと申せましょう。
D 1960年代、漸くパタンの不備が痛感され、オリンピックの頃にアメリカのプラッツ大学から『大野順之介』先生が来日され、婦人服組合主催の
セミナーで『ダミーによるドレーピング』を教えられ、立体裁断で原型を作成し、それからデザイン・パタンを展開する方法を学んだのです。爾後パタンナーの
の努力により西欧に匹敵する水準にまで到達した、と云えるでしょう。
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E 1980年代は昭和40年頃からの経済発展の絶頂期を経て1990年代のバブル崩壊期を迎えます。この頃のパタン技術にはCADが導入され、グローバル化と
相俟ってCADは企業の生産過程でパタン操作の中枢を占めるようになりました。
F 以上が1920年頃からのパタン技術の概観ですが日本では『割り出し原型』が先に普及し、後になって『ダミーによるドレーピング』が広まりましたが
西欧では伝統的(原発生的に)にダミーによるドレーピングが行なわれ、此れを家庭の洋裁として普及すべく『ミッチェル式』が考えられた様です。
(ロンドンのロイヤル:アカデミー・オブファション談)
ドレーピングの教育は一度に教えられる人数に制約があり、且つ長期間の修練が必要ですが『割り出し原型』は多人数でも短期間でも容易に教えられる、
という特徴があります。